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ディアロギヤ@カンボジア<その三>

ポストダイアローグ

カンボジアBBQ/メタダイアローグ

 そんなこんなで多分2時間程度で対話を終えた。その後、全ての学生とN氏の二人の子供とともに少しばかり離れたレストランに行って、カンボジアのBBQを食べ、お酒を飲んだ。

 本当はその場でメタダイアローグのようなものができればと思っていたのだが、お酒も入ったし子どもたちもいたのでそういう雰囲気にすることは私にはできなかった。けれども、レストランに行くトゥクトゥクのなかで、Bくんが哲学対話にとても興味を持っている、と言ってくれたことは嬉しかった。嬉しかったのに、彼が話してくれた内容のことを忘れてしまったが、対話の方法についてのもので、対話をどんなふうに導いていくことが正しいのか、というような質問だった。私は、それはなかなか難しい問題で、何が正しいということが一概に言えないというのが正直なところであり、対話されているのかが何であるのかをよく聞いてどの論点を取り上げどの論点を保留にしておくかを決める自分なりの正しさの基準を見つけるしかない、というようなことを言った。私の返答が彼を納得させていないのは分かっていたのだが、正直に言うしかあるまい、と思ったので、経験していくしかないよね、と言った。

「トゥクトゥク カンボジア」の画像検索結果
トゥクトゥク

 メタダイアローグのようなことはできなかったと言ったが、今回の哲学対話のどんなところがよかったか、と尋ねることはできた。N氏は、授業中にはほとんど話したことのない学生が活発に話していて驚いたことを教えてくれた。

 私がDさんの発言をずっと考えていたこともあってか、私は彼女が、してはいけないことについて論理的と道徳的の区別があることが学べたのが面白かった、と言ったのを覚えている。私の観察する限りでは彼女はその区別に納得していない様子であったが、彼女にとっても、その二つの区別ができるかどうかは興味深いことなのだろうな、と推察した。また、AかBが、話そうとしたことはなかったけれども、実は他人が自分と同じような問題を感じていることが分かってとても新鮮だったと話したことも印象深かった。

 問うべきではない問いは何かをテーマに哲学対話をしてみようと考えついたとき、教師を困らせるような質問をしてはいけない、という論点が出てくるであろうと予測していたが、それはまったく触れられなかった。そのような予想をしていたのはM氏かN氏からそれらしき話を聞いたからであったが、ともかく、今回経験した対話の中では問うべきではない問いとしては挙げられなかった。とはいえ、飲み会のときには学生のみんなが、大学には哲学対話のような時間が必要だ、哲学対話のような時間はあってほしいと言っていた。というのも、カンボジアの大学では、日本の大学ほど一般的にゼミの時間が設けられないらしいのである。なるほど、それはそうだろうな、と思った。

2020年 トゥール・スレン博物館 [Tuol Sleng Genocide Museum] は ...
https://images.app.goo.gl/joPQnCUu5AM9r6b96

トゥールスレン虐殺犯罪博物館を連想したこと

 はなはだ的外れであり、さらには礼節を欠くものにもなってしまうので、そのとき連想したことを私は口には出さなかったが、AさんやBくんが問いには強制力があると言ったことは、私に「拷問」を思い起こさせたのだった。カンボジアの首都プノンペンには、おそらくはアンコールワットに並ぶと言うべき世界的な観光地、トゥールスレン虐殺犯罪博物館がある。私は前日にそこを訪れていた。訪れた直後は食べ物が喉を通らないほどにショッキングだったが、他方では、こう言っては不謹慎なのではあるが誤解しないでもらいたい、次の点に非常に興味を注がれた。それは看守達(虐待する側)が極めて理性的な仕方で自白を強要するために拷問をしていたことである。彼らの拷問を詳細に記述するだけの能力と資格が私にはないが、自白の強要、拷問の主たる目的の一つには、被虐待者の記憶の変造があった。そのために、看守は理性的でなければならず、感情に任せて虐待したり自白するのに役立たない行為は厳しく禁じられていた。自分勝手な拷問をして自白をさせることができないままに殺してしまった場合などは、殺してしまった看守が収容者(つまり被虐待者)になった。自白を徹底するため、私情を交えない最も効率的な拷問が追及された。そのために看守には自己批判の時間と集いが設けられ、さらにそれは詳細に記録されたのであった。

 何が興味深い(不謹慎なのであるがそのように表現するのが正しいのだ)かといって、虐待者は被虐待者の感情を一顧だにしなかっただけでなく、自らの感情を反省し自己批判的になって記録せねばならなかったということである。そのために用いられたのが理性であり、反省・自己批判・記録はそれを支えるものであった。アウシュヴィッツを経験した第二次世界大戦後のヨーロッパには、これに類似のことに関しての膨大な議論の蓄積があることを私は知らないわけではなく、身近なY先生がそのことをしばしばとりあげているので気にしないわけでもなかったが、改めてそれらのことが何を問題としているのかが体感的に分かりかけてきた気もしたのだった。

哲学対話の居心地の悪さ

 後日、N氏とAさん(彼女はTAのようなことをやっているらしい)は、我々の行った哲学対話について話したらしい。Aさんは、結論もまとめもないのはちょっと締まり悪いと言っていたとのことだ。またN氏も似たような感想をもっていると同時に、ちょっともったりした雰囲気は、普段自分がいることのない環境なので、なかなか新鮮だそうである。どちらの感想もとても嬉しいものだ。Aさんはおそらくは我々参加者の中で最も英語が堪能であったことも影響して、対話の最中にも、通訳をしたり、ちょっとした議論の整理をしてカンボジアの学生と私たちとのコミュニケイションを円滑にしてくれた部分がある。結論やまとめやリフレクションというのを普段から自分で訓練のようにやっているのだなというのが、私もそういう傾向があるから、外から見ても分かった。そういう人にこそ、哲学対話の居心地の悪さ、違和感をずっと持ち続けてほしいと思うし、自分も持ち続けたいと思う。この展開はこうじゃないのか、あの発言はあんな意味じゃなかったのか、どうしてあの発言のことをもっと深く追求しないのか、その問いはそんなに重要なことなのか、、、こうした対話の中で出てくる数々の疑問を疑問のままにとっておいて何度も反復する疑問には自分で答えるように努めることは、望ましいことであろうと私は思う。しばしば哲学対話では答え探しをしないこと、問いを出すことばかりが強調されるが、対話の中で感じた疑問に、自分なりの答えを探し求めてもよいばかりか、それは不可欠であると思う。その点で、Aさんは、締まりが悪く物足りなく思うことを通じて、哲学対話をよく理解しているというより、実践してくれているのだろうな、と思う。今度また会うことができたら、その違和感は君が哲学対話をするのに不可欠なものだと伝えてあげたいとは思う、少しお節介だが。

古代遺跡アンコールワットが旅人の訪問を待っているように、子どもの問いも哲学の訪問を待っている

 哲学対話を終えた次の日、私はカンボジアといえばこれ、というアンコール遺跡群公園へ巡礼に行った。もっとも、人々はそれを観光と考えるかもしれないが、観光にはおよそ似つかわしくないストイックさと理不尽さとが私の旅には伴う。不幸にも私とともに旅した者が、私のかくのごとき旅を揶揄し「観光ではなく巡礼だ」と言ったことを私は名誉なことだと受け取り、私は「巡礼」という言葉を用いることにしている。

 アンコールワットがかつてクメール人の都として切り開かれたことに関しては研究が進められているが、全世界に観光の都として切り開かれることになったのは、19世紀終わりのフランス人旅行家アンリ・ムオの記した「アンコールワットの「発見」」以来である。アンコールワットを密林の只中に発見した彼はこのように書いている。

 かくも美しい建築芸術が森の奥深く、しかもこの世の片隅に、人知れず、訪ねるものといっては野獣しかなく、聞こえるものといっては虎の咆哮か、象のしゃがれた叫び声、鹿の鳴き声しかないような辺りに存在しようとは、誰に想像できたであろう。
 われわれはまる一日をここの見物に費やしたが、進むにつれていよいよ素晴らしく、ますます酔わされてしまった。  ああ! 私にシャトーブリアン、ラマルチーヌにも匹敵する筆力、あるいはクロード・ロレンのような画才が恵まれていて、このおそらくは天下に比類を見ないと思われる、美しくもまた壮大な廃墟の姿がどのようなものであるかを知人の芸術家たちに示すことができたなら。それは今はすでに亡びた一民族の唯一の遺跡なのであるが、その名さえ、この民族の名を高からしめた偉人、芸術家、政治家の名とともに、塵埃と廃墟の下に深く永久に埋れてしまおうとしている。

amazon kindle 第18章 位置1736/2407 アンコールワットの「発見」(カンボジア篇) Classics&Academia アンリ・ムオ https://www.amazon.co.jp/dp/B07BQP7SQD/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_BdTFEb2Y4RSG1

 私にとってのカンボジアでの哲学対話は、ひょっとするとムオがはじめてアンコールワットをみつけたときのようなものにも似ているかもしれない、と考えてみたい誘惑に駆られる。とはいえ、ムオのように、偉人や芸術家や政治家がかつて君臨したクメール文明のごときカンボジアの哲学が存在するということを、私は世界に知らしめたいと思っているのではない。そうではなく、私がムオと共有するのは「森の奥深く、しかもこの世の片隅に、人知れず、… 存在しようとは、誰に想像できたであろう。」という驚き、そして「塵埃と廃墟の下に深く永久に埋れてしまおうとしている」との洞察である。これはじつはあらゆる古代遺跡と子どもの問いに共通に言えることかもしれない。

 古代遺跡は、それが発見されるまで、森や海や砂漠の奥深く、あるいはもはや現代の地層に覆われて、あたかもこの世の片隅で訪問者を待ち続けている。そして、もしも誰もまさかそんなところに古代の遺跡があろうなどとは想像せず、永久に塵埃と廃墟の下に埋れていく。子どもの問いも、これと同じかもしれない。記憶の奥深くに沈み、日々の生活に覆われたまま、哲学の訪問を待ち続けているかのようなものだから。古代遺跡と違うかもしれないのは、子どもの問いは、永久に塵埃と廃墟の下に埋れていく数が圧倒的だということだろう。

(終わり)

The Third Man(木本)
The Third Man(木本)

Y先生には「君には言いたいことが何かあるのは分かるけれど、それが何であるのか分からない」と言われ、H先生には「何かの本質をつかんでいるとは思うけど、それが何かってことだよね」と言われたと話すと「それはそのままthe third manさんのキャッチフレーズになりますね」と。

ディアロギヤ@カンボジア<その二>

承前:プレダイアローグ

ダイアローグ

対話の構成員

 哲学対話のために4.30頃に集合したものの、結局なんやかやあって全員が揃って開始したのは5時過ぎくらいだったろうか。私、M氏、N氏、学生Aさん、学生Bくん、学生Cさん、学生Dさん、学生Eさん、学生Fさん、の全部で9人であった。学生は私の曖昧な記憶では全て19-21歳であった。学生はみんなジェンダーを専攻して、N氏がジェンダーの講義を担当している。私、M氏、学生Bが生物学的には男で、残りはみな女である。

自己紹介・アイスブレイク

 N氏がM氏と私の紹介をしてくれ、みな自己紹介することから哲学対話は始まった。M氏の提案で自己紹介の際に好きな「数」とその理由を言うことでアイスブレイク的なものをした。なぜその数が好きかという理由を挙げるのは実はとても興味深く、それを哲学対話のテーマにしてもよかったかもしれない、と思ったくらいであった。たしか7を挙げた人が、誕生日や自分の人生にはなぜかその数がついてきているので幸運をもたらすという理由を挙げていてなるほどそういうふうに数が好きになるのか、と思った。3を挙げた人は自分の人生とは関係なく、たとえば三位一体とか3つというバランスが美しいのでという理由を言っていて、私はそのような意味で好きな数を考えていた。他にも4か2かを挙げた人が同じようなことを言っていた。23だとか1960とかアボガドロ数とか光の速度の数とか言い出す人がいないのはなぜなんだろうとか思ったがそれを言い出すと本当に哲学対話をそっちに導いてしまいそうなので、黙っておいた。

本番開始

パート1  問いの強制力

 自己紹介が終わって、私にファシリテイターの役務が渡された。そこで、「数の話をこのまま続けてもよいと思ったのだが、ぜひともみなさんと考えてみたい問いがあります。それは「問うべきでない問いはあるか」「どんな問いが問うべきでない問いか」ということです。まずこれを考えることから対話を始めたいと思います。」のようなことを告げて、対話を始めることにした。そして、「時間に余裕があるわけでもないので、対話のルールや方法については先立って説明しないことにします。ともかく対話を始めてみて、その実践のうちでルールや方法については触れていこうと思います。」のようなことも言った。対話のルールや方法について知りたいと思っているのが私には分かっていたが、いや、だからこそ、ルールや方法の対話から始めてしまうのではなく、対話を始めてしまってから、守れなかったルールをその場で取り上げたり、自覚をともなってはいないが対話の方法に適った仕方で問いや答えができているものを現場で指摘するので十分であろうと考えたのであった。

力を行使する問いはすべきではない

N氏が日頃の学生の表情を察してであったのか、一番はじめに次のようなことを言った。「ジェンダーのフィールド調査では、相手が嫌だと感じることを質問してはいけない、としばしば注意しています。たとえば、あなたは週に何度性行為をしますか、どんな性行為が好きですか、など。みなさんも参考にしてみてください。」正直なところ、N氏がそんなことを言ってしまったら議論はほとんどそっちの方に傾いてしまうだろうな、と私ははじめネガティブに思ったのだが、あとで考え直してみると、これはこれで話が拡散しすぎなくて済むある種の制限をしたのでよかったのかもしれない。限られた対話の時間の中で、比較的的を絞った対話ができたと思ったのであったが、実は一番初めのその発言が効いていたのかもしれない。

 さて、学生の一人一人が話し始めたあたりから、私の記憶は曖昧である。いや、曖昧であるというよりは概念的な記憶しか私のうちに残っておらず、誰がどんな発言をしたか、という感覚に与えられたものの記憶がほとんど残っていない。学生の一人(たしかFさんだった)が、「父親に何人のガールフレンドと付き合ったのちに私の母と結婚することになったのか、と問うてはいけない気がする」というような極めて具体的な例を出してくれた人もいた。一方で、「相手に危害を加えたり傷付けるような問いは問うべきではない」と言った人(Cさん?)もいた。そして、比較的多くの時間を費やすこととなった「私のことを愛しているか」(Aさんによる問い)の問いが例として挙げられた。

 私が特にその問いへの注意を促すように仕向けたわけではなかったが、おそらくはその場にいたみなが、その問いに引き付けられたのであろう。いや、そう私が思っていただけかも知れないが。ともかく、私の記憶では、その問いが中心となって対話が進行していったように思われる。「私のことを愛しているか」という問いを出した学生が、それを1日に何度も尋ねたことがある、という経験を話すと、それは何度も尋ねたことに原因があるので、「私のことを愛しているか」という問いは適度に尋ねることは許されるだろう、というある種の反論もあり、重要な場面や機会に際しては、それを問うことは必要である場合もあろう、と言われたか、私がそう考えたかの記憶が曖昧である。

 こうした見解や問答が途中に幾度か沈黙を挟みながら繰り返されたあと、たしか私が「なぜ、「私を愛してくれ」と命令文で言う代わりに「私を愛していますか?」と誘導尋問をする方が、より一層強制力を持つのか」と尋ねたときに、Bくんが答えてくれたことは印象的であり、それがどういうことであるのかまだ考えている。「私を愛してくれ」の命令文においては、命令文を発する人が最終的には愛されるか愛されないかを引き受ける準備をしている。それゆえ発言に責任を持っている。けれども、「私を愛していますか?」と問うとき、問う人は、答える人の答えを知りたいのでもない。というのは「はい」という言葉しか期待していないのだから。さらに、答えは、問う人の発言でなくして、答える人の発言だから、問う人が発言に責任をもたなくてよい。そのうえまた、発言された答えに対して「それはなぜか」と追及し、「はい」を答えさせようとまでする強制力がある。と、おおかたそんなようなことを言ったのであった。

パート2 論理的にすべきでない問いと道徳的にすべきでない問い

 対話はそんなふうに進んでいたが、M氏が、これまでで話されてきたこととは全然違うことを考えていた、と発言した。「あなたは嘘をついていますか」「本当ですか」という問いが、問うべきではない問いだろうと考えていた、と言った。かなり話題が変わったので、皆何のことだろうと思い、M氏がその理由を説明するのを注意深く聞いていた。その理由とは、嘘をついていたとしても「嘘をついていません」と答えるのであるし、嘘をついていなくとも「嘘をついていません」と答えるから、というものである。私が理解するに、言っていることが本当のことであるのは前提とされなければならないことであり、本当かどうかに疑問を抱いて「本当かどうか」と尋ねてもそれに対しての直接の答えから本当か嘘かが決まるのではないから、その前提を疑うような問いを出しても意味がない、ということだ。これは完全な私の解釈になるが、たとえば話の整合性や話者の態度が嘘か本当かを決めるのである。「本当ですか?」「嘘をついていませんか?」はその意味ですべきではない問いではないか、ということであっただろう。思うに、そのような解説をその場でできればよかったのだが、あまりうまくは言えなかった。

 現場での対話における繋がりがどのようなものであったかを鮮明に思い出せないのだが、それは「本当に私を愛しているか」と問うのとどう違うのか、というような問いが出たと思う。それで、「本当に」という言葉を付け加えたからといって、果たして一体「私を愛しているか」というのと何がどのように異なるのであろうか、という問いも出た。

 再び沈黙や問答や応答がいくらかあって、私は次のように対話を整理した。M氏のような問いは、論理的にすべきではない問いということができるであろう。一方、M氏が発言する前までに学生たちの間で議論されていたのは、道徳的・倫理的にすべきではない問いということができるであろう、と。この整理は複数の学生たちにとってはあまり明確なものではなかったらしい。確かAさんはその整理のことをすぐに理解したようで、他の学生に説明をしていたと思う。そして、私の記憶では、Dさんがなかなかその区別にはなかなか納得しなかったようで、様々に問うたり答えたり発言したりした。

論理的にすべきでない問いは、誠実性の観点から道徳的にすべきでない問いに還元可能である

 その中で、この対話で私がもっともよく覚えている議論の流れになった。実際に誰が何を言っていたかを覚えておきたかったが、外国語であることに加え互いの発音の聞き取りにくさや不明瞭さのために、そこで対話されたことを概念的にしか把握していない。ともかく、区別に納得していなかったDさんが、論理的になすべきでない問いは、実は道徳的になすべき問いなのではないか、という主旨の発言をしたことは覚えている。この発言は刺激的であった。彼女は、その理由を、誠実性を持って説明した。というのは、「嘘ではないか?」「本当か?」と問うのは、答える人の誠実性を疑っているからだ、と言った。すなわち、「嘘ではないか」に対して「嘘だ」と答えるにも「嘘ではない」と答えるにも誠実性がともなっているのでなければならないのだから、問うべきでないというのは、誠実性を疑いにかけるという道徳が「すべきでない」と決めているだろう、と言ったのだった。

 このDさんの発言の趣旨を理解するのに私は、その対話の中でも時間がかかった。そして、問答を繰り返して何とか理解したとき、その意味するところのインパクトの強さに、論じていた別のことがどうでもよいように感じて、それ以外のことをあまり覚えておくことができなくなってしまった。

 ちょうどその発言の最中にN氏は離席しており、その発言の直後あたりにM氏はフライトをつかまえるために退席したのだったが、しばらくの間、すべきでない問いが論理からくるのか、道徳から来るのか、について論じたと記憶している。

問うべきではない愚かな問いと哲学の問い

 そのほかにも、論理的にすべきでない問いは愚かな問いとも言える、というのも取り上げられた。「本当ですよね?」と問うべきではないのは、その答えがどうであろうと分かりっこないという点で愚かなことだからだ。だがしかし、愚かな問いは、道徳的にすべきでない問いでもあろうと言われた。その例はなかなか笑えるものであった。男女の営みを初めて経験しようかというときに、「あなた綺麗にしてる?」というのは愚かな問いであり、かつ人を傷つけるという点で道徳的にしてはいけない問いだ、というようなことが議論されたからである。

 そう言えば、愚かな問いに関しては、私は、哲学の問いこそは、愚かなものの典型である、と発言したのであった。「存在とは何か?」とか「神はいるのか?」とか「時間はあるのか?」とかいう問いは問うても仕方がないのであって、さらには、それを馬鹿の一つ覚えのように哲学者は問い続けるのであるから、哲学的問いは愚かな問いではないか、と皆に問いかけたのだった。しかしながら、おそらくは、私の問いは理解されなかったし、私もうまくいうことができなかった。哲学的問いは、問うてはいけない問いではないだろうか、とシンプルに問いかければよかったのに、そうできなかったことを、ちょっと後悔している。

 対話の終わりの方に近くなるにつれて、私の記憶は一層曖昧である。何を話したのかをほとんど覚えていない。論理的にしてはならない問いは道徳的にしてはならない問いに還元できる、というテーゼが私の頭に繰り返し戻ってきて、それ以外のことの記憶が薄れてしまっているのだ。これではいけない、今話されていることに集中しなければ、と思っていたのが、少しだけ救いである。少しくらいは無知を自覚していたであろうから。

The Third Man(木本)
The Third Man(木本)

Y先生には「君には言いたいことが何かあるのは分かるけれど、それが何であるのか分からない」と言われ、H先生には「何かの本質をつかんでいるとは思うけど、それが何かってことだよね」と言われたと話すと「それはそのままthe third manさんのキャッチフレーズになりますね」と。

ディアロギヤ@カンボジア<その一>

プレダイアローグ

ピンチはチャンス

 カンボジアでも、コロナウィルスの影響で学校は休校になり大学も休講になり、さらには私的な集まりでも5人以上(いや4人以上、3人以上だったかもしれない、記憶が曖昧だ)の場合は自粛を要請されている中、N氏の自宅で、N氏の学生を集めて、十分に換気をしながら、哲学対話をすることになった。

 また、今回のカンボジア訪問を中心的にオーガナイズしていたM氏は、帰りのフライトのことなどを考慮して早めにカンボジアを離れることになった。そのためにM氏は1時間程度哲学対話に参加して途中で退席されたのであった。こういうわけで結局のところ、私が哲学対話のファシリテイターを最後まで引き受けることとなった。既に日本からカンボジアへの渡航の段階でほとんど私のやるべきことはなくなっていたのであったが、実際には、私がこのファシリテイターを務めなければ誰も勤める人がいなかったことを考えると、偶然にも私にしか果たせない任務があったということになる。どれほどそれを首尾よく遂行できたかは甚だ疑問であるが、ともかくはその機会を提供するに足る役割を果たすことができたのは好運ともいえる。その後自分の復路の便が欠航になって一時は帰国が危ぶまれたし、いまも念のため自己隔離を続けているが…。

 それにしても、多くの人々にとっての窮地は私にとっては好機に違いないと考える癖が昔から抜けない。根本的に下品な性格をしているため、人々が慌てふためき安全なところへと身を隠すのを見ると、どうも私にとってのチャンスが巡ってきたに違いないと妄信(猛進?)しはじめ、危険を犯したくなる私のこの病は、やっぱり治らなくてもいい種類のものだと確信を改めた。

Wat Phnom Hill, Attraction in Phnom Penh | Tourism Cambodia
ワットプノン 参照:https://images.app.goo.gl/3SG8UFtTsPFs7jy99

カンボジア化された対話への欲望

 そんな状況なので、哲学対話の時間はさほど長く取れず2時間弱くらいのものだろうと考えたこともあって、私はその日起きてから、午後4時30分に始まる哲学対話に向けて、早朝から騒がしいプノンペン市内の観光地を散歩しながらいろいろ思案した。ファシリテイターをするからといって何も気負う必要はないわけだが、コロナ大騒動の中、家族の心配をよそにカンボジアまで来て、カンボジアでしか対話できないことについて対話したいという欲求がどうしても抑えられない。もうすでにカンボジアにいるのだから、自分が無理にそうしようとしなくても、自ずとカンボジアの哲学対話になっていくのだろうとは思う。だが、それでもなお、なんとかカンボジア化された哲学対話を存分に楽しみたいとの謎の欲望が増してくる。それにはどうしたらいいのか、ああではないこうではないと考えながら、王宮や博物館へ行ったり、プノンペンという街が興ったこと記念したワットプノンという小高い丘がある公園を散歩したりしていた。公園は屋外なので問題はなかったが、この日から屋内のほとんどの観光スポット、王宮や博物館など、はコロナウィルス拡大防止のために閉鎖された。

前日に比べて人通りが少なくなっていた。

街歩き、仏教、連想

 公園を歩き終わったので、今度は街中を歩きながら、そこらやここらにある仏教寺院に入ってみた。奇抜な橙色の衣を纏っている仏僧たちは、私にはドラッグや売春OKのオランダの橙色を想起させるために、いつも不思議な気分になる。仏僧たちはドラッグなどやっていないし売春宿にも行こうとは微塵もしていないが、いつも暇そうにしているのを見ると、どうも信心深い様子があんまりしない。カンボジアはミャンマーなどと同じく(といっても多分色々違うのであろうがともかく)テーラワーダ仏教であり、どちらかと言えば戒律仏教である。大乗仏教と比べると宇宙論など説くことが少なくそういう意味で理論体系としての哲学には関心が向いていないという点で、少し思弁に乏しいのかもしれない、とM氏が話してくれたことを私は考えはじめていた。さらに、M氏は、以上のことが、カンボジア人たちと日本人が英語で話すとき、「should」という言葉に違和感を感じることの原因かもしれない、というようなことを話していたのも思い出した。

 そこから連想/想起が飛躍して、毎朝やっている自分の座禅は、テーラワーダ教の瞑想の本をH先生から教えてもらったことが大きいことを思い出した。また、東京の幡ヶ谷にあるゴータミー精舎で、テーラワーダ教のスマナサーラ長老がやっている瞑想のセッションに1日参加した経験も思い出した。だが、こんな連想ゲームをしていてもカンボジアでの特別な哲学対話をすることには役に立たない、と自分を戒めながら、昼ごはんでも食べようと思い、観光地付近を離れた。車やトゥクトゥクやバイクが砂埃を上げる道路の脇を歩きながら、ものすごい数の電線が束になっている電柱に何度も感動しながら、にぎやかな市場の中に入ってみたりした。

現地の人が食べていた何やらうまそうなものを私も食べた。料理の名前が分からない。お腹いっぱい食べて3USDくらいだった。

はじめてのサービス精神?

 他方で、カンボジアでしか体験できない対話を期待しすぎている私と同じ程度に、哲学対話をしたい、哲学対話とはどんなものか知りたいと期待して参加してくれるかもしれないカンボジアの学生にも失礼のないようにすべきであろうとも当然考えた。そもそも哲学対話をしたことがない学生には、哲学対話がどんなものかを知ることは難しいとしても、どんなものらしきものかくらいのことは知ってもらい、さらに興味を持ってもらいたいと素直に思った。そして今度の訪問でその全てを成し遂げることは難しくても、これから自分で哲学対話をやりたいと思ってもらえるきっかけくらいは提供したという気持ちも湧いた。そんな気持ちを抱くことは私には似つかわしくもなことであり、そんなサービス精神が芽生えてきたのに少し動揺した。いままでにそんな気持ちにはあまりなったことはなかったから。そんなわけで私はこの哲学対話で私はどう振る舞うべきであろうかと自問自答せざるをえなかった。

 参加する全ての学生が哲学対話を経験したことがある、と聞いていなかったと私は思い込んでいたわけだが、それは勘違いであった。哲学対話の開始の前に一度は哲学対話を経験したことがあると学生さんたちは言ったのだった。N氏とM氏と軽く打ち合わせをしたときに学生について話してくれたことを、その場が酒の場あったためか、私はよく聞いていなかったようである。ともかく、私は誤解に基づいて、ある程度は哲学対話、哲学カフェとはどのようなものかを説明しなければならないかもしれないと思い込んでおり、そうだとしたら、短く、どんなことをはじめて哲学カフェを経験しようとしている人に説明できるであろうか、と考えたのであった。新宿哲学カフェは、哲学がはじめての人のためのものとして始めた取り組みであるが、実際のところは、そもそも「新宿哲学カフェ」の宣伝広告が届くような人が、哲学カフェや哲学対話を全く知らないということはほとんどない。そうすると、対話を経験するに先立って、対話とは一体何であるかをごく容易に理解してもらいためには何を言えばいいのか悩ましくなったのであった。

問うてはいけない問いはあるか。

 さて、そんなこんな考えていて一度ホテルに戻ってから哲学対話の会場のN氏の自宅に向かおうとしていたところ、

問うてはいけない問いはあるか。

どんな問いは問うべきではないのか。

という問いがパッと頭のうちに現れた。あ、これはいい、これをもう哲学対話のテーマにしちまおう、と決めた。哲学対話を説明するのに、ひたすら問いと答えに注力すること、そして問いと答えのためなら何でもやっていいということ、をこの問いが実践で示してくれるだろう、と思った。それで、ウキウキしてホテルに戻って色々支度をし、もうすでに時間も迫っていたので足早に待ち合わせ場所に赴いた。

(続く) 続き:ディアロギヤ@カンボジア<その二> ダイアローグ

The Third Man(木本)
The Third Man(木本)

Y先生には「君には言いたいことが何かあるのは分かるけれど、それが何であるのか分からない」と言われ、H先生には「何かの本質をつかんでいるとは思うけど、それが何かってことだよね」と言われたと話すと「それはそのままthe third manさんのキャッチフレーズになりますね」と。

アンコールとの対話の回想断片

アンコールワット

 朝5時にSornという名のドライバーにホテルに迎えに来てもらう。彼は昨日シエムリアップ市のバスターミナルにプノンペンから到着したときに話しかけてきたトゥクトゥクドライバーである。

https://www.facebook.com/say.sorn

バスターミナルからアンコール遺跡に近い繁華街までは、歩いて行くことはできない。しかもすでに夜8時で暗くなっていたのでトゥクトゥクを使ってホテルまできたのだった。たった1日の限られた時間で多くの遺跡を回るにはトゥクトゥクをチャーターする必要があった。それも英語ができてこちらのわがままをよく聞いてくれそうな感じのドライバーでなければ私の思うようなアンコール遺跡巡礼ができない。ともかく、バスターミナルからホテルまでの分、及び明日1日のチャーター分とで、全部で30USDということで手をうったのであった。

 日が昇っていない真っ暗な中、トゥクトゥクの後ろに乗って風を受けると寒い。半袖半ズボンの虫取り少年みたいな格好なのだから。しかし、これが日中になるととんでもなく暑くなるのだろうなあ、と思うと、なぜかこちらの胸も熱くなってアンコールワットをはやく見たくなる。だいぶ飛ばしているがなかなか辿りつかないつかないところをみると、そのアンコールワットの規模の大きさにこれまた胸が膨らむ。

 はじめにチケット売り場に行ってチケットを買う。1日しか私には時間がないので当然1日券37USDを購入。ちなみにチケットには3日券62USD, 7日券72USDとあるが、(参考リンク アンコール遺跡公式ページ) アンコール遺跡とは、ようするに、それくらい時間をかけてみるべき大規模なものなのである。やはりコロナの影響で人はほとんどいない。が全くいないわけではない。3、4人くらいが、私とは別のチケットオフィスで券を購入していた。

 再びトゥクトゥクに乗ってしばらく走り、他のトゥクトゥクや車などの乗り物の光が集まってみんなが下車しているところで私も下ろされる。ここからは歩いて行ってくれ、まだ5時半ぐらいだけど日は6時くらいにのぼり、アンコールワットを見学したら8時くらいにはなるから8時半にもう一度ここで待ち合わせだとドライバーに言われる。

 そして真っ暗な森のような林のようなところにある小さな道を、何人か追い越しながら足早に私は歩いて行く。どうやら大きな橋のところまで来たらしい。チケットの確認をされる。アンコールワットはこっち、ということで案内されたが、全然建物は見えない。橋を渡って歩いて行くと、建物がほんの少し見える。全貌は暗くて見えないので、なんとでかいのだろう、と想像する。さらにその建物のを通り過ぎ、前の人がやっているのと同じようにホースらしきものに沿って歩いて行く。そうすると、ちょっとした池のようなものの周りに人だかりがすでにできている。30人くらいだろうか。もうすでに人がいる。コロナウイルスのために今はほとんど人はいないが、これが通常だったら、どうかしたら1000人くらいがアンコールワットの日の出の写真を取ろうと待ち構えている場所だそうだ。ともかく池の目の前に私も座ることができたので、とりあえず日の出を待つ。けれども、正直なところ日の出を見ることに興味もないし、日の出の写真を取ろうとも思っていないのだが、他には何も見えないしすることもないので、そうしてみた。

 さて、だんだんとあたりが白くなり影のようなアンコールワットが姿を現し始めるその直前に、セミが大合唱をし始めた。さながら歓喜の歌。アンコールワットにきた人をか、それともアンコールワットにのぼる太陽をか、歓待しているかのようである。「アンコールワットに今日もまた日が昇る、お天道さん、ありがとう」本当にそう聞こえるかと思ったが、自分の詩才のないのに絶望する。セミの合唱の方が遥かに感動的で、アンコールワットとその奥に見える日の出はそれほど印象的ではない。太陽がもっと昇るまで見ていてもよかったが、あたりが十分に白くなりようやくその大きな大きな姿を見せたアンコールワットは、ほどなく私を吸い寄せた。こんな大きなものが夜によって隠されていたなんて。

 門をくぐり、回廊に入る。回廊の背は低く幅も狭い。古代人は小さかったんだなとか思う。しかしながら回廊を出て台石と他の回廊や塔の壁に囲まれると、谷底に落ち込んだかと錯覚する。堅牢な石の建物がそびえ立ち、そこここにある彫像が私を見下ろす。それらのすべてのものが、かつては、装飾を施され、色を持っていたことを想像すると、そんなものは見えやしない幻覚が見えて来るかのような気分になる。妄想が湧き立ち始める。神官や身分の高い人々が神聖な儀式を執り行うために、私が今いる場所にいたのかもしれないのだ。彼は、彼女は、ここにいて何を考えていたのか。何を見たのか。何を聞いたのか。こうした妄想を伝える文才がないのがまたもや悔しいが、スケールの大きさと壮麗さが駆り立てる想像力が妄想を引き起こして夢や幻へと私を引き連れていくのを抑えようとして、私は息をのむ以外になす術がない。ペルーのマチュピチュ、ヨルダンのペトラ、エジプトのギザ、ギリシアのパルテノン神殿などの記憶を手繰り寄せても、これほどのものを感じなかったかもしれない。

 一番高いところに昇る階段はとても急だ。現在は観光者のために木製の階段が備え付けている。それでも急すぎるので安全上の理由から年寄りや妊婦や子供は昇ることが禁じられている。それほど急なその階段を、かつての人は手すりもなしに昇り降りしていた。そのことを考えて、降りるだけのものを持ち合わせていないと昇ることはできないのではないか、という問いを不意に思いつく。アンコールワットにいた王は自らが神であること示すために毎日その階段を登っては降りてくるという儀式をしなければならなかったらしい。王が階段昇らないが来たとき、それは死を意味したそうである。しかし死んだ後はその一番高い場所に埋葬されたという。だとすれば、最終的には登っても降りて来なくてよかったことになるではないか。いや、自分で登ったら自分で降りてくる、ということが重要なのか。そうであれば、自分で登るものは自分で降るだけのものを持ち合わせていなければならない、ということなのか。高所恐怖症の私は、恐怖を抑えるのに、そんな問答をしなければ、階段を降りることはできなかったようである。

 再び回廊をまわり、壁画や彫刻をみたり、塔から見える景色を見たりしながら歩き回る。アンコール遺跡群公園のうちもっとも大規模なアンコールワットをそんな感じで1.5時間程度で巡り終えた。もう少しゆっくり見たいとも思ったが、できるだけたくさんの遺跡を巡ろうとこの間に決意し、ドライバーとの待ち合わせ場所に行ってみる。まだ7時半にもなっていなかったのでドライバーはそこにはいなかった。なので近くの物売りのやつに、ドライバーの電話番号を伝えて、今から来るように言ってくれと頼むと20分程度で来てくれた。

道順

 アンコール遺跡群は相当広い範囲に及ぶが、やはりみるべきところは決まっているので、grand circuit(大回り)とshort circuit(小回り)と言われる順路で遺跡をめぐるのが普通である。参考(https://angkor-travels.com/html/angkormap.php) 私の場合は、かなり早く歩けるのと、どれだけ長い距離でもとにかく歩くという意思と体力を持っているので、ドライバーと相談して、大回りを反時計回りで廻ってから、小回りの廻っていないところに行き、1日で大回り・小回りに位置している遺跡の出来る限り多くを回る、という相談をした。

 赤色が実際に回ったルート。

人間と自然との戦いの痕跡への驚き

アンコールワットが19世紀後半フランス人旅行家ムオーによって発見されたとき、遺跡は密林に覆われていたという。いまや崩れていた壁や屋根は再現され、覆っていた草葉や木は刈り取られてはいる。けれども、あまりの大木は刈り取られることを拒否している。というのは、その木の一部に遺跡がなってしまったのか、それとも遺跡の一部に木がなってしまったのが分からなくなってしまっているからである。

Preah Khan temple

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%A4%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%B3

ところで、一般に、技術は、一方では、自然が成し遂げ得ないところの物事を完成させ、他方では、自然のなすところを模倣する。そこで、もし技術に従ってできた物事がなにかのためにであるとすれば、明らかに、自然に従ってできた物事もまたそうである。なぜなら、技術に従ってでてきたものにおいても、自然に従ってできたものにおいても、先のものと後のものとの相互の関係は同じであるから。

199a16 旧アリストテレス全集3 自然学 p75

カントは、かれの判断力批判の中で、(一七七頁)非常に含蓄のある、また私の考えによれば、私の理論によってはじめて説明できるような一つの命題を掲げています。「自然はそれが芸術のように見えるとき美わしく、芸術はそれが自然のように見えるとき美わしい」と。この命題は技巧をもって自然美の本質てきな須要物とし、自由をもって芸術美の本質てきな条件としているのです。しかし芸術美はそれ自体すでに技巧の理念を、自然美は自由の理念を、含んでいるのですから、美は技巧における自然、すなわち、技術性における自由に他ならないということを、カント自身が承認していることになります。 

p58  シラー『美と芸術の理論 カリアス書簡』岩波文庫 草薙正夫訳

 私が感じた驚きは、しかし、シラーやカントによる美と自然と芸術に関してでもなく、またアリストテレスのいうような自然や技術の目的に関してでもない。自然に部分的に抗して建てられた建造物、その建造物に対して新たな侵食を行う自然の大木、それらの戦いが終わった後に残された不調和。この点で、アンコール遺跡は、私にとってはなんとも驚くべき特別な遺跡になったのだった。

 私が感じた驚きは、人間と自然との戦いの痕跡に関してである。それは、人間と自然とが戦うことができたということに対する驚きなのだろうか。というのは、自然の一部でしかない人間が、その全体であるところの自然に戦いを挑むことがほんの少しでも可能であったということは驚きであるから。

 その驚きは、次のものに対する驚きと似ていると言えなくもない。まさにアンコール遺跡がそうであるように森林を開拓して都市が作られること、ピラミッドのように砂漠に石が積み上げられ墓が建設されること、海岸の埋め立てなどによって土地を広げていくこと、地下に穴を掘って鉄道を作ること。さらに現代に至っては星々に人の住むことのできる都市を作ったり、宇宙空間に宇宙ステーションを作ること。けれどもしかし、私の驚きはそれらの種類のものに対してでは、やはりない。私がPreah Khan templeのあの場所に感じた驚きは、正確には、人間と自然との戦いの痕跡に対してなのであった。つまり、森林が人間によって開拓され都市が建設されても、自然がそれを再び駆逐し、駆逐した自然は人間との戦いに疲れ果てたというわけではなくさらに何らかの大きなものに抵抗することに力尽きてしまったということ、それに驚いたのだった。

 たとえば、これからの将来、人類がある星に入植して都市を築いたとしよう。しかしながら築かれた都市と人類は、人類が入植する前から存在していたその星の生命体に乗っ取られてしまったとしよう。その都市とそもそもそこに存在した生命体もまた、その星の何らかの大きなものに抵抗することができずに力尽きてしまったとすれば、私がPreah Khan temple で感じた驚きと同じ驚きであろう。ということは、ようするに、Preah Khan templeに私が読み取った驚きは、そういうものなのである。戦いをも痕跡と化してしまうそれ。それは時間なのか、時間の流れなのか、とかいうふうには、問いたくない。

観光、修行、巡礼

 一つ一つの遺跡を回りはするものの、言うまでもなく他の観光客のようなことはしない。もっとも、コロナウイルスの騒動でほとんど観光客はいなかったので、そういうことをやってみる絶好のチャンスであったが。フォトジェニックなスポットで写真を撮るとか、自分の見たいところだけをみるとか、写真で見たあそこに行ってみるとか。やってみたら面白かったかもしれないが、どうしてもそうは体が動かないようだ。そういう意味でバカの一つ覚えみたいに、シシュポスの仕事みたいに、どの観光地に行っても全く同じことばかりやっているので、笑える。

 では何をするのか。遺跡の一つ一つ、遺跡の中の一つ一つの建物や塔や、そのうちにあるレリーフや彫刻、さらにそれを取り巻く自然、そして遺跡を管理する人々や組織、さらにはそこでモノを売ったり食事を提供するレストラン、これらのもののすべてを事細かに見聞きするのか。いや、そんなことはできない。それをするためにはアンコール遺跡に住み着き、アンコール遺跡を研究する研究家や専門家にならねばならないから。

 ではいったい何をするのか。巡礼である。修行である。私自身の巡礼であり修行をするのである。それはどういうものであるか。遺跡の中を歩き回り目をとめたり耳をすましたりして為したいことは、謎を感じてそれを捨てることである。不思議さに包まれてそれを取り払うことである。じわじわと湧いてくるその何かをとっておかないで、遺跡の中や外やその道中に、置いて行ってしまうことである。

 たとえばある遺跡をみれば、別の遺跡との異同が気になったり、どちらを好むかということを考えたりする。また事前に仕入れた知識をレリーフや彫刻や建築のうちに確認したくもなる。建造された当時はヒンドゥー教の寺院であったのに後に仏教の寺院として用いられたことが分かるものを発見すると嬉しい。また人が住まなくなって風雨や森林化や地震によって破壊されたものをいかに現代の技術で再現したかを目にするのも感動的である。さらに遺跡だけに限らず、遺跡の周りや近くで生計を立てている人や環境のことも考えないではいられない。モノを売る貧しそうな格好の人々。1ドルだけくださいと言ってくる子供。出入り口付近で待ち構えているドライバーたち。汚いトイレ。捨てられているゴミ。伐採された木。ならされた道。メンテナンスされていない道路。こうした種々様々なことのすべてを記憶に留めておくことはできないと言いきかせ、種々様々なことが起こる場所があるだけであり、私はそれを体験し、その体験はいまこの場で消え去って行く、と思い至ることが、私の修行である。しかもそれが私にとって巡礼であるのは、遺跡が、これらすべての目撃者であって記録者であるからであり、私が目撃者であり記録者なのではないという私の自覚から来る。遺跡に対して抱くかくのごとき畏敬の念が、私をして人が観光としか呼ばないであろう私の行為を、私自身によっては巡礼と言わしめている、愚かなことに。

 遺跡が、私の訪問までに目撃したものは何であったか。そしてまた私の訪問の後目撃するのは何であるのか。そのうちの、私の訪問はこの遺跡にとっていったい何であるのか。とりたてて何でもない。

 この遺跡はすでに、人によって自らが建造されるところを目撃した。人々がそこで生活していたことを知っている。また、人々がなぜそこを去ったのかをも知っている。さらに長い年月にわたり森林が侵食し、地震によって破壊されるという経験もした。けれどもまた再び、人々が森林を払い除けて発見したときの声を聞いた。調査団によって様々に取り調べられ、壊れたところは修復され、次第に数々の訪問者が増えてきたことを、この遺跡は知っている。

 そして私が来るこの時期には、COVID19という疫病によってほとんどの人々が近づこうとしないようになったことを、この遺跡は知っている。それはかつて、この遺跡をはじめに建造した人々あるいはその子孫が、この遺跡を捨て他の地へ去ったのと同じだったかもしれない。いや、他の地に去るのではなくして、そこで生き絶えたのかもしれない。そのことをこの遺跡は知っている。

 これから疫病の騒動がおさまり、ふたたび世界的な観光の都として人類にとって崇拝の的になるのかもしれない。むしろ逆に、疫病の騒動がおさまらず、観光の都となっていたこともふたたび人類によって忘れられるかもしれない。そして、さらにふたたび森林にとっての都となるかもしれない。これらのことを、この遺跡は全て知るのであろう。

 実は、以上のことは、世界各地の遺跡(や自然公園なども含めて)を巡礼して常に変わらず思うことであり、必ずそのことを思い出そうと修行している。アンコール遺跡だけが特別に、古代人の隆盛と滅亡、そして、現代人の観光地としての復活とその行末を知っているわけではもちろんない。ピラミッドも、ペトラも、マチュピチュも、海や砂漠や草原もまた、そこに住む生物あるいはそこに来ては去る現象を知っている。そう考えてみるとき、もちろん、これらの遺跡や自然公園すら、単に地球上に存在する一部のものに過ぎないことに気がつかないひとはいないだろう。その点からすれば、地球が、遺跡や自然を目撃し記録し続けている真の存在だとも考えたくなる。しかしながら、地球でさえ、宇宙の単なる一部にしか過ぎないこともまた言うまでもない。そして、宇宙ですら、可能な世界の単なる一つであるかもしれないのだ。そうすると…あらゆる可能な世界の…。とは考えたくはない。

子供たちとの短い対話

ほとんどの遺跡をめぐり終わり、最後にもう一度アンコールワットに訪れ、いくばくかの何もしない時間を設けようと決めた。そのまえに、夕焼けが綺麗だという噂のプノンバケンという小高い山に登ることにした。もっとも夕焼けなど見に行くつもりなのではなく、ただ単に行くべきところの一つであろうから、行かないわけにはいかないと思っただけだったが。

そのプノンバケンの頂上に到着。一周してみてもアンコールワットがよく分からないので、3人組の子どもがいたので話しかけてみた。男の子2人と眼鏡をかけた女の子一人(子供1)で、彼女は英語が話せるというので、ほんの少し会話をした。

私:アンコールワットはどこに見えるのかな?
子供1:こっち。木に隠れているけど、なんとか5つの塔が見えるよ。
私:本当だね。いつもは観光客でいっぱいなんだってね。
子供2:そうだけどコロナウィルスで誰もきてないみたい。
私:だって俺たち4人だけだもんね、今いるのって。
子供みんな:ははは。
私:そういえばさっきお線香をあげたのはお祈りしてたの?
子供1:そう。
私:仏に?
子供1:そうなんです、母が亡くなってしまったので。(多分Buddhism という単語に関して聞き間違いか理解に齟齬が生じていたのだろう)
私:(うろたえて沈黙。その後なんとか取り繕って) アンコールワットの方向を教えてくれてどうもありがとう、助かったよ。
子供1:なんでもありません。今から歩いて降りて行きますか?
私:もう少しここでゆっくりするよ。だいぶ疲れたんでね。
子供1:そう。ではゆっくりしていってください。
私:ありがとう。良い一日を!
子供1:あなたもぜひ!

The Third Man(木本)
The Third Man(木本)

Y先生には「君には言いたいことが何かあるのは分かるけれど、それが何であるのか分からない」と言われ、H先生には「何かの本質をつかんでいるとは思うけど、それが何かってことだよね」と言われたと話すと「それはそのままthe third manさんのキャッチフレーズになりますね」と。

COLAをリリースします!

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第7回新宿哲学カフェ 2020/03/12

新宿哲学カフェ・カウンセリングは、哲学や対話をはじめて知る人のためのものです。

会話や雑談から始めて、哲学の問いや対話の方法に気づいていただくように案内いたします。

店舗案内写真

こんな人にご利用いただくのが最も適しています。

  • 哲学カフェって何をするところ?どんないいところ、悪いところがあるの?と思っている人
  • 哲学カフェには参加してみたいけど、知らない人がたくさんいるところには行きたくない人
  • 哲学対話は面白そうだけど、経験者ばかりが参加していそうなところに行くのは不安だと思っている人
  • 哲学対話に参加するほどの勇気がない人

また、哲学、対話、哲学カフェ、哲学プラクティス、などをすでにご存知の方も、はじめて哲学を知ることができるかもしれない、と思うことができれば、ぜひ、いらしてください。

また、対話屋ディアロギヤは、各種のサービスを提供しております。(例:対話イベントレンタル哲学対話、COLA(貸し本棚+シェアオフィス)ただいま記事を準備中) 各種サービスについての質問、相談、体験などをご希望の場合にも、新宿哲学カフェの時間をご利用いただけます。

新宿哲学カフェについて詳しく知りたい方は、是非、こちらをお読みください。もちろん、お読みならなくとも、新宿哲学カフェにはお越しいただけます。

概要

日時2020/03/12 木曜日 2pm – 6pm
店番木本
場所160-0023 東京都新宿区西新宿7-22-11 金重ビル1B
料金カウンセリング
500円/30分
(子ども・学生無料。SNSのリアクションなどで無料や割引の特典あり。)
だるまふどうさん」へのSNSリアクションで無料の特典あり。

各種サービスについての相談など
無料

皆様の初めての哲学カフェへのお越しをお待ちしております。

お問い合わせはこちらから。

第6回新宿哲学カフェ 2020/03/09

はじめての人のための哲学カフェ です。

対話が苦手な人、対話なんてしたくないと思っている人、哲学なんて関係ないと思っている人たちに向けた、哲学カフェです。

そのほかにも、こんな方々のご来店をお待ちしております。

  • これまでに哲学カフェ・哲学対話に参加したことがない人
  • 哲学や対話という言葉も聞いたことがない人
  • 哲学カフェって何をするところ?と思っている人
  • 哲学対話って何か役に立つの?どんないいところ、悪いところがあるの?と思っている人
  • 哲学対話って何?と思っている人
  • 哲学対話を体験するよりも前に、どんなものなのか説明してほしい人
  • 哲学カフェには参加してみたいけど、知らない人がたくさんいるところには行きたくない人
  • 哲学対話は面白そうだけど、経験者ばかりが参加していそうなところに行くのは不安だと思っている人
  • なんとなく実践にはじめて参加する勇気がない人

注:いわゆる哲学カフェとはちょっと違います。違いについては「新宿哲学カフェ」についてのページをご覧ください。 

新宿哲学カフェ(哲学カフェ or 哲学カウンセリング)

 日本における多くの哲学カフェはハワイにおける実践やフランスのマルクソーテの影響を強く受けたもので、円になって座り、コミュニティーボールを交換して対話をする、という特徴があると言われています。対して、主にヨーロッパ大陸では、哲学カウンセリングという実践が主流と言われることもあります。個人やごく少人数での行われる相談や商談のイメージに近いものかもしれません。

 新宿哲学カフェは、両者の中間を目指しておりますが、現状では、どちらかといえば、哲学カウンセリングに近い形式です。もっとも治療やケアを目的とするよりは相談や傾聴に重きをおきますので、カウンセリングというよりも、哲学コンサルティング(相談)というべきかもしれません。

 哲学カフェか、カウンセリングか、はたまたコンサルティングか、という呼び名はさておき、実際にやることはシンプルです。まずはお話をよく聞いたうえで、哲学に結びつきうるお客様自身の問いを一緒に探すことです。これによって、はじめての人にも、哲学とは何か、が少しは分かってもらえると考えているからです。

概要

日時2020/03/9 月曜日 2pm – 6pm
店番木本
場所160-0023 東京都新宿区西新宿7-22-11 金重ビル1B
いつもの
メニュー
哲学カフェとは?
対話とは?
問いとは? など
日替わり
メニュー
・マシューズの、古代哲学と子どもの哲学
・本棚とワークショップスペースのサブスクサービス(COLA コーラ)について *1
料金500円/30分
(子ども・学生無料。SNSのリアクションなどで無料や割引の特典あり。)
だるまふどうさん」へのSNSリアクションで無料の特典あり。

*1 共有のCO, 図書室LIBRARYのL, 場所のCHORA(コオラー)にちなんで仮名を付けました。詳しくはお問い合わせください。あるいは直接店舗まで是非お越しください。

新宿哲学カフェについて詳しく知りたい方は、是非、こちらをお読みください。もちろん、お読みならなくとも、新宿哲学カフェにはお越しいただけます。

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第5回新宿哲学カフェ 2020/03/5

はじめての人のための哲学カフェ です。

対話が苦手な人、対話なんてしたくないと思っている人、哲学なんて関係ないと思っている人たちに向けた、哲学カフェです。

そのほかにも、こんな方々のご来店をお待ちしております。

  • これまでに哲学カフェ・哲学対話に参加したことがない人
  • 哲学や対話という言葉も聞いたことがない人
  • 哲学カフェって何をするところ?と思っている人
  • 哲学対話って何か役に立つの?どんないいところ、悪いところがあるの?と思っている人
  • 哲学対話って何?と思っている人
  • 哲学対話を体験するよりも前に、どんなものなのか説明してほしい人
  • 哲学カフェには参加してみたいけど、知らない人がたくさんいるところには行きたくない人
  • 哲学対話は面白そうだけど、経験者ばかりが参加していそうなところに行くのは不安だと思っている人
  • なんとなく実践にはじめて参加する勇気がない人

注:いわゆる哲学カフェとはちょっと違います。違いについては「新宿哲学カフェ」についてのページをご覧ください。 

新宿哲学カフェ(哲学カフェ or 哲学カウンセリング)

 日本における多くの哲学カフェはハワイにおける実践やフランスのマルクソーテの影響を強く受けたもので、円になって座り、コミュニティーボールを交換して対話をする、という特徴があると言われています。対して、主にヨーロッパ大陸では、哲学カウンセリングという実践が主流と言われることもあります。個人やごく少人数での行われる相談や商談のイメージに近いものかもしれません。

 新宿哲学カフェは、両者の中間を目指しておりますが、現状では、どちらかといえば、哲学カウンセリングに近い形式です。もっとも治療やケアを目的とするよりは相談や傾聴に重きをおきますので、カウンセリングというよりも、哲学コンサルティング(相談)というべきかもしれません。

 哲学カフェか、カウンセリングか、はたまたコンサルティングか、という呼び名はさておき、実際にやることはシンプルです。まずはお話をよく聞いたうえで、哲学に結びつきうるお客様自身の問いを一緒に探すことです。これによって、はじめての人にも、哲学とは何か、が少しは分かってもらえると考えているからです。

概要

日時2020/03/5 木曜日 2pm – 6pm
店番木本
場所160-0023 東京都新宿区西新宿7-22-11 金重ビル1B
いつもの
メニュー
哲学カフェとは?
対話とは?
問いとは? など
日替わり
メニュー
ガレス・マシューズの子どもの哲学について
料金500円/30分
(子ども・学生無料。SNSのリアクションなどで無料や割引の特典あり。)
だるまふどうさん」へのSNSリアクションで無料の特典あり。

新宿哲学カフェについて詳しく知りたい方は、是非、こちらをお読みください。もちろん、お読みならなくとも、新宿哲学カフェにはお越しいただけます。

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第4回新宿哲学カフェ 2020/03/2

はじめての人のための哲学カフェ です。

対話が苦手な人、対話なんてしたくないと思っている人、哲学なんて関係ないと思っている人たちに向けた、哲学カフェです。

そのほかにも、こんな方々のご来店をお待ちしております。

  • これまでに哲学カフェ・哲学対話に参加したことがない人
  • 哲学や対話という言葉も聞いたことがない人
  • 哲学カフェって何をするところ?と思っている人
  • 哲学対話って何か役に立つの?どんないいところ、悪いところがあるの?と思っている人
  • 哲学対話って何?と思っている人
  • 哲学対話を体験するよりも前に、どんなものなのか説明してほしい人
  • 哲学カフェには参加してみたいけど、知らない人がたくさんいるところには行きたくない人
  • 哲学対話は面白そうだけど、経験者ばかりが参加していそうなところに行くのは不安だと思っている人
  • なんとなく実践にはじめて参加する勇気がない人

注:いわゆる哲学カフェとはちょっと違います。違いについては「新宿哲学カフェ」についてのページをご覧ください。 

新宿哲学カフェ(哲学カフェ or 哲学カウンセリング)

 日本における多くの哲学カフェはハワイにおける実践やフランスのマルクソーテの影響を強く受けたもので、円になって座り、コミュニティーボールを交換して対話をする、という特徴があると言われています。対して、主にヨーロッパ大陸では、哲学カウンセリングという実践が主流と言われることもあります。個人やごく少人数での行われる相談や商談のイメージに近いものかもしれません。

 新宿哲学カフェは、両者の中間を目指しておりますが、現状では、どちらかといえば、哲学カウンセリングに近い形式です。もっとも治療やケアを目的とするよりは相談や傾聴に重きをおきますので、カウンセリングというよりも、哲学コンサルティング(相談)というべきかもしれません。

 哲学カフェか、カウンセリングか、はたまたコンサルティングか、という呼び名はさておき、実際にやることはシンプルです。まずはお話をよく聞いたうえで、哲学に結びつきうるお客様自身の問いを一緒に探すことです。これによって、はじめての人にも、哲学とは何か、が少しは分かってもらえると考えているからです。

概要

日時2020/03/2 月曜日 2pm – 6pm
店番木本
場所160-0023 東京都新宿区西新宿7-22-11 金重ビル1B
いつもの
メニュー
哲学カフェとは?
対話とは?
問いとは? など
日替わり
メニュー
対話を求めるのは社会的に上の立場の人か、下の立場の人か。
ウィットとユーモアについて 
【キケロ『弁論家について』第二巻51−71節(231-289)岩波文庫下巻p9-55】
料金500円/30分
(子ども・学生無料。SNSのリアクションなどで無料や割引の特典あり。)
だるまふどうさん」へのSNSリアクションで無料の特典あり。

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