承前 (その一)「汝自身を知れ」は自己認識を意味しない 承前 (その二) 「我思うゆえに我在り」は自己の存在を意味しない C 読書は作者が言いたかったことを理解することではない。実際に自分のものとなるような真の命題を身に装備することである。 引用 p406(Bの引用にすぐ続く部分)...
フーコー『主体の解釈学』の対話のやり方(その三) 読書は作者が言いたかったことを理解することではない。
フーコー『主体の解釈学』の対話のやり方(その四) ソクラテスの弁明からの引用
承前 (その一)「汝自身を知れ」は自己認識を意味しない 承前 (その二) 「我思うゆえに我在り」は自己の存在を意味しない 承前 (その三) 読書は作者が言いたかったことを理解することではない。 まとめにかえて 哲学対話の観点に限定しても、600ページを超える『主体の解釈学』はあまりに内容豊かであり、私には到底まとめるなどということができません。いや、まとめるなどということはわかった気にさせるという観点から、避けられねばならないでしょう。ほとんどの人が、まとめられないばかりによく分からず、そのよく分からなさに忍耐強くならないで、考えることを放棄するわけですが、それこそが、ここで糾弾されるべき当のことではないかと思われます。汝自身を知ることも、省察も、書くことや読むことも、ひと時どころか一日一夕には成らない訓練だということが、ここでは言われ続けていたことなのだからです。...
フーコー『主体の解釈学』の対話のやり方(その一) 「汝自身を知れ」は自己認識を意味しない
フーコー『主体の解釈学』は、世間に流布する哲学そして対話に警告を発しています。 最も有名な哲学の言説のうちの二つ、「汝自身を知れ」、「我思う故に我あり」。自己認識と自己の存在を言っているかに見えるこれらの言説が、どれほど誤解されているかを、『主体の解釈学』は教えてくれています。そのことは、主体的な学びとしての哲学対話がいかに安くて手頃なものと見積もられているかを気付かせてくれます。哲学や哲学対話は、哲学者にとってさえ遂行することが困難な訓練なのです。哲学や対話がもてはやされ流行の兆しさえ見せる今日であるからこそ、哲学はとても難しい、哲学なんてほぼすべての人に無関係だ、という耳障りな真実を伝える必要がありましょう。それこそがソクラテスの親切心であったのですから。 ミシェル・フーコー講義集成〈11〉主体の解釈学 (コレージュ・ド・フランス講義1981-82) ...
きみもやってみよう!哲学ごっこ
人生について哲学は何を語りうるか 『哲学の教科書』からの3つの引用
「人生は一人で悩んでいていいんだ。人生の話なんて誰ともしないで、一人で考え続ければいいんだ」。それを教えてくれるのが哲学の魅力であり、哲学の先生に期待してよい(唯一の?)徳であるように私は思います。このページの概要
驚くべきタイトル
大森荘蔵
中島義道『哲学の教科書』からの引用
中島義道『哲学の教科書』講談社1995年第一刷 第2章 哲学とは何でないか 第4節 哲学は人生論ではない
いかなる哲学もいかに生きるべきかを教えない
自分の行為に照らしながら丹念にその意味を検討してゆくこと
哲学は人生そのものに対する懐疑や不快や絶望のために自殺できるほどの甘えた思い込みではない
まとめにかえて二つの注目点
哲学史を「阿呆の画廊か?」と問うたヘーゲルは、哲学対話を「阿呆のお喋りか?」と問いはしないか。
以下は近代の哲学者でもっとも有名な人の一人であるヘーゲルの哲学史についての長い引用です。主人と奴隷の弁証法やアウフヘーベンなどと並んで、「阿呆の画廊」はヘーゲル語の中でもよく知られているもので、もはや哲学の常識の一つに数えてもいいくらいのものかもしれません。 哲学史は阿呆の画廊か?これがヘーゲルが突きつけた問いであり、もちろんヘーゲル自身にとっての問いでもあったわけですが、哲学対話は阿保の画廊、あるいはもっと、阿呆のお喋り、ではないか。この問いを哲学対話は避けて通れないように思われます、哲学対話に真摯に取り組むならば。この問いに心当たりもないというのでは、哲学対話をもはやすでに何かのイデオロギーと取り違え、哲学対話についての対話と反省を拒否する熱狂的な哲学対話教徒だとしか、私の目には映りません。...
プラトンの反出生主義? ”どんな生き物にとっても、生存というものは、そのそもそもの始めの時から苦難なのだ ”プラトン『エピノミス(法律篇後編)』973D
いや、私は別に、こむつかしい話をしているのではありません。こんなことには、ギリシャ人でも、よその世界の人でも、人間なら誰でも、何らかのかたちで気づくようになるものです。要するに、それは、どんな生き物にとっても、生存というものは、そのそもそもの始めの時から苦難なのだ、ということですから。つまり、まずはじめに胎児の状態を味わい、それから今度は生まれ落ち、そのうえさらに、体を育ててもらい、それから教育もつけてもらう、これらを全部合わせてみると、「受け入れていかねばならぬ難儀は、到底数え切れぬ」のです。確かに、あらゆる人がそう言っている通りです。それに、一生のうち、痛々しい目にばかり会っている時期などは論外なのですから、満足すべきだ、と誰でも認めるような境遇が得られる時期だけを考えることにすると、これがまた、実に短いものでして、その歳月などを数えてみることさえ無駄でしょう。もちろん、この時期は、...
哲学は知識に限定してのみ学べるし、教えることができるのだ。これが、謙虚な哲学者の姿勢ではないだろうか?
ガレス・マシューズ『子どもは小さな哲学者』からの10個の引用、子どもとの哲学対話のやり方
子どもとの哲学対話のやり方 子どもの哲学に関して、世界的にもっとも重要な貢献を果たした人の一人はガレス・マシューズでしょう。彼の『子どもは小さな哲学者』には子どもとの対話の実践が数多く記録されています。その記録と彼の考察は、哲学の本質もある光を当てるという点でも、非常に興味深いものです。 そんな子どもの哲学に興味を持つ人なら必読の著書から10個所の引用をし、著書の紹介にしたいと思います。引用の最後の一つは、マシューズが自分の息子と行った対話のやり方です。子どもとだけでなくとも、だれとでもできそうな対話のやり方なので試してみてはいかがでしょうか。 このページの概要 哲学するのはごく自然な行為である パパが二重に見えないのはどうして?だってぼくには目が二つあるし、片目ずつあけてもパパが見えるよ 問題点の重要性を、「からだで」感じとっている ピアジェが迷いに対してまったく鈍感らしいということ...