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Category日記

対話への誘い

夢でのメール  不思議な夢を見た。私は誰だか知らない哲学の師を慕っており、対話を在野で研究している。私の師は哲学教室アレクサンドリアを主宰しており、哲学の専門家たちが、どこか殺伐とした雰囲気のその教室で毎回講義を行なっている。あまり議論や対話の場は設けられないことに、私は何も疑問を感じていない。  私はその生徒に過ぎないというのに、師はある日、哲学を志す或る新入りの生徒「根尾井さん」に対し、私に哲学対話について尋ねるように言ったという。そういうわけで私は根尾井さんから、哲学教室アレクサンドリアで哲学の発表し、対話をするにはどうしたらいいのか、という相談のメールをもらった。私は師を忖度することもせず、そのメールに返信をしたという夢であった。  夢であったとはいえ、考えてみたところそれが現実であったとしてもおかしくはない。そこで、そのメールへの返答を、以下に記しておくことにする。...

忙しさの中で小さな精神の訓練をすること

 ところで、探究のために文章を書いていて、ふと浮かんできたことを逃さないように書いておこうと思う。それは休む間もない労働の中で、会議だの報告だの文書作成だの投資契約だので、人々に分かるような表現の仕方を与えることを常に強いられるために心に浮かんできたものだ。それは、人に分かってもらえそうにないことを、書かずに排除しようとしたことだ。書いてしまうとややこしくなり、人々はそのような難しいことを時間をかけて考えはしないために、そうした表現をしないで分かるように、分かる範囲のうちで、正確さや微細さを軽視しながら、それとなく、人々がわかった気になりそうな言い回しや説明の順番を与える。労働する環境ではそのような表現を強いられる。そして、わかりにくく、曖昧で、微妙で、時間をかけて考えることを、表現のうちから除去するように強制される。...

哲学史を「阿呆の画廊か?」と問うたヘーゲルは、哲学対話を「阿呆のお喋りか?」と問いはしないか。

 以下は近代の哲学者でもっとも有名な人の一人であるヘーゲルの哲学史についての長い引用です。主人と奴隷の弁証法やアウフヘーベンなどと並んで、「阿呆の画廊」はヘーゲル語の中でもよく知られているもので、もはや哲学の常識の一つに数えてもいいくらいのものかもしれません。  哲学史は阿呆の画廊か?これがヘーゲルが突きつけた問いであり、もちろんヘーゲル自身にとっての問いでもあったわけですが、哲学対話は阿保の画廊、あるいはもっと、阿呆のお喋り、ではないか。この問いを哲学対話は避けて通れないように思われます、哲学対話に真摯に取り組むならば。この問いに心当たりもないというのでは、哲学対話をもはやすでに何かのイデオロギーと取り違え、哲学対話についての対話と反省を拒否する熱狂的な哲学対話教徒だとしか、私の目には映りません。...

言語哲学的かもしれないラーメンズとモンティパイソン

なかなか言語哲学的かもしれないと思ったコントがありました。 ラーメンズ『TOWER』より「名は体を表す」 何が似ているのかを言うのは難しいなあと思いつつ、ともかく思い出したのは次のものです。 Monty Python Flying Circus, season 4 episode 3 “The Light Entertainment War” の woody and tinny words と呼ばれているスケッチ。 6分あたりから さて、ブログを書く時間がとれません。コロナウイルスのみならずコロナ便乗ウイルスのおかげで全然暇にもならなければお金も儲からないからです。こんなことが起こっているのです。...

ディアロギヤ@カンボジア<その三>

承前:ディアロギヤ@カンボジア<その二> ダイアローグ 承前:ディアロギヤ@カンボジア<その一> プレダイアローグ ポストダイアローグ カンボジアBBQ/メタダイアローグ  そんなこんなで多分2時間程度で対話を終えた。その後、全ての学生とN氏の二人の子供とともに少しばかり離れたレストランに行って、カンボジアのBBQを食べ、お酒を飲んだ。...

ディアロギヤ@カンボジア<その二>

承前:プレダイアローグ ダイアローグ 対話の構成員  哲学対話のために4.30頃に集合したものの、結局なんやかやあって全員が揃って開始したのは5時過ぎくらいだったろうか。私、M氏、N氏、学生Aさん、学生Bくん、学生Cさん、学生Dさん、学生Eさん、学生Fさん、の全部で9人であった。学生は私の曖昧な記憶では全て19-21歳であった。学生はみんなジェンダーを専攻して、N氏がジェンダーの講義を担当している。私、M氏、学生Bが生物学的には男で、残りはみな女である。 自己紹介・アイスブレイク...

ディアロギヤ@カンボジア<その一>

プレダイアローグ ピンチはチャンス  カンボジアでも、コロナウィルスの影響で学校は休校になり大学も休講になり、さらには私的な集まりでも5人以上(いや4人以上、3人以上だったかもしれない、記憶が曖昧だ)の場合は自粛を要請されている中、N氏の自宅で、N氏の学生を集めて、十分に換気をしながら、哲学対話をすることになった。...

アンコールとの対話の回想断片

アンコールワット  朝5時にSornという名のドライバーにホテルに迎えに来てもらう。彼は昨日シエムリアップ市のバスターミナルにプノンペンから到着したときに話しかけてきたトゥクトゥクドライバーである。 バスターミナルからアンコール遺跡に近い繁華街までは、歩いて行くことはできない。しかもすでに夜8時で暗くなっていたのでトゥクトゥクを使ってホテルまできたのだった。たった1日の限られた時間で多くの遺跡を回るにはトゥクトゥクをチャーターする必要があった。それも英語ができてこちらのわがままをよく聞いてくれそうな感じのドライバーでなければ私の思うようなアンコール遺跡巡礼ができない。ともかく、バスターミナルからホテルまでの分、及び明日1日のチャーター分とで、全部で30USDということで手をうったのであった。...

とりわけ西洋哲学の伝統を学ぶ意義は何か

しばしば以上にほとんどの場合、官庁や病院や大企業でさらにはともかく誰かに雇ってもらうなどという仕方であくせく働いていては、クソ真面目なりすぎて哲学ができなくなると感じる。それもあって私は自営業・自由業にこだわっている。 忙しい日々のうちに湧いてくる疑問や人間関係での悩みや組織への反発は哲学の材料としては格好のものではあろう。しかし、それ以上に、哲学にとって本質的なことをクソ真面目さが害してしまうように思う。 西洋哲学の伝統のうちには遊びやふざけがある...

同じ素人であるところの、子どもと哲学するとは?老人と哲学するとは?

昨日は子どもの哲学のワークショップに午後に行き「子どもと哲学するとは?」、そのあと夜には哲学塾カントに行き「老人と哲学するとは?」を問うことになった。後者が前者を照射するその仕方はなかなか面白いものでありうる。 Sharing experiences in philosophy for/with children in Asia  闘いの対話か配慮の対話か...

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