哲学にはプロやアマはあるだろうか。草野球や草サッカーがあるように、草哲学がないはずがない。プロ野球やプロサッカーと同じように、哲学もまたプロ哲学があるとしたら、それはアカデミズム哲学やジャーナリズム哲学のことであろうが、それらは果たして褒められるべき哲学であろうか。
ところで、素人や玄人、良し悪しがあるかもしれないことは、「なぞらじ」で話されていた。
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「プロ」と哲学者とアカデミズムの問題に関するツイート
世すぎのために金をかせぐのが、どれほどの卑しいことであるか知っている人は少ない。
お金をもらうことが卑しいことだとしたら、お金をもらって哲学することはどうであろうか。
以上のことは、昔からの大問題なのだ。
歴史的な大問題であることの証拠 納富信留『ソフィストとは誰か』から引用
歴史的な大問題だ、とのことは、アカデミズム内部でもすでによく知られたことである。以前にnoteには書いたところを抜粋しておこう。
https://note.com/tritosanthropos/n/nab5bfba25d95
『ソフィストとは誰か』では、プラトン『ゴルギアス』の冒頭が次のように説明されている。
ゴルギアスの自負する「演示epideixis」に対して、プラトンがソクラテス哲学の「対話dialogos」を挑戦させる、対話編全体の趣旨を示している。人々の前で美しい言辞をつらねる弁論は別の機会にして、一問一答の対話で共に探求を、と要求するソクラテスに、ゴルギアスの側は一向に意に介さず、そういった一問一答も「演示」の一つであると受け入れる。
『ソフィストとは誰か』p156 納富信留
哲学を弁論術から明確に区別し、対比させようとする哲学者の側の試みと、哲学の言説も弁論術の内部に回収して差異を消し去るソフィスト側の戦略とが、これほど明瞭に表現されている箇所は他にない。
もしかして「汝自身を知れ」「無知の自覚」とは、世すぎのための金稼ぎに対する自嘲?
お金をもらって知を与える営みに潜む不穏な何かに、プラトンが気づいたことが、哲学の歴史的起源だったのかもしれない。そうすると、「歴史的起源にさえも関わる」どころではなく、哲学の歴史的起源そのものかもしれない。
それは歴史的起源というだけでなく、人が哲学を「始める」に当たって必須なことかもしれない。自らの問いが、世すぎのための金を稼ぎなどという卑しい行為に成り下がっていることを自覚しない限り、哲学を始めることができないかもしれない。
もしかして無知の自覚や汝自身を知れ、とは、この種のことを言っているかもしれない、と考えたくなるのは、私だけだろうか。
考察:哲学と金稼ぎの目的と手段
お金をもらわずに哲学ができればそれはそれでよいことだろう。ここに問題はない。けれども、それと哲学を「教える」ことでお金をもらうこととを一緒くたにしてはいけない。
哲学を教えるに当たってすべからくお金をもらってはいけない、ということにはならないからだ。哲学に価値を認める人に限って哲学を教える場合には、哲学を教えることでお金をとってよい。そればかりか、お金をとるべきなのだ、ただで教えてもらえる無知な人々を排除するために。
このことが理解されれば、哲学に関わることでお金をもらうことが全て悪い、などという粗雑な結論には至らないはずである。哲学をすることが目的でありその手段としてお金を稼ぐという、目的と手段の主従関係が常に保たれている必要があるのだ。それゆえ、お金をもらうかもらわないかではなく、なんのためにお金をもらうか、を問う必要がある。それが哲学のため、真理のためであれば、許される可能性があるはずだ。
問い:金稼ぎを目的とし哲学を手段とすることは可能か。
いやしかし、そんなことよりももっと重要なことがある。金稼ぎを目的とし、哲学を手段とするようなことが、本当に可能であろうか。そんなことは、そもそも一体いかにして可能か。手段としての哲学、とは私にとってはもはや丸い四角、配偶者をもつ独身者のように聞こえて仕方がないのだが、それについては、オンライン哲学対話で語ることにするか。
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