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Category哲学

大森哲学のグロテスクとやりすぎ

中島 義道 – 単行本 生き生きした過去 大森荘蔵の時間論 p123 ここまで「立ち現われ一元論」をたどってきて、あらためてなぜ大森先生はこれほど世界をグロテスクなものとして見ていたのだろうか、という単純な疑問が湧きます。初めはそれしか知らなかったので、「そんなものか」という程度の印象しかありませんでしたが、その後数々の哲学理論を学ぶにつれて、これほどグロテスクな哲学理論も珍しいものだ、ということがだんだんわかってきました。学生時代に先生にどのように哲学をするべきか、尋ねたことがあります。すると、意外な答えが返ってきました。  やりすぎることです。直感的にある考えが正しいと思ったら徹底的にやってみる。毛沢東のように、やりすぎなければ革命はできません。 ...

中畑正志『はじめてのプラトン』レビュー

 非古典研究者によって書かれたプラトンについての概説書や入門書は読むどころか見るに耐えないものばかりだが(例外は『プラトンと資本主義』くらいか?)、古典研究者によって書かれたプラトン入門書はどれを読んでも、いろんな意味でおもしろい。本書もまた後者の一つであって、とくに対話篇論と魂論が印象的だったが、個人的には、イデア論をさらに考えるために設けられたコラム3(p242)がとくに魅力的であった。というのもイデア論の申し子、第三の人間論が論じられたも同然であったからである。...

カント『プロレゴーメナ』より、笑える一節

プロレゴーメナ・人倫の形而上学の基礎づけ (中公クラシックス)   カント pp8-9  形而上学が学問であるなら、形而上学が他の諸学問のようには全般的持続的な承認を得られないといったことがどうして起こるのだろうか。また、形而上学が学問でないのなら、形而上学が学問であるかのようなふりをして、たえず気取った様子を示し、人間の悟性を欺いてけっして消えることのない、それでいて満たされることのない希望をいだかせるといったことがどうして生じるのか。そこで、われわれにとっては、自分の知を論証することになるにせよ無知を論証する...

日本語で書かれた哲学対話の8つの必読本から考える、現代日本の哲学対話のまとめと歴史

哲学対話や哲学カフェに関心を持つ人に、ぜひ知ってもらいたい日本語の本がある。これらを通じて、哲学対話には、自前の言葉、自立した活動、自由な思考、自然な問い、が重要であることを知ってもらいたいと思っている。 現代日本の哲学対話の歴史 中島義道『〈対話〉のない社会』1997.11  授業中の私語、管理放送、標語など言葉の氾濫に対して戦ってきた著者の体験、また日本の文学作品に見られる会話、これらの考察を通じて欠けているのが対話であると指摘し、優しさや思いやりが圧殺しているのは対話であるとを訴える。対話の「敵」が何であるかを明らかにした点が特徴的である。...

哲学を必要とする時代の「哲学」とは?

Q. 1哲学のない時代は不幸だが、哲学を必要とする時代はもっと不幸だという一文からひかりさんが感じたことを教えて下さいQ. 2日本における哲学を勉強する人数、国民への浸透度は50年前程度と比べて上がっていると思うか下がっていると思うか#桜川ひかりに哲学のことをきいてみた— 涼太✂︎ (@Ryotamoru) August 26, 2020 哲学を必要とする時代の「哲学」は幸福である、と私は皮肉をもって述べたいのですが、そのことを再度、かつて書いた記事を少し書き換えることで、主張したいと思います。 はじめに:自己批判の欠如している読者に対する警告...

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