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新宿哲学カフェをはじめるにあたって

はじめに

普通の哲学カフェでは全然ないけれども哲学カフェと名付けることにしたこの新宿哲学カフェについて、少しくらいは説明しておこうかと思いますが、その前に、とても簡単なことであるにもかかわらず、おそらくはほとんど実現しそうにもない私の希望をお伝えしておきます。

まず、以下のものを最後まで読まれる方は安心して新宿哲学カフェにお越し下さい。途中まであるいははじめのあたりまでしか読まれない方も、最後まで読まれそうな方に、この記事の存在を知らせてあげてください。そして対話屋ディアロギヤを知ったすべての人々は、哲学には縁もなさそうな、対話なんてものがあること知らない人々に、対話屋なんてものがあるらしいということを、知らせてください。

新宿としての新宿哲学カフェ

新宿哲学カフェは、哲学が新たに宿る、哲学カフェである。

 まずは、「新宿哲学カフェ」の名前についてです。新宿という地名は、ウィキペディア雑学ネタ帳などでは、甲州街道の宿場町に因んでいるようです。その新宿に店を構えたことに因んで、「新宿哲学カフェ」を名乗ることにしたのですが、新宿は「新たに宿る」とも読めることに気づきました。新たに宿る哲学カフェ、とは私が新宿哲学カフェに託している何らかのことを言い当てている気がします。

 哲学や対話はいまや大学や研究機関のうちにあるだけのものではなく、街角で行われる市民に開かれた活動として、世間に知られ注目を集めるというほどのものにまでなりました。一方で歓迎すべきだと思っていたその事実は、同時に他方で強烈な違和感をも催させ、ある種の問いを私に投げかけたように感じます。その問いとは、新たに哲学が宿るのはどこなのか、ということができます。

 大学や研究室では新たな哲学はむしろ摘み取られ枯れてしまうことはしばしば指摘されていることでした。では、哲学カフェや対話の実践ではどうなのでしょうか。新たな哲学がそこで生まれ育つのでしょうか。残念ながら、大衆化しつつある哲学カフェやその他の実践は、新たな形で哲学を汚染するようなものにしかなっていない。たとえば教育として、たとえばコミュニケーションとして、たとえば出会いの場として、たとえばケアとして、たとえば悩み相談として、哲学や対話のもつその豊かな可能性のゆえにこそ、常に他のものに汚染され続けている。さらには、ほんのごく少数の人々だけが、そのことに問題を感じとっているにとどまるのです。

 その問題に対し、何を応答することが私にできるのかは、だいぶ以前から分かっていたことでした。自らの置かれた環境や立場だからこそ、他の人にはできない私自身の答えを常に持ち続けてきました。ですが、忙しさを言い訳にほとんど行動に移さずにいました。そこで、もういい加減に何かしなければならないと思い、自分の尻を叩くつもりで、「新宿哲学カフェ」見切り発車するに至ったというわけです。

 ところで私の本業(いや本当の副業)は新宿にある宿屋 (トーキョーアコモ)であり不動産屋 (だるまふどうさん) ですが、そこでは、はじめて日本を観光したり旅行したり、仕事や生活をはじめる人々としばしば接します。日本に来てはじめて過ごす宿や住まいを提供するからです。それと同じように新宿哲学カフェも、これから哲学や対話を自ら行なっていくであろう人々に、はじめて哲学や対話を知ってもらう宿や住まいのようなものになればよいかもしれない、と思いました。

 こういうわけで、新宿哲学カフェのページのサブタイトルを「はじめての人のための哲学カフェ」とすることにしました。

案内所としての新宿哲学カフェ

新宿哲学カフェは、哲学や対話があることを知る、哲学カフェである。

 さて、では「はじめての人のための哲学カフェ」に来た人は何をするのか。一言で言えば、哲学や対話があることを知ることです。それにつきます。

 では、哲学や対話があることを知るとはどういうことか。それは悩みや迷いや疑い驚きを、自らの問いへと昇華する活動があることを知ることです。また、そのための先達や仲間や敵や場所や書物があるのを知り、さらには、理論や実践や方法があってあなたにも開かれているというのを知ることです。

 ほとんどすべての場合、悩みや迷いや疑いや驚きといった哲学のきっかけになりそうなものを他の人に話したところで相手にもされないでしょう。他人に話すには自分で気付く必要がありますが、それはある意味でもっと難しいかもしれません。悩みや迷いを何らの自覚もなく解消してしまっているので、そのことをよく考えてみたり他人に話そうと思い至ったりしないからです。疑いを晴らそう必死になり、驚きを忘れてしまい、日々何も気付くことなく流され続けている。哲学のきっかけとなりうるのは、悩みや迷いを自覚なく解消してしまっていることに対する気付きです。また、疑いを晴らそうと躍起になっている自分を内省することです。忘れてしまっている驚きを想起することです。新宿哲学カフェに来る方に知っていただきたいのは、哲学の門の扉は、日々の気づきであり、忘れてしまっているものの取り戻しであり、その継続だということです。

 新宿哲学カフェのホスト(番頭)が、お迎えするお客様のためにすることは、話を聞くことを通じて、悩みの悩み方、迷いの迷い方、疑いの疑い方、驚きの驚き方を一緒に考えることです。そして可能な限りそれを問いの形にして、その問いを自分のものとして持って帰ってもらうことです。そうすることで、哲学や対話が、あなたのために「ある」ということの片鱗が、分かってもらえると信じています。あなたのその問いのうちに哲学があることを知ってもらいたいのです。それを知ってもらえれば、たとえば他の哲学カフェに参加することも、哲学対話を実践してみることも、哲学の塾に行ってみることも、哲学書を自ら読んでみることも、普段の生活の中で人知れず対話を実験してみることも、誰に言わなくとも自分で哲学書を書いてみることも、自ずと開かれてくるでしょう。

 この意味で、新宿哲学カフェは、哲学の案内所となればよいと考えています。

避難所としての新宿哲学カフェ 

新宿哲学カフェは、いわゆる哲学カフェではない、哲学カフェである。

 ここまで述べてきたことからでは、じつはいわゆる哲学カフェや哲学対話とあまり変わるところがないと思われるかもしれません。悩みや迷いを聞くことも他の哲学カフェではやっているし、問いをだすことも、一緒に考えることも、同じではないかと思われるかもしれません。その理解は正しい。だからこそ、哲学カフェを名乗るのです。

 決定的に異なるのは、哲学対話に不要な因子をあらかじめ取り除き、対話を純化させる仕組みを用意したことです。と言っても何も難しいものではありませんが、詳しくは新宿哲学カフェのページをご覧ください。円になって対話をせず、対話に「参加する」のをやめ、対話「する」ことにしたというだけのことです。このことによって、例えば多くの人が一堂に会するさいに誘発してしまうある種の権力構造や不要な欲望を排するように努めたというわけです。あえて抽象的にぼやかして書いているこの事情についてもっと知りたい方は、以下のものをお読みいただきたいと思います。

哲学プラクティスにオジサンは必要か?https://note.com/tritosanthropos/n/ncd4acbdede98

オジサンによるオジサンのためのオジサン https://note.com/tritosanthropos/n/nd61d19647c4d

 ともかく、対話の本質に立ち返れば、一対一あるいはかなりの少人数で対話するという形式はまったくもって当然の帰結ですが、いまや哲学カフェや哲学対話といえば、多くの参加者が円になり、話したくない時に話さなくてよいがよく聞く…、という常識すら形成され始めています。そうした哲学カフェや哲学対話は、対話イベントとして行いますので、それとの区別をつけるためにも、新宿哲学カフェは、本来の対話に忠実にしたいと思うのです。

 すでに存在している哲学カフェや哲学対話が多様な参加者を受け入れることによってじつは排除してしまっている人々がいることは明らかでしょう。そのような人々のなかに、本当に哲学を必要としている人がいるでしょう。純粋な対話を目指す新宿哲学カフェは、とりわけそのような少数のひとびとのためにあるようなものです。この意味で新宿哲学カフェは、哲学を必要とする人にとっての、哲学カフェからの避難所と言えるような場所であってもよいと考えています。

遊び場としての新宿哲学カフェ

 ここまで大人に向けて、大人の大義名分のことを念頭におきながら、私にしてはあまりにも真面目くさって、新宿哲学カフェのことを書いてしまいました。おそらくは大人の目をまったく度外視するのが許されるほど、私を子どもとは誰もみなしてはくれないことくらいは自覚しています。

 しかしながら、以上に述べた全てでは語りきれそうにもない、遊びが残っています。そして、まさにこの遊びこそは、新宿哲学カフェが理想とするところであって、それを隠しておくつもりはまったくありません。

 その遊びとは、人知れず哲学をし、それをほんの少しの人になら話してもいいかもしれない、同じような人がいたらその人の話を聞いてみてもいいかもしれない、と思っている<子ども>を探すことだと言うことができるかもしれません。哲学カフェは本来そういう子どもが遊びにやってくるところであろうと私は思っていたのです。私はいつもそうだと思って哲学カフェに行っていたのです。でもそうではなかったので、自分で作ろうと思ったのです。

 そんな理想の場所が実現するには、すでにいやおうなく存在する大人の事情をことごとく考慮し慎重に取り扱う必要があるという点で時間と努力がこれからも不可欠でありましょう。ですが、もうすでにそんな遊び場が作られようとはしている、ということくらいは、知っておいてはもらいたいのです。そして、そんな遊び場を作る人が他にもいてくれたら、と思ったりもします。

かくれんぼとしての新宿哲学カフェ

 終わりに言っておきたいのは、はじめに言ったことの繰り返しですが、終わりまで読んでいただいた方は安心して新宿哲学カフェにお越し下さい、ということでしょう。そして、ともかくこの終わりの部分くらいは目にした方のなかには、あれこれの点で同意もできなければ共感もできず前提もとうてい受け入れることはできないし反論する気もならないという人が、たくさんいるはずでしょう。そういう人でも、人知れず哲学している誰かがいてもおかしくはない、と一度は思ったことがあるのではないでしょうか。人知れず哲学している誰かがもしもあなたであったなら、もしも子どものあなたであったなら、と問うてみてください。

 新宿哲学カフェは、そういうわけで、人知れず哲学している子を見つけるかくれんぼみたいなものかもしれません。

この記事を書いた人

The Third Man(木本)
The Third Man(木本)

Y先生には「君には言いたいことが何かあるのは分かるけれど、それが何であるのか分からない」と言われ、H先生には「何かの本質をつかんでいるとは思うけど、それが何かってことだよね」と言われたと話すと「それはそのままthe third manさんのキャッチフレーズになりますね」と。

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Y先生には「君には言いたいことが何かあるのは分かるけれど、それが何であるのか分からない」と言われ、H先生には「何かの本質をつかんでいるとは思うけど、それが何かってことだよね」と言われたと話すと「それはそのままthe third manさんのキャッチフレーズになりますね」と。

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