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ガレス・マシューズ『子どもは小さな哲学者』からの10個の引用、子どもとの哲学対話のやり方

ステイホームのお供に子どもとの哲学対話はいかがでしょうか。名付けて 「ステイホームウィズダイアローグ #StayHomewithDialogue」! ラップみたいで気に入っています。

子どもの哲学に関して、世界的にもっとも重要な貢献を果たした人の一人はガレス・マシューズでしょう。彼の『子どもは小さな哲学者』には子どもとの対話の実践が数多く記録されています。その記録と彼の考察は、哲学の本質もある光を当てるという点でも、非常に興味深いものです。

そんな子どもの哲学に興味を持つ人なら必読の著書から10個所の引用をし、著書の紹介にしたいと思います。引用の最後の一つは、マシューズが自分の息子と行った対話のやり方です。子どもとだけでなくとも、だれとでもできそうな対話のやり方なので試してみてはいかがでしょうか。

ガレスマシューズのウィキペディア(英語)

哲学するのはごく自然な行為である

p5
哲学するのはごく自然な行為なのだという考えに、多くの学生は抵抗を感じるらしかった。学生の抵抗感にたいして、わたしはある作戦を思いついた。かれらだってこどものころすでに哲学していたのだということを、学生たちに示したらいいのではないか、と考えたのだ。かつてはごく自然なこととして楽しんでいたのに、社会化されるにしたがってやめた活動へと、学生たちにをふたたび導くことが、大学の哲学教師としてのわたしの責務ではないかーーーこんな考えが頭に浮かんだのである。

パパが二重に見えないのはどうして?だってぼくには目が二つあるし、片目ずつあけてもパパが見えるよ

p21
わたしは八つになる息子ジョンを寝かしつけている。ジョンはわたしを見上げ、出し抜けにこう尋ねる、「パパ、パパが二重に見えないのはどうして?だってぼくには目が二つあるし、片目ずつあけてもパパが見えるよ」
わたしはなんと答えるか?
まずわたしは、ジョンが疑問に思っていることを、正確に理解しようと努める。
「お前には耳が二つあるね」とわたしは指摘する。「でも二重に聞こえるわけじゃないだろ?それは不思議じゃないのかい?」
ジョンはにやりと笑う。「二重に聞こえるってどういうこと?」
「そそうだだなな、ここんななふふうにききここえるるここととさ」とわたしは答える。
ジョンは考え込む。

問題点の重要性を、「からだで」感じとっている

p70
 もちろん宇宙は無限か否かという問題にたいして、非ユークリッド幾何学を含め、マイケルよりもずっと複雑な概念装置を動員するおとなもいる。だが明らかにマイケルは、この問題の根本的な意味のいくつかを明晰に理解している。時としてマイケルはまったく驚くべき推論を示す。また明らかにマイケルは、おとなだろうと子どもだろうと、だれによっても改良されえないいくつかの問題点の重要性を、「からだで」感じとっている。

ピアジェが迷いに対してまったく鈍感らしいということ

p98
わたしにとって、このやりとりいちばん印象的なところは、ピアジェが迷いに対してまったく鈍感らしいということである。だれだって、おとなだろうとこどもだろうと、ファヴと似た内容の夢を見た人に「あなたが夢の中にいたのか。それとも夢があなたのなかにあったのか」」と質問して、「その両方だ。わたしは夢の中にいたし、夢はわたしの中にあった」という答えが返ってきたら、なんとなく不自然な気がするのではなかろうか。ファヴは迷っている。ピアジェは迷っていない。
p99
しかし、ピアジェが子どもに見出したと称する概念はすべて、哲学的考察をそそる。

ピアジェは幼児の哲学的思考に敏感でないというわたしの主張には、たしかに皮肉が含まれている。

注1 p188
ピアジェは幼児の哲学的思考に敏感でないというわたしの主張には、たしかに皮肉が含まれている。その証拠に、ピアジェの初期の小論文「子どもの哲学」の最初のパラグラフを以下に掲げよう。(”Children’s Philosphyies”, in A Handbook of Child Psychology, ed Carl Murchison, 2nd ed. rev., Worcester, Mass.: Clark University Press, 1933)ーーー「いうまでもなく現実には子どもは、本来の意味での哲学に取り組むわけではない。というのは子どもはけっして自分の考察をなにか体系のようなものに編み込もうとはしない。原始社会の神秘的な概念作用のことを言っているような「野生哲学」という表現を用いたタイラーが間違っているとしても、一方、比喩的に用いる以外に、子どもの哲学という言い方もできない。」
「とはいえ、自然や心や物の起源などの様々な現象に対する子どもの自発的な意見が、いかに関連がなく、一貫性がないとしても、その中に、あらたに考えるごとにふたたびあらわれる一貫した傾向を見てとることができる。我々が『子どもの哲学』と呼ぶのは、この傾向のことである」。皮肉にもかかわらず、わたしは自分の主張に固執する。

ほとんどの哲学的な問題には、どこか無邪気で素朴なところがある

p128
 いわゆる西洋哲学は、紀元前6世紀に小アジアの海岸地方、今のトルコ地方で生まれた。ベッテルハイムのような発生反復論者にたいしては、こんな質問をしてもいいはずだーーー「こどもはその発達のどの段階で、哲学の発生を反復すると考えられるのか」。もし、「子どもは思春期にはじめて抽象的な思考ができるようになる。そのときだ」という答えが返ってきたら、わたしはこう言い返さなくてはならないーーーわたしの知る限り、五歳児や六歳児は(あるいはひょっとしたら七歳児も)、十二や十四の子どもよりも、はるかに哲学的な質問をするし、哲学的な説明をするものである。この現象は単純には説明できない。
 この現象は、一面では、哲学の本質と関係がある。多くの、いやおそらくほとんどの哲学的な問題には、どこか無邪気で素朴なところがある。大学生を含め、おとなは、初めて哲学の本に接するときには、それを養わなくてはならない。それは、子どもにとっては、ごく自然なものである。
 また、この現象は、別の一面では、我々の社会において、子どもをおとなにする社会化の過程と関係がある。おとなたちは子どもが哲学的な質問をしないように仕向ける。はじめは恩着せ顏で聞いてやり、今度は子どもの探究心をより「有益な」探索へと向ける。ほとんどのおとなは、彼ら自身、哲学的な問題に興味がないのである。一部の哲学的な問題を、こわがったりもするのである。そのうえ、子どもが、おとなが決定的な答を与えることができず、辞書にも百科事典にも答えが出ていないような質問をすることだってあるのだということを、ほとんどのおとなは考えたこともないのである。

哲学的な問題について子どもと話し合うということ

p145
哲学的な問題について子どもと話し合うということは、簡単に言えば、ある種の疑問あるいは概念の問題についてよく考え、その疑問を取り去り、問題を解決することができるかどうかを見きわめることである。うまくいくこともあれば、失敗することもしばしばである。時には、あることがより明確になったために、なにか別のことがひどく曖昧であることに気づく場合もある。

p148
哲学を論ずるのに必要なのは、根本的には、言語とそれが表現する概念を使いこなす能力が人並みにそなわっている人ならば誰でも持っている、理解力である。それにあえて付け加えるならば、どんなに単純に見える問題も、どんなに基礎的に見える問題も、考えようという意欲と、忍耐力である。

p148
ここで一つ注意しておきたいことがある。私は、これまで論じてきた説明や質問が情緒的に健康で安定している子供から提出さたものと仮定してきた。この仮定はかならずしも正しいとは限らない。いつもは安定と自信にみちている子だって不安になるときがあるかもしれないし、哲学的な説明や質問の中にその不安を表現しているかもしれない。

おとはなおどけなさを意識的に養うことによって哲学と出会うしかないが、子どもたちはむしろ、無邪気さから哲学と出会う

p158
 たいていの人は自分に、あるいは他人に、空がいくつあるかなどと質問したりはしない。誰もが幼い頃に、この質問が、「大洋はいくつあるのだろうか」という質問とは違って、妙竹林な質問であることを知るのである。
 キャサリンみたいな子どもは、これが突飛な質問であることをまだ知らない。おとはなおどけなさを意識的に養うことによって哲学と出会うしかないが、子どもたちはむしろ、無邪気さから哲学と出会う。子どもたちは、哲学者たちが質問のクズ箱から救い出した多くの質問を、いかがわしいとか卑しいとか決めつけて捨ててしまうことを、まだ学んでいないのである。

子どもの思考には、持続性と連続性がじつにはっきりと認められる

p163
たしかに、一部の子どもが哲学的な事柄に向ける注意は発作的である。しかし、わたしの息子ジョンの、比較的持続した意見と質問のいくつかの結実が示しているように、一部の子どもの思考には、持続性と連続性がじつにはっきりと認められる。

p166
「世界はおもしろいな」と、ごくさり気なくジョンが言った。
「そりゃ結構じゃないか。きっとこれからもおもしろいことがたくさんあるよ」
「そういう意味じゃないんだ。世界には、考えるとふしぎなことがたくさんあるってことさ。たとえば道路標識…… 『制限速度三〇マイル』……言葉はその意味を、どうして意味することができるの?」
 わたしははじめ、ジョンが道路標識のどこにとまどっているのか、見当がつかなかった。わたしは次から次へと、いくつかの疑問点を挙げたが、どれもジョンが抱えていた疑問とは違っていた

質問を一つ選び出し、わたしがそれを紙に書く。それからわたしが答を考え、それを書く。

p174
 そんなわけでわたしたちはアウグスティヌスのパロディーはやめにして、代わりに、独自の対話をいくつか書いた。その対話は、ジョンが表明した疑問を出発点とし、わたしたちは対話の中でベストを尽くしてその疑問に取り組んだ。
 手順はこうである。まず討論の材料として、ジョンの質問を一つ選び出し、わたしがそれを紙に書く。それからわたしが答を考え、それを書く。今度はジョンの質問とわたしの答えを、わたしが声に出して読み、答についてどう思うかとジョンにたずねる。たいていジョンはしばらく考えた末、なにがしかの結論に達する。わたしがそれを紙に書く。
 ジョンはこの企画が気に入った様子だった。かれは続けて幾晩も、楽しそうに協力した。

ガレス・マシューズ『子は小さな哲学者』 鈴木晶訳 
引用元の著書の入手は以下をご覧ください。(引用のページ番号は、左側の思索社からの出版のものになります。)

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