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社会の求める問いはなんぼのものか?

喜劇精神がいかなるものであるか、ここに実践してみようと思う。喜劇精神とは、敬愛する松本正夫の言うこれである。

 イデオロギーは互いに排他的にそれのみを信奉する独断性の要求からいつかは聖戦思想にゆきつくことが多いが、むしろそれなればこそ反って一層対話的に共存することが要求される。哲学者のとりくむ問題性は実はイデオロギーないし「思想」の問題性以外のものでないから、哲学者はむしろ自ら意識して党派性を採り、問題性の中に体系を見出す「方法」の精神に則って辛抱強くこの党派そのものを対話に持ち込む用意がなくてはなるまい。ソクラテスは明らかに誤解されたが、実は哲学者の誤解されてはならぬ「喜劇精神」がここにある。信念的独断的な党派を自らの哲学として心ゆくまで展開して、展開しきったところでそれを他党派との相対的対話に持ち込むこと、ここに絶対の相対化としての「諧謔」がある。けだし党派の伝統を真に自己のものと主体化し、それに独自の発展を齎すもののみが、対話の姿勢に移行できるのである。要するに喜劇精神とは偏していることの効用をしった上で自ら偏することを敢えて企図する、充分に意識された党派心であり、それは自らを公平とする無意識の党派心から生じてくる聖戦思想とはおよそうらはらである。無意識の党派心こそ無党派の意識と同様甚だ危険であり、度しがたきものである。

『存在論の諸問題』松本正夫 まえがき ⅷページ

そういうわけで、こうである。

カフェフィロは、参加者とともに考えることのできる安全な場をつくることを目指しています。

カフェフィロは2005年の設立以降「社会のなかで生きる哲学」の可能性を探求し、その実現を目指した活動を続けてきました。日本で哲学カフェが開催されるようになってから20年以上が経ち、哲学的な対話の場は私たちの想像を超えて、多くの方々によって、様々な形で開催されるようになっています。

特に新型コロナウイルスの流行以降、オンラインでの対話が急速に広まっています。哲学カフェは2011年の東日本大震災以降に開催数が増えたといわれていますが、社会の大きな転換点において哲学が果たす役割の可能性を私たちは改めて感じています。他方、対話の場が広まることで、誰もが安心し、ともに考えることのできる場のありかたについてもこれまで以上に検討する必要性を感じています。

哲学的な対話の場では日常の人間関係から離れ、多様な背景・価値観を持つ人たちと、普段は話さないようなテーマについて話し合うことができます。しかしそのような場であるがゆえに、何気ない言動が差別的なものとなり、他の参加者の尊厳を貶めてしまうことも起こる場合があります。とりわけ、誰もが参加できるオープンな対話の場は、性別、年齢、思想、過去の経験だけでなく、病気や障がいの有無、国籍、民族や性的指向、性自認、社会経済的状況など、様々な軸において立場や力関係の異なる人々が参加する場であり、対等で安全な話し合いの場の実現が大きな課題であるということを、私たちは改めて確認しておきたいと考えています。

哲学カフェや哲学的思考の場は特定の組織が独占的に担うものではなく、多様な形での実践がありうると私たちは思っています。しかし「社会のなかで生きる哲学」の実現を目指すカフェフィロは、人々の尊厳が守られる場のあり方を今まで以上に重要な問題として検討・議論していきたいと考えています。そうすることによってこそ、真に自由な哲学的思考の場が開かれ、哲学を社会に生かす文化が築かれていくと私たちは信じています。

2021.5.17 カフェフィロ正会員一同

http://cafephilo.jp/news/philosophy-1987/

 これをみたとき驚いた。そして少し冷静になってから考えようと思ったが、冷静になるだけの時間を置くと今度は忙しさにかまけて考えなくなることが目に見えていると思われた。そこで、思いついたことを書いておく。

「参加者とともに考えることのできる安全な場をつくることを目指しています」という一文目には仰天した。真理を目指しています、というのならば分かるのだが、もっともそんな自明で重要なこと表明されないだろうが、とはいえ、これ以外の哲学対話の目的はありえないと私は考えている。それゆえに、「参加者とともに考えることのできる安全な場をつくること」は哲学対話にとっては付随的なものにすぎず、あくまで結果的に安全な場がもたらされるというにすぎないために、私にはこのような表明が「お知らせ」という形であってもなされたということに、まさかそんなはずがあるだろうか、と疑いを抱かざるをえない。安全な場をつくることが哲学の目的ではなく、真理を求める活動のゆえに安全な場が結果としてもたらされることにはなる、という点については、これまで口が酸っぱくなって唇がただれ落ちるくらいには言ってきたのであるが、どうやらやはり、まったくもって私の批判は差別的でも尊厳を踏みにじるものでもないがゆえに耳にも入らないのか、それとも、もはや自明なことであって反論も必要なものではなく当然の真理として受け取ってもらっていていまさらながらに賛成(酸性)であることをいちいち言うのも口が酸っぱくなりすぎるし何しろ面倒であってそれくらいにもはや普及したものとなっているのか、のどちらかであろう。後者である場合には、昨今の哲学対話は、私の許可もなし消費し続けているのだとすると、そろそろ私も申請していた特許に関して審査請求をしてその権利を主張し、大儲けをしなければならない。

 正直なところ、かかる「お知らせ」の文章のいちいちに問いただしたい箇所があるのだが、最初の文をとりあげたので、次には最後の文をとりあげるだけにしておく。いうまでもなく、わたしがここで行っているのは単なる問いかけなのであるが、それを真に実現するためには事前にショック療法のようなものが必要なのであって、その点を了承してもらえそうにない、単純な批判や非難にすぎないと思い込む単細胞連中どもに対しては、「弁明」はしない。

 「真に自由な哲学的思考の場が開かれ、哲学を社会に生かす文化が築かれていくと私たちは信じています。」ということなのだが、哲学を社会に生かす文化、というのがどれほど重要なものなのか、それがどれほど大切なものなのか、私には見当もつかない。私にとっては、それが文化であるのならばほとんど考慮に値しない代物である。哲学は、そもそも社会とは何であるかさえをも問いうる。それゆえに、哲学は文化の一つではないし、文化によって成立したようななにものでもない。仮にももし、文化によって哲学が生かされるなどということがあったとしても、そのような哲学とはいったいなんぼのものであろうか。
 少なくとも人類が誕生してこのかた、哲学を生かすような文化など存在してこなかった。そしてこれからも存在しないであろう。いかにして哲学が文化によって生かされるか、という問いは、なるほど問いである限りにおいてはおもしろくなさそうとは言い切れないけれども、問うべき問いであるだろうか。問うべき問いであるというふうには、私には思えたことがない。哲学が社会の中に生きるなどということが、そもそもあるはずもないと考えることを私はやめることができないからである。私にはどうしても逆に考えることしかできない。社会は哲学によって、哲学の対象となることによってはじめて哲学の中で社会が生まれるというはずのものだ、というふうにである。そうでないと、社会のうちに哲学が存在する、などという途方もない誤った考えに導かれることになる。「社会」とかいうわけのわからないもののうちに、哲学が「存在する」などというのが、問われさえもしなくなるということなのだからである。
 ともかく真理が私に教えるところによれば、社会こそはむしろそれを思考の対象としえた哲学による産物なのであって、社会がその文化や土壌を用意して哲学を産んだというのは、社会の妄想にほかならない。なるほど、社会学者やその他の人々はその妄想のお花畑に草をはんでに生きることも可能な羊たちなのであろうが、少なくとも哲学者は、そのような社会の夢からは覚めて(また別の真理の夢のなかに)いる犬(儒派)でなければならないと考える私は真面目すぎる羊飼いなのだろうか。

 何度でも強調しておくが、以上のような考えは、いうまでもなく、カフェフィロの当初の活動の理念「社会の中で生きる哲学」に対して立てられていた私の問いにほかならないのであって、問いであることを理解せずに誹謗や中傷ととらえる人がいるなら、それは好きにすればよい。

 どれほど言ってもわからない人々のためにではないが、言わねばならないことは、ある。社会が求める哲学、社会が期待する対話の場、社会が望む真理、こうした一切合切を問いに付すことができるのでなければ、およそ哲学ではありえず、対話もなされることはなく、真理が求められることもない、と言いたいだけのことである。いいかえれば、哲学が社会の求めに応じようとするとき、まさにそのときに問いを立てることができなければ、いや、問いを立てざるをえないというのでなければ、およそ哲学の名に値する何をもなしていない、と言いたい。安全な議論の場や他人の尊厳を守ることが社会が求めていることなのであれば、社会がその性急さでもって差し迫って求めているのならばいっそうなおさら、その社会の求めに応じてしまおうとすることに対して、最も用心深く警戒し、それがなぜなのかを、まず持って率先して執拗に問いただすのでなければ、いったいどうして哲学などといえようか。哲学に唯一、社会に貢献する効用があるとすれば、まさにそのように執拗に問いただす全くふざけた悠長な態度が、何か恐ろしく重要なものをもたらすからではないのか。

 哲学のはじまりの時期に対話を求めたソクラテスが、はたして社会に求められる問いを提起したことなどあったであろうか。社会が求める問いが、いったいなんぼのもんやと問うたのではなかったか。

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Y先生には「君には言いたいことが何かあるのは分かるけれど、それが何であるのか分からない」と言われ、H先生には「何かの本質をつかんでいるとは思うけど、それが何かってことだよね」と言われたと話すと「それはそのままthe third manさんのキャッチフレーズになりますね」と。

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