目次
B 省察は主体の思考に対する働きかけではない。思考の主体への働きかけである。
引用
p404
省察は誤解されている
ここでひとつの概念が出てきます。この概念についてはいずれまたもう一度お話しするつもりですが、今日も少し立ち止まってみたいと思います。それは「省察(méditation)」という概念です。ラテン語のメディターティオ meditatio (その動詞形は meditari)はギリシア語の名詞のメレテーmelete の翻訳であり、その動詞形はメレターン meletan です。このメレテーやメレターンという語は、少なくとも十九世紀や二十世紀の人間が「省察」というときに考えるような意味をまったく持っていませんでした。メレターンとは訓練のことです。それは、「訓練する」とか「熟練する」といった[意味を持つ]ギュムナゼイン gumnazein という言葉と近い意味を持っています。ただし、この語とは少し違ったコノテーションを持っています。意味の場の重心が少し異なっていると言ってもよいでしょう。一般にギュムナゼインは、「実際の」試練、事柄それ自体に立ち向かうひとつの方法のことを指します。たとえば敵に立ち向かうことによって、彼に対して抵抗できるか、彼よりも強いかを確かめるようなものです。それに対してメレターンはむしろ思考訓練、「頭の中での」訓練ですが、今日の私たちが考える「省察」とはかなり違ったものです。「省察」というと私たちは、何かについて特別の集中力で思考しようと試みること、ただしその意味を深めることはしないことだと考えてしまいます。あるいは「省察」とは、思考の対象である事柄から出発して、多かれ少なかれ規則的な順序で思考を発展させることを意味します。今日の私たちにとって「省察」 とはこのようなものです。しかしギリシア・ラテンの時代の人にとってのメレテーとメディターティオは別のものです。それを二つの側面から理解しなければならないと思います。
訓練としての省察
第一にメレターンとは、自分のものにする訓練、 思考によって自分のものにする訓練です。ですから、ある文章が与えられたときに、それが何を意味するかを[知ろうとする]努力をすることは重要ではありません。およそ釈義という方向には向かわないのです。メディターティオとは、[思考を]自分のものにすること、そしてそれを深く確信することです。すなわち一方ではそれを真だと信じることが出来るように、他方ではそれを繰り返して言うことができるように、つまり必要や機会が生じたらすぐに繰り返して言うことができるように、深く確信することなのです。したがって重要なのは、この真理が精神に刻み込まれて、必要なときに思い出せるようにすること、すなわち(前に話した表現を使うならば)プロケイロン(手許に)置くことによって、すぐさま行為の原則とすることができるようにすることなのです。自分のものにすること、それは次のようなことを意味します。すなわち、真実の事柄から出発して、真実を思考する主体となり、 真実を思考する主体から、しかるべき方法で行動する主体になることなのです。「メディターティオ」という訓練が向かうのはこのような方向です。第二に、別の方向では、メディターティオは一種の同一化の経験をすることで す。つまりこういうことです。メディターティオとは、事柄それ自体について思考することではなく、むしろ思考している事柄の訓練をすることなのです。そのもっとも有名な例が、死についての省察という訓練であることは言うまでもありません。
死について省察する
ギリシア・ラテン期の人が理解していた意味では、死について省察する (meditari, meletán)ことは、「これから死ぬのだ」ということを考えることではありません。このような死の観念に、たとえばその帰結となるようないくつかの観念を結びつけることではありません。死について省察すること、それは死につつある人、これから死ぬ人、死の前の数日間を過ごしている人の状況に思考によって身を置くことです。省察とは、主体が自分の思考に働きかけることではなく、主体が対象に働きかけること、自分の思考の可能な対象に働きかけることでもありません。現象学で言うような、形相的な変更の次元のものではないのです。それはまったく異なったゲームです。
思考が主体自身に実際に働きかける
それは主体がひとつの思考に対して、あるいはさまざまな思考に対して働きかけることではなく、思考が主体自身に実際に働きかけることです。つまり思考によって、死につつある人あるいは今にも死のうとしている人になる、ということなのです。比較していただきたいのですが、けっきょくのところデカルトが 『省察メディタシオン』でおこなっていたこと、彼がこの言葉に与えていた意味もまさにこのようなものでした。それは主体の思考に対する働きかけではなく、思考の主体への働きかけなのです。ですから、この省察という実践の歴史をたどり直さなくてはならないでしょう。古代における省察、原始キリスト教における省察、十六世紀から十七世紀に おけるその復活、あるいはその新たな重要性と爆発的な発展などです。いずれにせよ、十七世紀にデカルトが「省察」し、『省察』 という本を書いたのは、こうした意味においてなのです。主体の思考に対する働きかけなどではありません。デカルトが思考したのは、世界において疑いうるものについてではありません。また、疑いえないものについてでもありません。これは普通の懐疑的な訓練にすぎないと言ってよいでしょう。デカルトはすべてを疑う主体の状況に身を置きますが、疑いうるもの、その存在を疑いうるものについて問いたずねることはありません。
デカルトは疑いえぬものを探究するものの状況に身を置く
そしてデカルトは、疑いえぬものを探求する者の状況に身を置くのです。したがってこれは思考やその内容についての訓練ではありません。主体が思考によってある状況に身を置く訓練なのです。ここには、思考の効果の関係における主体の位置の移動があります。以上のようなことが、今お話ししている時代において、哲学的な読書が持つべき省察的な機能なのです。主体が思考によって虚構の状況に身を置き、そこで自分を試練にかけること、こうした省察的な機能のゆえにこそ、哲学的な読書はーーー全面的にではないにせよ、少なくとも多くの場合ーーー作者に無関心であり、文や格言が置かれたコンテクストにも無関心なのです。
コメント
「汝自身を知れ」は『ソクラテスの弁明』というもっとも有名な哲学書を思い起こさせたことでしょう。それに勝るとも劣らないほど有名な哲学書の一つがデカルト『省察』であり、「我思うゆえに我あり」を知らない人はいないくらいです。ですが常識的に解された限りのデカルトや「我思うゆえに我あり」は全く間違っている、とフーコーのこの著は教えてくれています。
哲学対話における「考える」は日常的な意味は全くない
哲学対話において「よく考える」とか「思考する」とか、自己自身との対話においても「考える」ということを、問い直すべきです。哲学対話において「考える」というのは普通の意味での「考える」とは全く違います。哲学することは普通の意味での「考える」という軽率な意味では全然ないのです。物事を順序立てて整理する、言葉の意味を理解する、人を思いやって言っていることをよくきく、とかいった低次元の誰でもできそうなことが、哲学における「考える」ということではないのです。だから、哲学対話においてなすべき「考える」とか「探究する」とかいうことは、簡単にできるような代物ではなく、お気楽なものでは決してないのです。上に言われているようにそれは訓練が必要なのであり、訓練そのものであり、例えば、今から自分が死んでしまうような状況を心の中だけで作り出すというようなものです。
そのような「考える」は、舞台の上で役者となって死を演じるのよりも難しいはずです。舞台に上がり、小道具大道具が用意され、他の役者に囲まれてその状況が環境的にも十分に似せられているところで、あなたが登場人物になりきって死ぬ演技をすることはできるでしょう。それとて全然簡単なことではありません。相当な稽古を積み、その役柄の知り、その役柄になりきる訓練が必要だからです。
「なりきる」ことよりも難しい「考える」こと
哲学のおいて要求される思考の訓練は、それら全てを思考のうちで行うのです。舞台という外的装置もなく、役柄について教えてくれる台本も何もない。それらを全て「考え」出さなければならない。それがどれほど難しいことかは、考えてみないと、到底わからないことでしょう。だからむしろ、思考が自分を支配するというような言い方が正しいのです。引用した箇所に近接した別の箇所では、フーコーは二度にわたって「主体の思考に対する働きかけなどではない」と主体が思考に働きかけることを強く否定しています。主体が何か思考に影響を及ぼすという発想を排撃している。哲学における「考える」とは、普段通りの自分がいて、その自分が何かを考える、というようなことでは全くないのです。そもそも普段の自分はどこにもいなくなって、考えつまり思考が、自分になるのです。哲学対話において「考える」ことを実行しようとしているのなら、そのような「考える」でなければなりません。
デカルトの「我思う」の「思う」は、厳密に以上の意味だということを理解しなければなりません。ということは、およそ「理解」などしようとすることが間違いだと気づかれるでしょう。デカルトがしたのとまさに同じように、全てを疑ってこそはじめて、デカルトの言っている「我思う」になるのです。いや、デカルトのように考えているのではダメで、デカルトが自分にのりうつる、くらいでなければなりません。自分がデカルトにのりうつるのでもダメです。
デカルトの省察は、疑いえぬものを探求する状況に身をおく訓練だった
デカルトは「疑いえぬものを探求する者の状況に身を置く」とフーコーは言っています。ということは、「我思う」を遂行しようとするなら、「疑いえないものを探究」しなければならないということです。「我思う」という言葉を理解しようと努めるよりもむしろ、本当に「疑い得ないものとは一体何か」と自分自身が問いかけるのでなければならない。「疑いえないものとは何か」と、デカルトと同程度に自分が問うている必要があるのです。もはやデカルトの霊が私を欺き「疑いえぬものとは何か」と問わしめている、そういう状況になっていなければならないということです。そのときにはじめて、「我思うゆえに我あり」の真価を知るのだと思います。
以上に述べてきたことは、対話には直接関係ないように思われるかもしれませんが、そうではありません。対話する相手が生身の人間であろうとテクストであろうと過去の自分の思いであろうと、その状況に身を置く訓練をするということには変わりがないからです。哲学における「考える」は常にそういうものでなければならないのです。言葉の意味を探ることや記憶を呼び覚ますことや他者へ配慮することなどそれらの部分にすぎない。それらの部分を総動員して、状況に身を置くこと、これが哲学的に「考える」ということなのです。このような「考える」には、しばしば用いられる「深まる」などというのは似つかわしくない。「主体が思考によって虚構の状況に身を置き、そこで自分を試練にかける」度合いを測って「深まる」とかそうでないとかは言い得ないでしょう。
ピエール・アドの精神の修練、マインドフルネスの同一化
思考の主体に対する働きかけ、という主題は、フーコーに比べると日本ではあまりに有名でないのが不思議なピエール・アドのexercice spirituel 「精神の修練」を連想させます。また、思考や同一化の経験を悪として取り扱う仏教やマインドフルネスとの違いが気になりもしますが、的外れな憶測かも知れません。
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