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フーコー『主体の解釈学』の対話のやり方(その一) 「汝自身を知れ」は自己認識を意味しない

 フーコー『主体の解釈学』は、世間に流布する哲学そして対話に警告を発しています。

 最も有名な哲学の言説のうちの二つ、「汝自身を知れ」、「我思う故に我あり」。自己認識と自己の存在を言っているかに見えるこれらの言説が、どれほど誤解されているかを、『主体の解釈学』は教えてくれています。そのことは、主体的な学びとしての哲学対話がいかに安くて手頃なものと見積もられているかを気付かせてくれます。哲学や哲学対話は、哲学者にとってさえ遂行することが困難な訓練なのです。哲学や対話がもてはやされ流行の兆しさえ見せる今日であるからこそ、哲学はとても難しい、哲学なんてほぼすべての人に無関係だ、という耳障りな真実を伝える必要がありましょう。それこそがソクラテスの親切心であったのですから。

ミシェル・フーコー講義集成〈11〉主体の解釈学 (コレージュ・ド・フランス講義1981-82)   ミシェル・フーコー からの引用です。

*なお、引用中に現れている右揃えの小見出しは引用ではありません。また太字での強調は著書によるものではありません。

A 「汝自身を知れ」は自己認識ではない。知る必要のある事柄に自分自身のなかで注意せよ、である。

引用

p5

この〈汝自身を知れ〉は、大変はっきりした、明白なかたちで神殿の石に刻み込まれていたわけですが、おそらくもともとは、のちに付与されたような価値は持っていなかったということ、このことは銘記しておく必要があります。エピクテトスが、この〈汝自身を知れ〉という言葉は人間の共同体の中心に刻み込まれていると言った有名なテクストはご存じですね。(これについてはあとでもう一度ふれます。)実際それが刻み込まれていた場所は、おそらくギリシアの生活の中心のひとつだったのでしょうし、そしてのちには人間の共同体の中心となったのでしょうが、ただそれが持つ意味は、哲学的な意味での「汝自身を知れ」といった意味ではありませんでした。この格言が命じているのは自己認識ではありませんでした。道徳の基礎としての自己認識でも、神々への関係の原理としての自己認識でもなかったのです。これについてはいくつかの解釈が提案されてきました。一九〇一年に『フィロログス』誌の論文の中でロシャー Roscher が提案した古い解釈では、デルフォイの掟が結局のところ神のお告げを聞きに来た人々に向けての掟であり、お告げを聞くという行為と結びついた儀式上の規則ないし勧告といったものとして読まれるべきものであった、という点が強調されていました。そしてみなさんもご存じの三つの掟については同じことが言えます。ロシャーによれば、「méden agan (中庸)」もけっして人間の振る舞いにおける倫理的、節制的な一般原則を定式化しようとするものではなかったろう、ということになります。「meden agan (中庸)」がいわんとするのはつまりこういうことです。

あまりに多くの事柄を尋ねるなかれ、必要なもののみに限定せよ

なんじ神のお告げを聞こうとして来る者よ、あまりに多くの事柄を尋ねることなかれ、有用なことだけを尋ねよ、尋ねようとする事柄を、必要なもののみに限定せよ。 二番目の掟、「eggué(保証)」が言おうとするのはまさに、「神のお告げを聞きに来るときには、守れないようなことを約束するなかれ」ということだったのでしょう。そして〈汝自身を知れ〉に関しては、これもロシャーによればということですが、「神託に物事を尋ねようとして来るときには自分自身のなかで、尋ねなくてはならない事柄、尋ねたい事柄をよく吟味せよ。そして質問の数はできるだけ少なくしなくてはならず、質問しすぎてはいけないのだから、知る必要のある事柄に自分自身のなかで注意せよ」と言おうとしているのだろう、ということになります。ずっと最近の解釈としては、ドゥフラダス Defradas が一九五四年に『デルフォイの宣伝の諸テーマ』で提示したものがあります。彼の解釈は別の解釈ですが、〈汝自身を知れ〉が自己認識の原則ではけっしてないということがここでもはっきりと提示ないしは示唆されています。ドゥフラダスによれば、これら三つのデルフォイの掟は慎重を全般にわたって命ずるものであろう、ということになります。要求においても希望においても「中庸」を得よ。また振る舞いにおいても過剰はあってはならない。「保証」についていえば、これは度を超えた鷹揚さの持つさまざまな危険に来訪者の注意を促す言葉であった。「汝自身を知れ」は、ひとが結局のところ死すべき者であり神ではないということ、従ってあまり自分の力を買いかぶって神の力と対決したりしてはならないということ、 これを絶えず覚えておかなくてはならないという原則である、というわけです。 

コメント

 太字体にしたところが、対話を哲学的にするための態度に特に関わる部分です。対話を哲学的にするためには、通俗的な意味での、哲学的な「自己認識」などのことはまず脇において、「あまりに多くの事柄を尋ねることのな」いようにするべきだ、ということが読み取れます。現代の常識人がわかったつもりになっている「汝自身を知れ」は手垢にまみれすぎています。だから、哲学対話において大切なのは「汝自身を知れ」だと対話の参加者たちに伝えてみても、全然それが守られないで対話が進行していくことが起こってしまう。それは古代の「汝自身を知れ」が具体的にどういう行為を命じていたかを知らないで、勝手に現代の人々が憶測して似非哲学的な意味を付与して満足しているのと同じです。

哲学対話には自己認識はいらない

 対話を通じて「自分の思っていることがよく分かった」程度のことで、哲学対話ができた、と勘違いする人が続出しています。こんな弊害がパンデミックにならなかっただけよかったとは思いますが、当たり前のように起こっているのを見逃すことはできません。フーコーという知の巨人が、つまり知の権威が、『主体の解釈学』といういかにも人々が手にとりそうなタイトルの著作のほとんどはじめあたりで、自己認識などというくだらないものを棄却している。自己認識などは使い物にならない代物だと言っているのです。フーコーが多数の原典や研究書を参照しながら明らかにしてくれる古代世界における「汝自身を知れ」は、通俗的な哲学対話に対する誤りを指摘し、さらには、その正しいやり方を、指南をしてくれてもいるのです。そんな書物を手に取ることもしないで、何にも知らずに対話の場にノコノコ出ていくのは、大人であったら少しはためらうものでしょう。そのためらいこそが「汝自身を知れ」で命じられていることなのです。ついでに言えば、以上のことは、子ども(と)の哲学対話には全く当てはまりません。

「汝自身を知れ」とは質問しすぎてはいないか自問することである

 強調すべきことを繰り返しておきます。哲学対話では、限られた短い神託の言葉を聞くときのように、自らが尋ねたいことは何なのか、私の問いは一体何なのか、を自問したあとで、問いを発するように、ということです。問いの数は少ないはずなのです。質問しすぎてはならないのです。不足のないようにすることなど論外であって注意せねばならないのは、何でもかんでも質問するなどという過剰のないようにせよ、ということです。そうした「行き過ぎ」を自身のうちで吟味するというのが、「汝自身を知れ」ということです。自分が知りたいことが何か分かった、というような自己認識では、全くないのです。哲学対話はそういうことをする場ではないのです。

 哲学対話において、〈汝自身を知れ〉ということが重要だとすれば、以上の意味をおいて他にありません。逆に言えば、私の問いは一体何なのかと自問する前に問いを発し、哲学対話をしたと思い込んでいる人は、「汝自身を知」らないのです。

 実は、上に引用した箇所に続く箇所こそが、フーコー自らが「私が関心を持っている主題にもっとずっと関係の深い点」と言っているものであり、「汝自身を知れ」とつがいのように取り扱われていた「汝自身に配慮せよ」(epimelei heatou)という原則について述べられています。さらに『ソクラテスの弁明』における「汝自身を知れ」のソクラテスの解釈が論じられています。これらは、哲学対話における「ケア」対して示唆に富むものではありますが、別の機会にその考察を譲ることにします。

続き (その二) 「我思うゆえに我在り」は自己の存在を意味しない

続き (その三) 読書は作者が言いたかったことを理解することではない

続き (その四) ソクラテスの弁明からの引用

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thethirdman

Y先生には「君には言いたいことが何かあるのは分かるけれど、それが何であるのか分からない」と言われ、H先生には「何かの本質をつかんでいるとは思うけど、それが何かってことだよね」と言われたと話すと「それはそのままthe third manさんのキャッチフレーズになりますね」と。

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thethirdman

Y先生には「君には言いたいことが何かあるのは分かるけれど、それが何であるのか分からない」と言われ、H先生には「何かの本質をつかんでいるとは思うけど、それが何かってことだよね」と言われたと話すと「それはそのままthe third manさんのキャッチフレーズになりますね」と。

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