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フーコー『主体の解釈学』の対話のやり方(その三) 読書は作者が言いたかったことを理解することではない。

承前 (その一)「汝自身を知れ」は自己認識を意味しない

承前 (その二) 「我思うゆえに我在り」は自己の存在を意味しない

C 読書は作者が言いたかったことを理解することではない。実際に自分のものとなるような真の命題を身に装備することである。

引用

p406(Bの引用にすぐ続く部分)

 また、こうした省察的な機能によって、読書から得られる効果も説明されます。それは作者が言いたかったことを理解することではなく、実際に自分のものとなるような真の命題を身に装備することです。ですから折衷主義的なところはまったくありません。つまり重要なことは、さまざまな起源の命題を寄せ集めることではなく、命題の安定した生地を織り上げることなのです。こうした命題が、命令や真実の言説としてだけではなく、行動原則としての価値を持つのです。このように読むことは訓練や経験と考えられ、省察のためになされます。だから、容易におわかりのように、読むことは書くことと直接に結びついています。それは当時きわめて重要だった文化的・社会的現象なのです。そこで書くことは大きな位置を占めていました。

私的かつ個人的に行われる書く行為は自己訓練

それもいわば私的かつ個人的におこなわれる書く行為なのです。この過程の起源を正確に見きわめるのは難しいのですが、いまお話ししている1-2世紀という時代に限るならば、書くことはすでに自己訓練のひとつの要素となっており、ますます強化されていくことになります。読むことは書くことによって延長され、強化され、新たに活性化されます。それは訓練であり、省察の要素でもありました。セネカは読むことと書くことを交互におこなわなければならないと述べていました。書簡第八四です。彼は言います。読んでばかりでもいけないし、書いてばかりでもいけない。第一の営み(読むこと)をたえず続けていると自分の力を衰弱させてしまうことになる。書いてばかりいると力を減少させ、弱めさせてしまう。 読むことと書くことをおたがいに緩和するべきだ。読書によって集めたものを、文章の表現によって作品(コルプス corpus)化しなくてはならない。読書はorationes, logoi(諸言説、言説の諸要素)を集める。それをコルプスにしなくてはならない。書くことこそがコルプスを構成し、保証してくれるのだ、とセネカは言うのです。このような書くことの義務、書くことの勧めは、人生上の教えや自己実践の規則には絶えず見られます。たとえばエピクテトスは次のように忠告します。省察し(メレターン meletan)、書き(グラフェイン graphein)、訓練する(ギュムナゼイン gumnazein)ことが必要である、と。まずメレターンとは、多くの場合読んだ文章によって支えられる思考訓練のことです。グラフェインとは「書く」ことですね。最後にギュムナゼインとは、実際に訓練すること、現実の試練やテストを受けることです。また死についての省察を書いたあとで、エピクテトスは次のように結論します。「こうして思考したり書いたり文章を読んでいるときにも、死は私を襲いうる」。したがって書くこととは訓練の一要素であり、同時に可能な二つの使用を持つという利点を備えた訓練の一要素なのです。

思考している事柄を自らに同化し、魂や身体に根付くようにする書く行為

まず自分自身のための使用があります。書くという行為だけで、思考している事柄をみずからに同化するのです。その事柄が魂や身体に根付き、いわば習慣のようなもの、肉体的な潜在性になることを助けてくれるのが書く行為なのです。読んだあとに書くこと、そして書いたあとに書いたことを読み直すことは、習慣として勧められていました。それも声に出して読み直さなくてはなりません。ギリシア・ラテン期の表記では単語は分離されていなかったからです。 ですから、読むにはきわめて大きな困難があったわけです。読書の訓練は容易な訓練ではありませんでした。私たちがやるように目だけで読むわけにはいきません。単語を正確に区別するためには、小声で発音しなければなりません。このように、読み書きの訓練、書いたことや覚え書きを読み直すという訓練は、ひとが手前に持っている真理やロゴスを自分のものにするための、ほとんど肉体的な訓練でした。エピクテトスは言います。「以上の思索を、 夜も昼も手許にあるもの(prokheira)とするがいい。それらのことを書き、それらのことを読むがいい」。読書にあたる伝統的な単語は anagignoskein、すなわち、しかるべく分離したり配置したりすることが難しく、従って理解するのも難しい記号の寄せ集めの中で認知することです。したがって自分の思考を保持するのです。自分の思考を手許に保持するためには、それを書かれたものとし、自分のために読まなくてはなりません。思考について 「自分自身とも、他人とも、『このことに対して、君は私に援助することができるか』と話すがいい。それからさらに、次々と違った人のところに行くがいい。それからもし何かいわゆる好ましくないことが起こるならば、それは予期しないことではなかったという考えは、さっそくまず君の心を軽くしてくれることだろう」。そして読み、書き、読み直すことはこの praemeditatio malorum(災悪をあらかじめ予期する訓練)の一部なのです。ストア派の修練においてきわめて重要なこの問題については、次回か、あるいはいつかお話しすることになるでしょう。

真実の言説を体内化する

ですから、ひとは読んだあとに書くことによって読み直すことができ、自分自身に対して読み直すことによって、他人の口から聴いたり、他人の文章の中で読んだりした真実の言説を体内化する(s’incorporer)ことができるのです。以上が自分のための使用の場合です。もちろん書くこともひとつの使用であり、それは他人に役立ちます。あ、 そうそう、忘れていました。読書や会話や講義の時に書かなくてはならない覚え書きは、ギリシア語ではヒュポムネーマタ hupomnémata と呼ばれています。記憶の支えということですね。この記憶の記録があれば、読書や記憶の訓練によって語られた事柄を思い出すことができるのです。 

コメント

 読むこと書くことについて述べられた上の引用を、対話に置き換えるとどうなるでしょうか。読むことは聞くことに、書くことは話すことになるかもしれません。

対話を「読む」ことは、他者の問いを暗唱すること

 読むことが、フーコーがいうように作者の言いたかったことを理解することではなく、自分の実際に自分のものとなるような真の命題を身に装備することだとするなら、それと全く同じことが、「聞く」ことにも言えるでしょう。すなわち、対話する他者の言いたいことを理解することにとどまらず、その聞き手が実際に自分のものとすることができるような真の命題を聞き手のみに装備することができるほど、聞き入らねばならない、ということです。しばしば起こるようなものではありませんが、私が経験するのは、話し手の言葉が舞台で演じられている芝居の台詞であるかのようにこだまして聞こえたり、楽曲の印象的な旋律やフレーズが耳にこびりついて離れなくなる、といったようなことです。

発言者の意図を読み取ろうとする間違い

 そういう意味で、ここで言われているような読むように聞くとは、対話者の発言の一つ一つを記憶するかのごとく小声で反復し、暗唱しようと務める精神の活動でしょう。これに対するのは、発言者の意図や心的状況や家庭環境や仕事上での立ち位置や経験などを憶測してみたり読み取ってみたりすることです。メタダイアローグ、対話の振り返りなどをすると、参加者やファシリテイターは、いかに対話を読み取ろうとしていたかを語り始めることが多々ありますが、それらは全く正しくない、ということです。とりわけ、抑圧されている人々の背景や事情などに想いを巡らすなどということは、対話を近代的な意味で「読もう」としているのであり、古代の意味での「読む」ことではない。話し手の言いたいことを理解するのが重要なことではないのです。話し手の言葉を、実際に自分の身に装備することができるようなものなのかどうかを自問することができるほどよく聞き、暗唱できるくらいにならねばならないということでしょう。発言者がその場で発したその言説(ディスクール)の背後や意味を読み取る必要など全くないのです。

対話を「書く」ことは、自問してから話すこと

 また、書くことは、先のAの最後あたりに述べたように、自問したのちに話すことと重なるでしょう。当てずっぽうや思いついたことを口に出すのではなしに、「真実の言説を体内化」してから話すということでしょう。百歩譲っても、「真実の言説を体内化」しようと努めるために、話すということでしょう。現代のコンピューターのおかげで書くことはあまりにも用意になりましたが、それでも話すときほど当てずっぽうに書くことはできずまず言いたいことを整理してから書くくらいの遅さが必要なように、対話においても、書くときと同じ遅さで話すべきなのです。あえて通俗的に言えば、書けそうにもないような速さで話すべきではないのです。すでに一度書いたものをもう一度声に出して読むように、話すべきなのです。対話を哲学的にするには、それくらい遅くなければならない。哲学対話でしばしば言われる「ゆっくり」考えるとか「ゆっくり」話すとかいうのは、書くときと同じくらいの遅さ(速さではなく)で、解するのが適切です。

エクリチュールと「書く」こと

 デリダにエクリチュールというのがありますが、書くように対話するということは、エクリチュールに抗うものなのかもしれません。すなわち記録され文字化されるときには、話されていたときに現前していたことが失われて独立するに至る。書かれた文字はそのようなものでしかありえないというのは一つの真実でしょう。そのことが真実ならばこそ、書かれた文字よりも一層「書く」という行為そのものによって、文字に真実の言説を記録させるのに抗って、真実の言説を「体内化」しようとしたのでしょう。書くことによって、文字に真実を同化しようとはせず、書いている魂や肉体に真実を根付かせ、習慣とし、肉体的な潜在性となるようにしたということです。対話において「話す」ということは、それほどのことを意味するのでしょう。話された声に真実を任せてしまうのではなく、話している声の真実が、話している魂や肉体に刻み込まれていく、ということでしょう。対話において話すことは、メモ書きのように必要とあればまた見返すことのできるようなものを書きつけることではない。数も少なくいつボロボロになってしまうのか分からない貴重な紙に、今にも尽きてしまいそうなインクの量で手紙を書くようなことなのでしょう。

 こんなことが、私のキーボードタイピングによって画面に映し出されているとは、あまりにも皮肉なことではないかと考えずにはいられません。

続き (その四) ソクラテスの弁明からの引用

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thethirdman

Y先生には「君には言いたいことが何かあるのは分かるけれど、それが何であるのか分からない」と言われ、H先生には「何かの本質をつかんでいるとは思うけど、それが何かってことだよね」と言われたと話すと「それはそのままthe third manさんのキャッチフレーズになりますね」と。

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thethirdman

Y先生には「君には言いたいことが何かあるのは分かるけれど、それが何であるのか分からない」と言われ、H先生には「何かの本質をつかんでいるとは思うけど、それが何かってことだよね」と言われたと話すと「それはそのままthe third manさんのキャッチフレーズになりますね」と。

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