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Authorthethirdman

Y先生には「君には言いたいことが何かあるのは分かるけれど、それが何であるのか分からない」と言われ、H先生には「何かの本質をつかんでいるとは思うけど、それが何かってことだよね」と言われたと話すと「それはそのままthe third manさんのキャッチフレーズになりますね」と。

大森哲学のグロテスクとやりすぎ

中島 義道 – 単行本 生き生きした過去 大森荘蔵の時間論 p123 ここまで「立ち現われ一元論」をたどってきて、あらためてなぜ大森先生はこれほど世界をグロテスクなものとして見ていたのだろうか、という単純な疑問が湧きます。初めはそれしか知らなかったので、「そんなものか」という程度の印象しかありませんでしたが、その後数々の哲学理論を学ぶにつれて、これほどグロテスクな哲学理論も珍しいものだ、ということがだんだんわかってきました。学生時代に先生にどのように哲学をするべきか、尋ねたことがあります。すると、意外な答えが返ってきました。  やりすぎることです。直感的にある考えが正しいと思ったら徹底的にやってみる。毛沢東のように、やりすぎなければ革命はできません。 ...

哲学的な人ほど相手との対話を重んじたがる軽率な理由

そういう考えもあるとは思いますが、私とは考え方が違います。また、最初のツイートには「哲学対話が社会にマッチすることは、これからも永遠にない」みたいな断定が含まれているのですが、何かを断定したいなら、しっかりとしたデータや根拠をまずは提示するのが最低限必要ではないでしょうか?— 山野 弘樹 / Hiroki YAMANO (@Ricoeur1913) August 12, 2021 どこの馬の骨かもわからぬ私のような犬のごとき哲学者に対し、非常に丁重に御返事をいただきありがとうございます。誠に感謝の念に耐えません。研究者などの非常に真面目一徹な方には、はじめにお断りしなければなりませんが、弊ツイートの芸風を、予め必要以上にご承知いただき、思考の漏れなきよう対話を致し賜ればと存じます。 私からは2点質問があるのですが、お答えできる範囲でお答えいただくようお願いできますでしょうか。...

中畑正志『はじめてのプラトン』レビュー

 非古典研究者によって書かれたプラトンについての概説書や入門書は読むどころか見るに耐えないものばかりだが(例外は『プラトンと資本主義』くらいか?)、古典研究者によって書かれたプラトン入門書はどれを読んでも、いろんな意味でおもしろい。本書もまた後者の一つであって、とくに対話篇論と魂論が印象的だったが、個人的には、イデア論をさらに考えるために設けられたコラム3(p242)がとくに魅力的であった。というのもイデア論の申し子、第三の人間論が論じられたも同然であったからである。...

カント『プロレゴーメナ』より、笑える一節

プロレゴーメナ・人倫の形而上学の基礎づけ (中公クラシックス)   カント pp8-9  形而上学が学問であるなら、形而上学が他の諸学問のようには全般的持続的な承認を得られないといったことがどうして起こるのだろうか。また、形而上学が学問でないのなら、形而上学が学問であるかのようなふりをして、たえず気取った様子を示し、人間の悟性を欺いてけっして消えることのない、それでいて満たされることのない希望をいだかせるといったことがどうして生じるのか。そこで、われわれにとっては、自分の知を論証することになるにせよ無知を論証する...

哲学は、「本当のところそれってどうなの?」なのか?

ここ最近は大学や高校の友人たち(少ないながらそういう人々が私にもいるということは常々思うが驚くべきことだ)に会うことがあった。 風の噂なのかなんなのか、私が哲学に首を突っ込んでだいぶおかしなことになっていることを彼らは知っているらしい。みんなが集まれば各々が最近やっていることや仕事の話を報告しあって、思い思いに気になることを尋ねてみる、という場面が必ずあるみたいである。上司のこととか家庭のこととか。そういうわけで私の順番が、何となく回ってきたので仕事か家族の話でもすればいいのかなと思い、子どものことでも話そうと思いを巡らしていたら、「そう言えば哲学とかやってたよな。大学に行ったり塾に行ったりしてんだろ?で、結局、哲学って何すんの?」ときた。ほう、これは面白いと思って、 「簡単な話が、真理を求めるってことだね。その一言に尽きると言ってもいい。」 と言った。 「何、真理って?」...

レビュー 『ゼロからはじめる哲学対話 哲学プラクティスハンドブック』

 哲学プラクティスについて何か知りたいなら、しのごのいわず本著を手にとるべきである。  正直なところ全体的な感想を言うのはかなり難しい。というのも多くの執筆者によって書かれ、多岐にわたる実践の指南書であるために、一部は玉石混交だからである。一つの読み物と言うよりは、哲学プラクティスの辞書だと思って、調べたいことがあったら該当箇所を読んでみるというふうに使うのがいいのではないだろうか。それが手引き(ハンドブック)として用いるべき本の役目であろうから。  さて、私の印象に残ったもので、おそらくは多くの人にはあまり注目されることがないであろう4つの点に短く触れておくことにしよう。一つは、対話の「記録の仕方」3章4(p142)、二つ目は「知っておきたい哲学のテーマの概説」4章(p197)、三つ目は、「付録:倫理基準」5章4(p336)「付録:オンラインによる哲学プラクティス」5章5(p344)。...

日本語で書かれた哲学対話の8つの必読本から考える、現代日本の哲学対話のまとめと歴史

哲学対話や哲学カフェに関心を持つ人に、ぜひ知ってもらいたい日本語の本がある。これらを通じて、哲学対話には、自前の言葉、自立した活動、自由な思考、自然な問い、が重要であることを知ってもらいたいと思っている。 現代日本の哲学対話の歴史 中島義道『〈対話〉のない社会』1997.11  授業中の私語、管理放送、標語など言葉の氾濫に対して戦ってきた著者の体験、また日本の文学作品に見られる会話、これらの考察を通じて欠けているのが対話であると指摘し、優しさや思いやりが圧殺しているのは対話であるとを訴える。対話の「敵」が何であるかを明らかにした点が特徴的である。...

哲学者の誤解されてはならぬ「喜劇精神」 松本正夫

公平を標榜して党派に傍観者的であることは実は無意識的ながら一つの党派性を形成することで、それが無意識であるだけに一層度しがたい人間の壁を形づくる。むしろ歴史的な現実にあっては哲学もまた人間共同の社会的営為として党派性を免れがたいことを充分意識した上で、党派と党派との間に哲学的対話を形成すべきであろう。イデオロギーは互いに排他的にそれのみを信奉する独断性の要求からいつかは聖戦思想にゆきつくことが多いが、むしろそれならばこそかえって一層対話的に共存することが要求されている。哲学者のとりくむ問題性は実はイデオロギーないし「思想」の問題性以外のものでないから、哲学者はむしろ自ら意識して党派性を取り、問題性の中に体系を見出す「方法」の精神に則って辛抱強くこの党派そのものを対話に持ち込む用意がなくてなるまい。ソクラテスは明らかに誤解されたが、実は哲学者の誤解されてはならぬ「喜劇精神」がここにある。信...

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