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ディアロギヤ@カンボジア<その二>

承前:プレダイアローグ

ダイアローグ

対話の構成員

 哲学対話のために4.30頃に集合したものの、結局なんやかやあって全員が揃って開始したのは5時過ぎくらいだったろうか。私、M氏、N氏、学生Aさん、学生Bくん、学生Cさん、学生Dさん、学生Eさん、学生Fさん、の全部で9人であった。学生は私の曖昧な記憶では全て19-21歳であった。学生はみんなジェンダーを専攻して、N氏がジェンダーの講義を担当している。私、M氏、学生Bが生物学的には男で、残りはみな女である。

自己紹介・アイスブレイク

 N氏がM氏と私の紹介をしてくれ、みな自己紹介することから哲学対話は始まった。M氏の提案で自己紹介の際に好きな「数」とその理由を言うことでアイスブレイク的なものをした。なぜその数が好きかという理由を挙げるのは実はとても興味深く、それを哲学対話のテーマにしてもよかったかもしれない、と思ったくらいであった。たしか7を挙げた人が、誕生日や自分の人生にはなぜかその数がついてきているので幸運をもたらすという理由を挙げていてなるほどそういうふうに数が好きになるのか、と思った。3を挙げた人は自分の人生とは関係なく、たとえば三位一体とか3つというバランスが美しいのでという理由を言っていて、私はそのような意味で好きな数を考えていた。他にも4か2かを挙げた人が同じようなことを言っていた。23だとか1960とかアボガドロ数とか光の速度の数とか言い出す人がいないのはなぜなんだろうとか思ったがそれを言い出すと本当に哲学対話をそっちに導いてしまいそうなので、黙っておいた。

本番開始

パート1  問いの強制力

 自己紹介が終わって、私にファシリテイターの役務が渡された。そこで、「数の話をこのまま続けてもよいと思ったのだが、ぜひともみなさんと考えてみたい問いがあります。それは「問うべきでない問いはあるか」「どんな問いが問うべきでない問いか」ということです。まずこれを考えることから対話を始めたいと思います。」のようなことを告げて、対話を始めることにした。そして、「時間に余裕があるわけでもないので、対話のルールや方法については先立って説明しないことにします。ともかく対話を始めてみて、その実践のうちでルールや方法については触れていこうと思います。」のようなことも言った。対話のルールや方法について知りたいと思っているのが私には分かっていたが、いや、だからこそ、ルールや方法の対話から始めてしまうのではなく、対話を始めてしまってから、守れなかったルールをその場で取り上げたり、自覚をともなってはいないが対話の方法に適った仕方で問いや答えができているものを現場で指摘するので十分であろうと考えたのであった。

力を行使する問いはすべきではない

N氏が日頃の学生の表情を察してであったのか、一番はじめに次のようなことを言った。「ジェンダーのフィールド調査では、相手が嫌だと感じることを質問してはいけない、としばしば注意しています。たとえば、あなたは週に何度性行為をしますか、どんな性行為が好きですか、など。みなさんも参考にしてみてください。」正直なところ、N氏がそんなことを言ってしまったら議論はほとんどそっちの方に傾いてしまうだろうな、と私ははじめネガティブに思ったのだが、あとで考え直してみると、これはこれで話が拡散しすぎなくて済むある種の制限をしたのでよかったのかもしれない。限られた対話の時間の中で、比較的的を絞った対話ができたと思ったのであったが、実は一番初めのその発言が効いていたのかもしれない。

 さて、学生の一人一人が話し始めたあたりから、私の記憶は曖昧である。いや、曖昧であるというよりは概念的な記憶しか私のうちに残っておらず、誰がどんな発言をしたか、という感覚に与えられたものの記憶がほとんど残っていない。学生の一人(たしかFさんだった)が、「父親に何人のガールフレンドと付き合ったのちに私の母と結婚することになったのか、と問うてはいけない気がする」というような極めて具体的な例を出してくれた人もいた。一方で、「相手に危害を加えたり傷付けるような問いは問うべきではない」と言った人(Cさん?)もいた。そして、比較的多くの時間を費やすこととなった「私のことを愛しているか」(Aさんによる問い)の問いが例として挙げられた。

 私が特にその問いへの注意を促すように仕向けたわけではなかったが、おそらくはその場にいたみなが、その問いに引き付けられたのであろう。いや、そう私が思っていただけかも知れないが。ともかく、私の記憶では、その問いが中心となって対話が進行していったように思われる。「私のことを愛しているか」という問いを出した学生が、それを1日に何度も尋ねたことがある、という経験を話すと、それは何度も尋ねたことに原因があるので、「私のことを愛しているか」という問いは適度に尋ねることは許されるだろう、というある種の反論もあり、重要な場面や機会に際しては、それを問うことは必要である場合もあろう、と言われたか、私がそう考えたかの記憶が曖昧である。

 こうした見解や問答が途中に幾度か沈黙を挟みながら繰り返されたあと、たしか私が「なぜ、「私を愛してくれ」と命令文で言う代わりに「私を愛していますか?」と誘導尋問をする方が、より一層強制力を持つのか」と尋ねたときに、Bくんが答えてくれたことは印象的であり、それがどういうことであるのかまだ考えている。「私を愛してくれ」の命令文においては、命令文を発する人が最終的には愛されるか愛されないかを引き受ける準備をしている。それゆえ発言に責任を持っている。けれども、「私を愛していますか?」と問うとき、問う人は、答える人の答えを知りたいのでもない。というのは「はい」という言葉しか期待していないのだから。さらに、答えは、問う人の発言でなくして、答える人の発言だから、問う人が発言に責任をもたなくてよい。そのうえまた、発言された答えに対して「それはなぜか」と追及し、「はい」を答えさせようとまでする強制力がある。と、おおかたそんなようなことを言ったのであった。

パート2 論理的にすべきでない問いと道徳的にすべきでない問い

 対話はそんなふうに進んでいたが、M氏が、これまでで話されてきたこととは全然違うことを考えていた、と発言した。「あなたは嘘をついていますか」「本当ですか」という問いが、問うべきではない問いだろうと考えていた、と言った。かなり話題が変わったので、皆何のことだろうと思い、M氏がその理由を説明するのを注意深く聞いていた。その理由とは、嘘をついていたとしても「嘘をついていません」と答えるのであるし、嘘をついていなくとも「嘘をついていません」と答えるから、というものである。私が理解するに、言っていることが本当のことであるのは前提とされなければならないことであり、本当かどうかに疑問を抱いて「本当かどうか」と尋ねてもそれに対しての直接の答えから本当か嘘かが決まるのではないから、その前提を疑うような問いを出しても意味がない、ということだ。これは完全な私の解釈になるが、たとえば話の整合性や話者の態度が嘘か本当かを決めるのである。「本当ですか?」「嘘をついていませんか?」はその意味ですべきではない問いではないか、ということであっただろう。思うに、そのような解説をその場でできればよかったのだが、あまりうまくは言えなかった。

 現場での対話における繋がりがどのようなものであったかを鮮明に思い出せないのだが、それは「本当に私を愛しているか」と問うのとどう違うのか、というような問いが出たと思う。それで、「本当に」という言葉を付け加えたからといって、果たして一体「私を愛しているか」というのと何がどのように異なるのであろうか、という問いも出た。

 再び沈黙や問答や応答がいくらかあって、私は次のように対話を整理した。M氏のような問いは、論理的にすべきではない問いということができるであろう。一方、M氏が発言する前までに学生たちの間で議論されていたのは、道徳的・倫理的にすべきではない問いということができるであろう、と。この整理は複数の学生たちにとってはあまり明確なものではなかったらしい。確かAさんはその整理のことをすぐに理解したようで、他の学生に説明をしていたと思う。そして、私の記憶では、Dさんがなかなかその区別にはなかなか納得しなかったようで、様々に問うたり答えたり発言したりした。

論理的にすべきでない問いは、誠実性の観点から道徳的にすべきでない問いに還元可能である

 その中で、この対話で私がもっともよく覚えている議論の流れになった。実際に誰が何を言っていたかを覚えておきたかったが、外国語であることに加え互いの発音の聞き取りにくさや不明瞭さのために、そこで対話されたことを概念的にしか把握していない。ともかく、区別に納得していなかったDさんが、論理的になすべきでない問いは、実は道徳的になすべき問いなのではないか、という主旨の発言をしたことは覚えている。この発言は刺激的であった。彼女は、その理由を、誠実性を持って説明した。というのは、「嘘ではないか?」「本当か?」と問うのは、答える人の誠実性を疑っているからだ、と言った。すなわち、「嘘ではないか」に対して「嘘だ」と答えるにも「嘘ではない」と答えるにも誠実性がともなっているのでなければならないのだから、問うべきでないというのは、誠実性を疑いにかけるという道徳が「すべきでない」と決めているだろう、と言ったのだった。

 このDさんの発言の趣旨を理解するのに私は、その対話の中でも時間がかかった。そして、問答を繰り返して何とか理解したとき、その意味するところのインパクトの強さに、論じていた別のことがどうでもよいように感じて、それ以外のことをあまり覚えておくことができなくなってしまった。

 ちょうどその発言の最中にN氏は離席しており、その発言の直後あたりにM氏はフライトをつかまえるために退席したのだったが、しばらくの間、すべきでない問いが論理からくるのか、道徳から来るのか、について論じたと記憶している。

問うべきではない愚かな問いと哲学の問い

 そのほかにも、論理的にすべきでない問いは愚かな問いとも言える、というのも取り上げられた。「本当ですよね?」と問うべきではないのは、その答えがどうであろうと分かりっこないという点で愚かなことだからだ。だがしかし、愚かな問いは、道徳的にすべきでない問いでもあろうと言われた。その例はなかなか笑えるものであった。男女の営みを初めて経験しようかというときに、「あなた綺麗にしてる?」というのは愚かな問いであり、かつ人を傷つけるという点で道徳的にしてはいけない問いだ、というようなことが議論されたからである。

 そう言えば、愚かな問いに関しては、私は、哲学の問いこそは、愚かなものの典型である、と発言したのであった。「存在とは何か?」とか「神はいるのか?」とか「時間はあるのか?」とかいう問いは問うても仕方がないのであって、さらには、それを馬鹿の一つ覚えのように哲学者は問い続けるのであるから、哲学的問いは愚かな問いではないか、と皆に問いかけたのだった。しかしながら、おそらくは、私の問いは理解されなかったし、私もうまくいうことができなかった。哲学的問いは、問うてはいけない問いではないだろうか、とシンプルに問いかければよかったのに、そうできなかったことを、ちょっと後悔している。

 対話の終わりの方に近くなるにつれて、私の記憶は一層曖昧である。何を話したのかをほとんど覚えていない。論理的にしてはならない問いは道徳的にしてはならない問いに還元できる、というテーゼが私の頭に繰り返し戻ってきて、それ以外のことの記憶が薄れてしまっているのだ。これではいけない、今話されていることに集中しなければ、と思っていたのが、少しだけ救いである。少しくらいは無知を自覚していたであろうから。

The Third Man(木本)
The Third Man(木本)

Y先生には「君には言いたいことが何かあるのは分かるけれど、それが何であるのか分からない」と言われ、H先生には「何かの本質をつかんでいるとは思うけど、それが何かってことだよね」と言われたと話すと「それはそのままthe third manさんのキャッチフレーズになりますね」と。

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Y先生には「君には言いたいことが何かあるのは分かるけれど、それが何であるのか分からない」と言われ、H先生には「何かの本質をつかんでいるとは思うけど、それが何かってことだよね」と言われたと話すと「それはそのままthe third manさんのキャッチフレーズになりますね」と。

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