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中畑正志『はじめてのプラトン』レビュー

 非古典研究者によって書かれたプラトンについての概説書や入門書は読むどころか見るに耐えないものばかりだが(例外は『プラトンと資本主義』くらいか?)、古典研究者によって書かれたプラトン入門書はどれを読んでも、いろんな意味でおもしろい。本書もまた後者の一つであって、とくに対話篇論と魂論が印象的だったが、個人的には、イデア論をさらに考えるために設けられたコラム3(p242)がとくに魅力的であった。というのもイデア論の申し子、第三の人間論が論じられたも同然であったからである。

 正直なところ、批判と変革の哲学というサブタイトルの論点については、私にとってはさほど心を打つものではなかった。とはいえ、プラトンについて、ぜひとも知っていなければならない標準的な論点が適度な量とともに首尾よくまとめられていて、正確でありながら見通しのよい入門書だった点は、実はとても優れているということなのかもしれない。専門家でも初心者でもない私にとってはそう思われたのだが、初心者の見解はどうでもいいが、専門家が何を言うのか、いろんな意味で聞いてみたいものである。

 おそらくは誰が読んでも最も気にせざるを得ないのは、第八章「プラトン、その後に」であろう。プラトンが歴史を通じてどのように読まれてきたのかについて、これまでは一般にはほぼ知られていなかった多くのことが書かれている。プラトン『国家』の読解において、ゲルマン的解釈とシュトラウス派の解釈が紹介されているのだが、諸家それぞれの「私のプラトン」が、われわれが生きる現代の人文学や教育や政治とにどれほどの影響を与えているのかが論じられていると理解しても間違っていないと思われる。その中で私にとっては新鮮だったのは、つまりその意味で、私にとって「はじめてのプラトン」なのだが、アメリカのプラトンであった。なんというか、期待に違わず、私の偏見に満ちたアメリカの印象そのものがやはりアメリカのプラトンであった。自由だとかなんだとか言いながら、哲学を政治と引き離そうとするくせに、その徹底さが足りず、哲学と政治を引き離そうとする政治的行為になってしまうという、幼稚になりきれない中学生臭さが、なるほどプラトンがアメリカに行けばそうなってしまうだろう、という気がした。

 それにしても、対話篇を読むことについて、批判的に読むことについて、著書の言わんとするところは、全てよくわかるが、果たして、しかし、そもそも、一体、対話とは何か。プラトン対話篇を読むというよりは、プラトン対話篇と、対話してみて、私がいつも対話してみたくなるのは、対話とは一体何か、問答とは一体何のことなのか、ということなのであり、プラトンによって書かれたものが対話篇であるとは、私にとっては、如何なる読み方であろうと幾度と読まれようと、読まれる対話篇というだけでは、対話篇を汲み尽くせるとは思われない。読まれることや読んで考えることだけでは、対話篇のうちの「対話」はどうしたって、とらえられえないと思う。

 対話篇のうちの何が対話なのか、対話篇のうちの対話とは、一体何のことなのか。対話とは一体何なのか。

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Y先生には「君には言いたいことが何かあるのは分かるけれど、それが何であるのか分からない」と言われ、H先生には「何かの本質をつかんでいるとは思うけど、それが何かってことだよね」と言われたと話すと「それはそのままthe third manさんのキャッチフレーズになりますね」と。

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