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夢でのメール
不思議な夢を見た。私は誰だか知らない哲学の師を慕っており、対話を在野で研究している。私の師は哲学教室アレクサンドリアを主宰しており、哲学の専門家たちが、どこか殺伐とした雰囲気のその教室で毎回講義を行なっている。あまり議論や対話の場は設けられないことに、私は何も疑問を感じていない。
私はその生徒に過ぎないというのに、師はある日、哲学を志す或る新入りの生徒「根尾井さん」に対し、私に哲学対話について尋ねるように言ったという。そういうわけで私は根尾井さんから、哲学教室アレクサンドリアで哲学の発表し、対話をするにはどうしたらいいのか、という相談のメールをもらった。私は師を忖度することもせず、そのメールに返信をしたという夢であった。
夢であったとはいえ、考えてみたところそれが現実であったとしてもおかしくはない。そこで、そのメールへの返答を、以下に記しておくことにする。
根尾井さん
私は根尾井さんがどのような方かを存じ上げませんので、無礼に当たる言葉遣いや的外れな指摘など、多くの不備があることと思います。どうかお許しいただけますようお願いします。
率直に申し上げますと、ある意味では私が哲学的生の全てを懸けている哲学対話について、短いメールでは述べることはできません。そこで、根尾井さんが発表を行い対話を試みようとしている哲学教室アレクサンドリアという場について、多少なりとも事情を知っている私が、その場で行われる対話に関しての心構え、言い換えればその場を最大限活かして如何に自らが哲学することができるか、をお伝えしようと思います。
自分の問いにこだわる
巷での哲学対話や哲学カフェに何度か参加したことがありますが、議論というより、相手を否定しないで、できるだけ優しく問いかける、といったような対話の実践が行われることがほとんどでした。専門家による講義とそれに対する殺伐とした質疑応答が繰り返されるこの教室の環境に慣れていた私としては、哲学対話や哲学カフェは何か物足りずそれでいいのか?」とずっ終始違和感を感じていました。
哲学対話や哲学カフェにも様々なものがありますが、ともかく、このたび根尾井さんが発表される場はそれらとは全く異なる場と考えて間違いありません。巷での哲学カフェや対話については一度忘れ、哲学教室アレクサンドリアで対話を行うということを強く意識するとよいと思います。根尾井さんの発表に参加される人々は、この教室の主宰者をはじめとする、ある意味では最も哲学的な人々であるはずです。そういった環境は滅多にありません。そういう場では、「相手を否定せず、優しく問いかける」ことは全く度外視されますし、論理の弱点や盲点を指摘され、自分の根本的な信念は覆され、しつこくねちねち問い詰められます。それがこの教室のいわば流儀ですが、このような流儀は別に何らの重要なものではなく、最初は驚かれるかもしれませんが、二度三度体験すればそんなことは本質ではなく、ただ単に哲学者というのが下品な人の集まりだということがわかるだけです。二三度そういう輩たちを相手にすれば慣れてしまいますので気にすることはありません。根尾井さんが哲学者ごときに恐れをなす方ではないことを願うばかりですが、哲学者などというのはひねくれの塊のようなものですので、それくらいは知っておくとよいかもしれません。
話が逸れましたが、とりわけて大切なことは、あなたが発表者である限り、どんなに何を言われようとも、ありとあらゆる手を尽くし、全ての知識と言葉を総動員して、自らの問いをその場にいる人々に理解させるよう努めることです。自らの問いを目の前の人々に吟味してもらうこと、それに尽きます。いろんな人からいろんなことを言われるでしょうが、根尾井さんの問いが明晰であればあるほど、ほとんどの反論や指摘や根本的な誤解に基づくものだということが段々と分かってくるのではないかと思います。
こうした次第ですので、相手に言われたことを真摯に受け取ってよく理解することはもちろん必要ですが、それよりも、あえて自分の問いだけは譲らないで、手を替え品を替え説明し、執拗に自分の問いを理解してもらえたかどうか意識することの方が、遥かに重要だと私は信じています。
レジュメに自分の問いを書く。あらゆる反論を想定しておく。
今回は先生をはじめとした、専門的な哲学に詳しい方々にも参加してもらい、またレジュメ作成の元になる本もかなり専門的なものになります。そのため、多少アグレッシブな議論が予想されます。
レジュメの内容や問いも環境に合わせて作ろうとしているため、どう作成しようか悩んでいるところです。
長年哲学をやってきた人や哲学を専門にしている人々を相手に対話をする限り、専門的であるがゆえに理解されないかもしれない、などと心配する必要はありません。どれほど専門的になっても構わないと思います。専門的であればあるほどよいこともあるかもしれませんし、その限りで、想定される「アグレッシブな議論」は、歓迎すべきことだと思います。
「アグレッシブな議論」にはどうしても意識が集中してしまい、議論に勝とうとしたり言い返そうとしたりするかもしれません。それは避けられないことですが、それでも、自らの問いを本当に理解してもらうこととは無関係だということをいつも意識し反省しておく必要があります。本当に自分の問いが理解されているか、なぜ理解されていないのか、どうしてこの人には自分の問いが理解されないのか、自分の問いが誤解されてしまうのはなぜなのか、ということを、常に気にかけるべきです。その上で、可能であれば、事柄そのもののを配慮し、つまり真理を配慮し、どれほど自分や対話の相手が真理に近づいていっているのかを心に留めておくことができることが理想です。
レジュメに何を書くべきかといえば、(1)自分の問い(2)それを示す根拠の2つだけでいいと思います。
(1)については、先にも述べたとおり、自らの拘っている問いを、できれば一つに絞り、端的に書くのが望ましい。しかしそれはそう簡単なことではないかもしれません。自分の問いを明晰な言葉で言えるようになるために、ほぼ全ての哲学者が修行をしているようなものですから。
(2)自分の問いを明晰に言葉にできなくとも、既に知られている概念や議論や専門的研究を取り上げて批判することで、自分の問いを明らかにすることができることも多々あります。これが実は伝統的論理学が教えるところの「弁証論」の意味なのですが、それはともかく、誤解されそうな点や、似ているけれども異なる論点や見解などの具体例や引用を上げて、自分自身の反論を書いておくとよいでしょう。また、レジュメに書いておく必要は必ずしもありませんが、先生や参加者を思い浮かべて、想定される反論に対し全て答えうるように心の準備をしておくように、私は心がけています。こういう準備があってこそ、思ってもみない反論や批判が他者から繰り出されたときに、どれほど幸運なことが起こったかが分かると思います。
ディスコミュニケーション
そこで林さんに、哲学塾においての議論や対話のルールをどう考えればよいか教えて欲しいと思っています。林さんが大学院で学ばれた「ディスコミュニケイション論」等を元に、現在お考えになる「対話とは何か?」を恐縮ながらお伺いできればと考えています。
はじめにディスコミュニケイション論をもとに私が現在考えている対話について言及いたします。ディスコミュニケイションの最も重要な特徴の一つを私は次のように解しています。すなわち、誤解されたり議論が噛み合わなかったりすれ違ったりし続けることを承知の上で、言葉を尽くして説明することをやめないこと、です。互いの話がどこまで行っても平行線を辿る「押し問答」は、頻繁に起こります。普通ならそこでの妥協点や共通理解を探ろうとしますが、その誘惑や欲望を断ち切って、理解できていない点について意識を集中し、違和感を払拭するよりはむしろ育てながら、探究の行く末までを見届る辛抱強さが、哲学対話には必要だと思います。安易な着地点に到達しないで、居心地の悪さを保ったままで、コミュニケイションを続けることができれば、ディスコミュニケイションの核心をとらえた対話と言えるでしょう。
ついでながら、哲学の議論において、このようなディスコミュニケイションが度々起こるのは大変興味深い現象です。私は今だにこれがなぜ起こるのかの原因が気になっているのですが、一つの仮説としては、哲学の問いが把握されるのには、その論理(ロゴス)と直知(ヌース)の相反する二つが必要だから、というものです。哲学の問いは、相反するその二つを同時に兼ね備えた特殊な知性にしか宿らないものなのでしょう。何とも不思議なことです。
さて、最後に、哲学教室アレクサンドリアにおいての議論や対話のルールに関して私見を言えば、前もって気にするべきことは何もないと私は断言したいと思います。この教室で発表の場が与えられるということは、自分の問いを理解してくれるかもしれない仲間を見つけるチャンスが巡ってきたということです。ですから、自分の問いを思い切りぶつけてみてください。哲学を長年やってきた先輩や仲間の胸を借りて、自分が思っている哲学を思う存分やってみてはどうでしょうか。
対話のルールや議論の仕方について知ることは確かに重要だと私は思います。けれども、いやだからこそ、そもそも自分の問いがありさえすれば、ルールだとか議論の仕方だとかは後から追いて来るものです。自分の問いを突き詰められるかどうかが全てなのであって、問いを突き詰めることができるなら、どんなルールや議論の仕方でも構わないはずなのです。
私が哲学教室アレクサンドリアで対話をするに当たって現在考えていることは以上のようなものです。ご参考にしていただければ幸いです。上に述べたことの詳細などについてもしも質問や相談などがございましたら、可能な限りお答えいたしたいと思いますので、ご遠慮なくご連絡ください。私事や仕事が忙しく、お返事が遅れるかもしれませんが、お時間をいただければとお答えいたします。
どうぞよろしくお願いいたします。
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