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日本語で書かれた哲学対話の8つの必読本から考える、現代日本の哲学対話のまとめと歴史

哲学対話や哲学カフェに関心を持つ人に、ぜひ知ってもらいたい日本語の本がある。これらを通じて、哲学対話には、自前の言葉、自立した活動、自由な思考、自然な問い、が重要であることを知ってもらいたいと思っている。

現代日本の哲学対話の歴史

中島義道『〈対話〉のない社会』1997.11

 授業中の私語、管理放送、標語など言葉の氾濫に対して戦ってきた著者の体験、また日本の文学作品に見られる会話、これらの考察を通じて欠けているのが対話であると指摘し、優しさや思いやりが圧殺しているのは対話であるとを訴える。対話の「敵」が何であるかを明らかにした点が特徴的である。

 対話の理想形態をプラトン『パイドン』に求め、「真理を求めるという共通了解を持った個人と個人とが、対等な立場でただ「言葉」という武器だけを用いて戦うこと、これこそが〈対話〉なのだ」(p122)というテーゼは、98年に出版された当時も、哲学カフェや哲学対話が隆盛してきている2020年の我々にとっても、十分過激に感じられるが、確実に対話についての何であるかをとらえている。

永井均『子どものための哲学対話』 1997.07

 対話のない社会よりほんの数ヶ月前、97年7月に出版された永井均『子どものための哲学対話』は、2020年の今日もなお、哲学対話といえばこの著作というほど広く知られた対話の本である。この著作の最後にイラストとともに紹介されている、「哲学ごっこ」に注目してほしい。ひとりでできる「哲学宝探し」と、みんなでできる「哲学キャッチボール」の二つがあり、前者は哲学対話が一人でできる探究、後者はみんなでできる協力プレイであることなのだが、『〈対話〉のない社会』で主張されていた、真理を求め個人と個人が戦うという対話とは全く異なる点が興味深い。

 この著作は猫のペネトレと僕(14歳)との対話の記録であり、「人間はなんのために生きているの?」や「泣くから泣き虫なのか。泣き虫だから泣くのか」といった正統な哲学的なテーマが取り上げられている。哲学対話のやり方を真似するために読むのも、哲学対話や哲学カフェに相応しいテーマを見つけるためにも役立つ、必読の本である。

飯田隆『新哲学対話』 2017.11

(初出 アガトン2017,ケベス1991, 意味と経験1993, 偽テアイテトス1989)

 実際に行っている哲学者の対話はどのようなものか。現代に生きる私たちが直面している難問を、古代の哲学者が哲学対話したらどうなるのか。『新哲学対話』では、古代ギリシアの哲学者ソクラテスが現代によみがえり、好き嫌いと価値、人工知能などについて日本語で対話する。テーマも対話の内容も、かなり難易度は高い。しかしながら、本書を読んで、訳のわからない哲学談義がなされていると思う人はいない。それは、『こどものための哲学対話』が子どもの言葉で語られているのと同様に、『新哲学対話』も「台所の言葉」で、平明に語られているからだ。

 ところで、中島も、永井も、飯田も、以上のように対話に関わる著作を残しており、平明な日本語を用いて自らの問いについて哲学をする人々の代表である。彼らにそのような哲学の精神を吹き込んだのは、『新哲学対話』の前書きでも言及されているが、1970年代のプラトン著作の翻訳や大森荘蔵の「台所の言葉」であろう。もしもそうだとすれば、難解な言葉を用いず、平明な言葉でなされる哲学カフェや子どもの哲学、哲学対話が、今日のように広く受け入れられるかなり以前に、「平明な日本語での哲学」という素地が用意されていたことは、あまり指摘されないことだが、忘れられてはならない史実であろう。

中間考察

 さて、1970年代に行われたプラトン全集の翻訳の中心メンバーは田中美知太郎や藤澤令夫をはじめとする京都大学の西洋古典学の人々であった。彼らはプラトンの哲学を、台所の言葉に「翻訳」することはできたかもしれないが、大森荘蔵のように「哲学」をするまでには至らなかった。ましてや台所の言葉をもって哲学することを市民に開くことなど考えもしなかった。

 市民が自らの言葉を用いて哲学することを実際に日本にもたらしたのは、鷲田清一や中岡成文らによる大阪大学の臨床哲学研究室であった。対話のない社会や子どものための哲学対話が出版された数年後にあたる2000年から、臨床哲学研究室は独自の仕方で哲学カフェを行い、2005年には哲学カフェなどを推進する団体カフェフィロが結成された。

鷲田清一監修 カフェフィロ[CAFE PHILO]編『哲学カフェのつくりかた』 2014.06

 複数の実践者が長年にわたって継続的に行ってきた哲学カフェについて報告し、豊富な事例や経験を伝えている。哲学カフェに参加しようと思う読者だけでなく、自ら哲学カフェを開こうと考えている読者にも、日本における先達が、日常や震災後にあって、どんな思いで今も試行錯誤を続けているのかを知って勇気づけられることであろう。

 第4部は座談会、哲学カフェのこれまでとこれからについて語られる最も興味深い部分である。特に二つの点が問いを喚起する。第一に、2000年に應典院というお寺で開かれた第1回哲学カフェでは、p224「もともと哲学カフェにはルールも方法もない、だが、お互いきもちよく対話に参加にできるための「お約束」を設けることにしたい、自己紹介はいらない、発言の前に挙手をして、進行役に指名されるのを待つ、ひとが話しているあいだは相手の話を聴く、できるだけ人の話を遮らない、他のひとがわからない難しいことばをやたらと使わない」と説明されたというのである。後に見る、梶谷、土屋、河野の著作では、哲学対話のルールが明示されているのだが、一体、哲学対話のルールやお約束とは一体何なのか。

 もう一つの点は、「哲学カフェのつくりかた」と題されたこの本に、p290「実は、研究者以外の「哲学屋」さんをつくるっていう夢」が語られていることである。哲学カフェや哲学対話は、もはや、公共施設や教育機関さらには企業やビジネスにまで受け入れられている。それにもかかわらず、いまだに経済的に自立した・自由な哲学屋はつくられていないのはなぜなのか。「対話屋」はこの問いに対する一つの応答である。

 言うまでもなく、本書は、哲学カフェについて知りたい人が、まずははじめに読むべき本である。

中間考察

 カフェフィロの活動では、マルク・ソーテ、ブルニフィエ、ネルゾンなどのヨーロッパの実践から影響を哲学カフェがまず市民へと開かれた。先に挙げた飯田の著作の言葉を使って言うなら、哲学が教室から台所へ解放されたとでも言えるだろうか。他方で、子どもたちに哲学対話が開かれたのは、アメリカ本土のガレス・マシューズやマシュー・リップマンの著作、ハワイのトマス・ジャクソンの実践によるところが大きい。台所から子供部屋へ、哲学が言伝されたといったところだろうか。

梶谷真司『考えるとはどういうことか 〜0歳から100歳までの哲学入門〜』 2018.09

 この著作の冒頭には、2012年に著者がハワイの子どものための哲学「Philosophy for Children」との出会いが記されている。その転機からの哲学対話の実践をもとに、哲学対話の存在意義、実践方法、「問う、考える、語る、聞く」という体験として哲学が述べられている。どれについても過不足なく、分かりやすい言葉で書かれているため、非常に読みやすい。子どものための哲学対話に関心を持つ人は、この著をはじめに読むのがいいかもしれない。

 本書が基調とするところは、哲学的気分に対する哲学的感覚であると言えよう。哲学的気分は「人間とは何か」「生きる意味とは何か」のような問いのことで、グルグル考えを巡らし、頭を悩まし(p136)て、ときには「俺ってこんなに難しいこと考えられるんだぜ」と悦に入る。これに対して、哲学的感覚は次のように言われている。「対話においては、他の人との位置関係、机の有無、相手との距離、さらには、自分や他の人の姿勢、息づかい、眼差し、表情も思考の質と連動している。だから、対話が哲学的になった瞬間は感覚的に分かる。全身がざわつく感じ、ふっと体が軽くなった感じ、床が抜けて宙に浮いたような感覚、目の前が一瞬開けて体がのびやかになる解放感、などなど」(p40)。この論点は河野が「対話する身体はどのように考えているか」を論じる際にも共通であり、昨今脚光を浴びるようになったマインドフルネスや瞑想meditation、座禅との類似性が指摘されても牽強付会とは言えないだろう。(たとえば、ローゼンバーグ『呼吸による癒し』

土屋陽介『僕らの世界を作りかえる哲学の授業』2019.07

 ヨーロッパやアメリカだけでなく、南米やアジアでの哲学対話の実践を知っている著者が、日本での哲学対話の実践とその歴史が、世界各国との関係でどのような位置にあるのかを教えてくれる。特に日本の教育における哲学対話の実績とその将来について知りたい人は、この著作を読むべきであろう。

 梶谷や河野の著作が哲学対話の重要な部分を身体や感覚に直結させる体感主義の立場であるとすれば、本書の立場は理性主義であろう。対話が哲学的に前進したことを、思考が深まったこととして扱い、概念の洗練と無知の気づきのサイクルとして説明する箇所に顕著である。(p141)「哲学者はまずは「無知のプロフェッショナルとして世界中の誰もつまづいていないところに問いがあることに気づき、世界の不透明性をあらわにします。そして次は、「愛知のプロフェッショナル」として、その問いを徹底的に議論の赴くままに考え続け、より洗練された世界の捉え方を提案して、世界に透明性を回復させるのです(さらに言えば、この2つの運動を、生涯をかけて延々と繰り返し続けるのです)」。哲学対話は、哲学者のシーシュポスの仕事の子どもなのだ。

河野哲也『人は語り続けるとき、考えていない〜対話と思考の哲学〜』2019.08

 哲学カフェや哲学対話の実践を続ける著者が、対話と思考について探究する。哲学、心理学、精神医療、教育、政治などの多領域を横断して考察される本書は、哲学対話について書かれたものとしては、最も本格的に哲学的である。

 哲学対話について論じるほぼ全ての人と同様、本著もソクラテスの「無知の自覚」を取り扱う。それは、真理への飽くなき探求だけでなく、脱学習 unlearningという「非知」を目的としていて、子どもの哲学のラディカルさを説明すると言われているが、そのスピリットはキルケゴールの『イロニーの概念』と通底していて興味深い。

 梶谷が体験としての哲学として挙げた行為の一つに「問い」があったが、本書では問いはwhat, why, howの疑問詞によって表される問いが思考を真に要求するものと言われている。その際に「問いとは何であろうか。それは無知の自覚と知への欲求からなっている」(p75)と述べられている点が、土屋の無知と愛知のプロフェッショナルと重なる。哲学と問いとがこれほど緊密に結びつけられて複数の著者に論じられるとすると、哲学の不可欠な要素は問いではないかと考えたくなるのは私だけだろうか。

中間考察

 梶谷、河野、土屋の著作に見られる顕著な共通点は、哲学対話が自由をもたらすという見解である。教育の場面や日常の社会生活などにおいて抑圧されている自由が、何でも話してよい、人の話しを聞く、否定しない、などの哲学対話のルールによって、解放される。この論点は、それ以前に書かれたカフェフィロの著作にはそれほど色濃くみられない。飯田や永井や中島の著作にあっては、解放されるべき自由という観点からではなく、平明な自らの言葉を用いて哲学することができるスピリットが貫かれているだけである。自分の言葉でもって哲学することと、社会から抑圧されている自由を哲学が解放することの違いがどこから来るのか。いや、果たしてその違いは見かけだけなのか。しばしば哲学対話のルールが問題となり、哲学対話が平等に万人のためにあるべきかと問われることの所以は、以上のことにあるような気がしてならない。

清水将吾『大いなる夜の物語』2020.05

 哲学の研究者であり哲学対話の実践者でもある著者の「超現代の哲学小説」は、読み物として魅力的というだけでなく、哲学対話のテーマにふさわしい題材を取り扱っている。子どもの哲学や哲学対話に直接的に関わる点で言えば、次の3つの謎に特に注目すべきである。謎その17「大人になると子どもの疑問を忘れてしまうの、どうして?」は子どもが自然に哲学をする根拠を言い当てている。謎その21「世界が謎だらけなのは、どうして?」、謎その23「最初の言葉はどうやって生まれた?」は、哲学そのものの存在根拠をも示す試みである。

 ところで河野は対話の文化を打ち立てることに貢献したい(p20)と言っていた。『大いなる夜の物語』はまさにその大きな役割を担っている。永井や飯田の哲学対話篇の系譜を引くとともに、これから哲学対話を経験する新しい世代に、哲学のテーマと内容で自ずと哲学するように誘(いざな)っているからである。哲学対話や哲学カフェ「についての」本は、結局のところ大人のためでしかないとすれば、哲学小説や対話篇や絵本や童話などが本書に続いて新しく生まれることによって、市民や子どもは自分の言葉で、自由に、そして自然に哲学するようになるであろうから。

まとめ

 はじめの三つの著作では、平明な日本語を用いて哲学することは、自分自身の言葉(自前の言葉)で哲学することであることを観察した。次にカフェフィロが夢見ることの一つに、経済的にも自立した哲学屋をつくることがあるのを知った。さらに、最近の三つの著作のうちには、教育や社会によって抑圧されてしまっている思考の自由を取り戻そうとする共通点があった。そして、最後に、超現代の哲学小説は、人々に自ずと哲学の問いを呼び覚ますとのことをみた。

 これらのことから哲学対話は、さまざまな特徴を持つことが明らかであろう。それはおおよそ、自前の言葉で行う、自立した活動であり、思考を自由にし、問いが自然に湧き出る、というような特徴を持っている。

 一方で以上のように、哲学対話がさまざまな観点から色々な見え方があるとしても、いわゆる哲学対話が本当に哲学対話であるような、唯一の特徴はないものであろうか。間違いなく、そのような特徴がある。哲学対話には欠けてはならない特徴、それを本質というが、はある。以上の8つの諸著作だけに限らないのだが、哲学対話にどうしても欠かすことができないのは、「問い」である。どの著作においても、「問い」は格別な扱いを受け、問いの存在は疑われていない。哲学そのものにも、哲学対話にも哲学カフェにも、問いは欠かせない。問いさえあれば、それらを行うのに何とかなるし、何とでもなる。とすると、そのような「問い」とは一体何なのか。そのような「問い」があるのは何故なのか。

 哲学対話が哲学対話であるところのそれは、問いなのかもしれない。問いとは何か。問いがあるのは何故か。これこそがまさに問うべき問いであることを、哲学対話に少しでも関心のある人には、知ってもらいたいというのが、私の本音である。

 最後に、言及することのできなかった著作のうちのいくつかを知らせておきたい。

読書案内(日本語)

大森荘蔵『流れとよどみ』

納富信留『プラトンとの哲学』

野矢茂樹編著『子どもの難問』

森田伸子『子どもと哲学を』

本田和子『異文化としての子ども』

河野 哲也,土屋 陽介, 村瀬 智之, 神戸 和佳子『子どもの哲学 考えることをはじめた君へ』

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Y先生には「君には言いたいことが何かあるのは分かるけれど、それが何であるのか分からない」と言われ、H先生には「何かの本質をつかんでいるとは思うけど、それが何かってことだよね」と言われたと話すと「それはそのままthe third manさんのキャッチフレーズになりますね」と。

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