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ディアロギヤ@カンボジア<その一>

プレダイアローグ

ピンチはチャンス

 カンボジアでも、コロナウィルスの影響で学校は休校になり大学も休講になり、さらには私的な集まりでも5人以上(いや4人以上、3人以上だったかもしれない、記憶が曖昧だ)の場合は自粛を要請されている中、N氏の自宅で、N氏の学生を集めて、十分に換気をしながら、哲学対話をすることになった。

 また、今回のカンボジア訪問を中心的にオーガナイズしていたM氏は、帰りのフライトのことなどを考慮して早めにカンボジアを離れることになった。そのためにM氏は1時間程度哲学対話に参加して途中で退席されたのであった。こういうわけで結局のところ、私が哲学対話のファシリテイターを最後まで引き受けることとなった。既に日本からカンボジアへの渡航の段階でほとんど私のやるべきことはなくなっていたのであったが、実際には、私がこのファシリテイターを務めなければ誰も勤める人がいなかったことを考えると、偶然にも私にしか果たせない任務があったということになる。どれほどそれを首尾よく遂行できたかは甚だ疑問であるが、ともかくはその機会を提供するに足る役割を果たすことができたのは好運ともいえる。その後自分の復路の便が欠航になって一時は帰国が危ぶまれたし、いまも念のため自己隔離を続けているが…。

 それにしても、多くの人々にとっての窮地は私にとっては好機に違いないと考える癖が昔から抜けない。根本的に下品な性格をしているため、人々が慌てふためき安全なところへと身を隠すのを見ると、どうも私にとってのチャンスが巡ってきたに違いないと妄信(猛進?)しはじめ、危険を犯したくなる私のこの病は、やっぱり治らなくてもいい種類のものだと確信を改めた。

Wat Phnom Hill, Attraction in Phnom Penh | Tourism Cambodia
ワットプノン 参照:https://images.app.goo.gl/3SG8UFtTsPFs7jy99

カンボジア化された対話への欲望

 そんな状況なので、哲学対話の時間はさほど長く取れず2時間弱くらいのものだろうと考えたこともあって、私はその日起きてから、午後4時30分に始まる哲学対話に向けて、早朝から騒がしいプノンペン市内の観光地を散歩しながらいろいろ思案した。ファシリテイターをするからといって何も気負う必要はないわけだが、コロナ大騒動の中、家族の心配をよそにカンボジアまで来て、カンボジアでしか対話できないことについて対話したいという欲求がどうしても抑えられない。もうすでにカンボジアにいるのだから、自分が無理にそうしようとしなくても、自ずとカンボジアの哲学対話になっていくのだろうとは思う。だが、それでもなお、なんとかカンボジア化された哲学対話を存分に楽しみたいとの謎の欲望が増してくる。それにはどうしたらいいのか、ああではないこうではないと考えながら、王宮や博物館へ行ったり、プノンペンという街が興ったこと記念したワットプノンという小高い丘がある公園を散歩したりしていた。公園は屋外なので問題はなかったが、この日から屋内のほとんどの観光スポット、王宮や博物館など、はコロナウィルス拡大防止のために閉鎖された。

前日に比べて人通りが少なくなっていた。

街歩き、仏教、連想

 公園を歩き終わったので、今度は街中を歩きながら、そこらやここらにある仏教寺院に入ってみた。奇抜な橙色の衣を纏っている仏僧たちは、私にはドラッグや売春OKのオランダの橙色を想起させるために、いつも不思議な気分になる。仏僧たちはドラッグなどやっていないし売春宿にも行こうとは微塵もしていないが、いつも暇そうにしているのを見ると、どうも信心深い様子があんまりしない。カンボジアはミャンマーなどと同じく(といっても多分色々違うのであろうがともかく)テーラワーダ仏教であり、どちらかと言えば戒律仏教である。大乗仏教と比べると宇宙論など説くことが少なくそういう意味で理論体系としての哲学には関心が向いていないという点で、少し思弁に乏しいのかもしれない、とM氏が話してくれたことを私は考えはじめていた。さらに、M氏は、以上のことが、カンボジア人たちと日本人が英語で話すとき、「should」という言葉に違和感を感じることの原因かもしれない、というようなことを話していたのも思い出した。

 そこから連想/想起が飛躍して、毎朝やっている自分の座禅は、テーラワーダ教の瞑想の本をH先生から教えてもらったことが大きいことを思い出した。また、東京の幡ヶ谷にあるゴータミー精舎で、テーラワーダ教のスマナサーラ長老がやっている瞑想のセッションに1日参加した経験も思い出した。だが、こんな連想ゲームをしていてもカンボジアでの特別な哲学対話をすることには役に立たない、と自分を戒めながら、昼ごはんでも食べようと思い、観光地付近を離れた。車やトゥクトゥクやバイクが砂埃を上げる道路の脇を歩きながら、ものすごい数の電線が束になっている電柱に何度も感動しながら、にぎやかな市場の中に入ってみたりした。

現地の人が食べていた何やらうまそうなものを私も食べた。料理の名前が分からない。お腹いっぱい食べて3USDくらいだった。

はじめてのサービス精神?

 他方で、カンボジアでしか体験できない対話を期待しすぎている私と同じ程度に、哲学対話をしたい、哲学対話とはどんなものか知りたいと期待して参加してくれるかもしれないカンボジアの学生にも失礼のないようにすべきであろうとも当然考えた。そもそも哲学対話をしたことがない学生には、哲学対話がどんなものかを知ることは難しいとしても、どんなものらしきものかくらいのことは知ってもらい、さらに興味を持ってもらいたいと素直に思った。そして今度の訪問でその全てを成し遂げることは難しくても、これから自分で哲学対話をやりたいと思ってもらえるきっかけくらいは提供したという気持ちも湧いた。そんな気持ちを抱くことは私には似つかわしくもなことであり、そんなサービス精神が芽生えてきたのに少し動揺した。いままでにそんな気持ちにはあまりなったことはなかったから。そんなわけで私はこの哲学対話で私はどう振る舞うべきであろうかと自問自答せざるをえなかった。

 参加する全ての学生が哲学対話を経験したことがある、と聞いていなかったと私は思い込んでいたわけだが、それは勘違いであった。哲学対話の開始の前に一度は哲学対話を経験したことがあると学生さんたちは言ったのだった。N氏とM氏と軽く打ち合わせをしたときに学生について話してくれたことを、その場が酒の場あったためか、私はよく聞いていなかったようである。ともかく、私は誤解に基づいて、ある程度は哲学対話、哲学カフェとはどのようなものかを説明しなければならないかもしれないと思い込んでおり、そうだとしたら、短く、どんなことをはじめて哲学カフェを経験しようとしている人に説明できるであろうか、と考えたのであった。新宿哲学カフェは、哲学がはじめての人のためのものとして始めた取り組みであるが、実際のところは、そもそも「新宿哲学カフェ」の宣伝広告が届くような人が、哲学カフェや哲学対話を全く知らないということはほとんどない。そうすると、対話を経験するに先立って、対話とは一体何であるかをごく容易に理解してもらいためには何を言えばいいのか悩ましくなったのであった。

問うてはいけない問いはあるか。

 さて、そんなこんな考えていて一度ホテルに戻ってから哲学対話の会場のN氏の自宅に向かおうとしていたところ、

問うてはいけない問いはあるか。

どんな問いは問うべきではないのか。

という問いがパッと頭のうちに現れた。あ、これはいい、これをもう哲学対話のテーマにしちまおう、と決めた。哲学対話を説明するのに、ひたすら問いと答えに注力すること、そして問いと答えのためなら何でもやっていいということ、をこの問いが実践で示してくれるだろう、と思った。それで、ウキウキしてホテルに戻って色々支度をし、もうすでに時間も迫っていたので足早に待ち合わせ場所に赴いた。

(続く) 続き:ディアロギヤ@カンボジア<その二> ダイアローグ

The Third Man(木本)
The Third Man(木本)

Y先生には「君には言いたいことが何かあるのは分かるけれど、それが何であるのか分からない」と言われ、H先生には「何かの本質をつかんでいるとは思うけど、それが何かってことだよね」と言われたと話すと「それはそのままthe third manさんのキャッチフレーズになりますね」と。

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Y先生には「君には言いたいことが何かあるのは分かるけれど、それが何であるのか分からない」と言われ、H先生には「何かの本質をつかんでいるとは思うけど、それが何かってことだよね」と言われたと話すと「それはそのままthe third manさんのキャッチフレーズになりますね」と。

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