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官僚制は実は知識ではなく、抽象的な知識の権威を社会全般に行き渡らせようとする

関廣野『プラトンと資本主義』 北斗出版 1982年


p380-382
例えば政府の高官と一介の女性の事務員を分け隔てているのは、身分ではなく官僚機構内の位置の差にすぎない。この事実に対応して、社会的官僚制が規範とする知識は、原則として万人に解放された公的な性格をもち、さらに特定の人格に神秘的に合体した知識ではなく、知識そのものの非人格的な権威がこの官僚制を支配する。加えてこの官僚制を伝統的官僚制から決定的に区別していることは、それが知識を万人に公開すべきものと認めるだけでなく、知識それ自体が可能な限り潤沢に万人の間に普及さるべきであると公言していることである。実際、プロテスタントが皆自分自身の救済に専念する祭司だったように、社会的官僚制の下では誰もが自分自身の教師となり可能な限り学問、教養を身につけねばならない。民衆は無知に留めおかれるどころか文化の圧力と公的措置にとって学問へと強制され、知識の権威に畏怖することを叩き込まれる。伝統的官僚制下の民衆の「アジア的無関心」とは対照的に、社会的官僚制下では教育熱が支配する。そして企業と官庁の官僚機構は、教育された労働力という視点から組織されている。
 近代的官僚制はこのように知識を普及されることを志向し、誰にでも知識を習得する機会を与えようとするが、これは人間本来の知的探求心とは何の関係もない。この官僚制は実は知識ではなく、抽象的な知識の権威を社会全般に行き渡らせようとする。それは官僚制化した社会で専門家が独占する知識のことであり、普及さるべき知識として正当化されているのは専門家の政治的威信なのである。したがって近代的官僚制は、知識を普及させ被支配者を「啓蒙」することをつうじてこそ知的独占の機会を作り出し、その知的独占の実体は官僚制の下で専門家が独占している政治権力である。この事態はかつてマルクスが暴き出した資本主義的な収奪と独占のシステムと見事に対応している。すなわち資本主義の経済体制は、労働者と消費者を直接収奪するのではなく、反対に大量の商品を生産し流通させることをつうじて彼等を長期的かつ最も効果的に収奪するのである。マルクスによれば、この流通をつうじての独占の形成が可能となるのは、工場において労働者が生産手段から分離され、人間的自発性を失って警衛隊の一要素と化していることによる。そしてこの資本主義経済における工場制度というスキャンダルに、資本主義の政治的文化におけるもう一つのスキャンダルが対応している。それは学校教育というスキャンダルである。
 近代世界の社会的官僚制は学校教育なしには考えられないものである。学校教育は個人の社会化の過程そのものを官僚主義的に管理し操作することによって、個人の市場社会への内面的な統合を実現する。そして工場制度が労働を資本という反=労働に転化させるように、学校制度は教育を反=教育に転化させる。というのも近代の学校の機能は本質的に政治的なものであって、抽象的な知識の権威を社会的に確立し、専門家による非専門家の操作と管理の正当化に仕えるものだからである。近代社会における官僚制的な支配の在り方は、学校教育のうちに要約されている。言い換えれば、知識の普及や人間形成をおためごかしに目標に掲げる近代の学校教育制度の本来の機能は、家族と地域社会からそれらに備わる伝統的な教育機能を剥奪し、これを社会的官僚制下の専門家の手に集中させることにある。伝統的にーーーそしてある意味では常にーーー個人の性格形成としての教育は家族に、倫理的=政治的教育は地域社会に委ねられ、民衆の日常文化と政治的自治能力はこの両者に基礎を置いていた。学校教育は、近代資本主義がこの民衆の政治的自治能力を麻痺させ粉砕するために用いた最も重要な戦略兵器であった。実際、資本主義体制の下では、経済の中心がその伝統的単位であった家族と地域社会から巨大な法人企業に移行すること、行政手段が匿名の官僚機構に集中すること、そして家族と地域社会に変わって学校教育が教育活動を独占することは、全く同時的な、事実上一つの事柄なのである。
 学校教育とは教育活動一般の官僚制化を意味する。しかし、一度制度化されるや、学校教育はあらゆる官僚制を生む原=官僚制として機能する。学校教育は直接資本に役立つ「人材」を養成するというよりは、機械としての個人を大量生産する。この教育学的支配という、市場最も陰険で冷酷な支配の様式は、十八世紀の啓蒙主義によって確立された。我々は啓蒙主義の本質を「教会から学校へ」という語に要約できよう。なるほど啓蒙主義は教会と「坊主ども」に政治的には激烈に対立したが、その実、「真理、進歩、人間性」といった合言葉の下に、西欧のキリスト教会が一千年来準備してきた民衆に対する教育学的支配を一挙に完成させたのであった。宗教改革がすべてのプロテスタントを俗世における修道士としたように、啓蒙主義は万人を抽象的な知識に奉仕する勤勉な学徒とした。こうして洗礼式に入学式が、牧師の説教に教師の課業が取って替わった。カルヴィニストの後継者は、何事にも正しい方法があると想定し、現在の必要ではなく将来への準備を強調する学校教育であり、カルヴィニストに独特な生活態度は、学校の生徒たちの間に再現されることになったのである。

昨日はこのような会に呼んでもらったのだが、上のことも言えばよかったなあと思ったのだった。

https://youtu.be/uZCWnO3yUK4

https://youtu.be/uZCWnO3yUK4

哲学のプロはありえない?

哲学にはプロやアマはあるだろうか。草野球や草サッカーがあるように、草哲学がないはずがない。プロ野球やプロサッカーと同じように、哲学もまたプロ哲学があるとしたら、それはアカデミズム哲学やジャーナリズム哲学のことであろうが、それらは果たして褒められるべき哲学であろうか。

ところで、素人や玄人、良し悪しがあるかもしれないことは、「なぞらじ」で話されていた。

「プロ」と哲学者とアカデミズムの問題に関するツイート

世すぎのために金をかせぐのが、どれほどの卑しいことであるか知っている人は少ない。

お金をもらうことが卑しいことだとしたら、お金をもらって哲学することはどうであろうか。

以上のことは、昔からの大問題なのだ。

歴史的な大問題であることの証拠 納富信留『ソフィストとは誰か』から引用

歴史的な大問題だ、とのことは、アカデミズム内部でもすでによく知られたことである。以前にnoteには書いたところを抜粋しておこう。

https://note.com/tritosanthropos/n/nab5bfba25d95

『ソフィストとは誰か』では、プラトン『ゴルギアス』の冒頭が次のように説明されている。 

 ゴルギアスの自負する「演示epideixis」に対して、プラトンがソクラテス哲学の「対話dialogos」を挑戦させる、対話編全体の趣旨を示している。人々の前で美しい言辞をつらねる弁論は別の機会にして、一問一答の対話で共に探求を、と要求するソクラテスに、ゴルギアスの側は一向に意に介さず、そういった一問一答も「演示」の一つであると受け入れる。
 哲学を弁論術から明確に区別し、対比させようとする哲学者の側の試みと、哲学の言説も弁論術の内部に回収して差異を消し去るソフィスト側の戦略とが、これほど明瞭に表現されている箇所は他にない。

『ソフィストとは誰か』p156 納富信留

もしかして「汝自身を知れ」「無知の自覚」とは、世すぎのための金稼ぎに対する自嘲?

お金をもらって知を与える営みに潜む不穏な何かに、プラトンが気づいたことが、哲学の歴史的起源だったのかもしれない。そうすると、「歴史的起源にさえも関わる」どころではなく、哲学の歴史的起源そのものかもしれない。

それは歴史的起源というだけでなく、人が哲学を「始める」に当たって必須なことかもしれない。自らの問いが、世すぎのための金を稼ぎなどという卑しい行為に成り下がっていることを自覚しない限り、哲学を始めることができないかもしれない。

もしかして無知の自覚や汝自身を知れ、とは、この種のことを言っているかもしれない、と考えたくなるのは、私だけだろうか。

考察:哲学と金稼ぎの目的と手段

お金をもらわずに哲学ができればそれはそれでよいことだろう。ここに問題はない。けれども、それと哲学を「教える」ことでお金をもらうこととを一緒くたにしてはいけない。

哲学を教えるに当たってすべからくお金をもらってはいけない、ということにはならないからだ。哲学に価値を認める人に限って哲学を教える場合には、哲学を教えることでお金をとってよい。そればかりか、お金をとるべきなのだ、ただで教えてもらえる無知な人々を排除するために。

このことが理解されれば、哲学に関わることでお金をもらうことが全て悪い、などという粗雑な結論には至らないはずである。哲学をすることが目的でありその手段としてお金を稼ぐという、目的と手段の主従関係が常に保たれている必要があるのだ。それゆえ、お金をもらうかもらわないかではなく、なんのためにお金をもらうか、を問う必要がある。それが哲学のため、真理のためであれば、許される可能性があるはずだ。

問い:金稼ぎを目的とし哲学を手段とすることは可能か。

いやしかし、そんなことよりももっと重要なことがある。金稼ぎを目的とし、哲学を手段とするようなことが、本当に可能であろうか。そんなことは、そもそも一体いかにして可能か。手段としての哲学、とは私にとってはもはや丸い四角、配偶者をもつ独身者のように聞こえて仕方がないのだが、それについては、オンライン哲学対話で語ることにするか。

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対話の金銭問答その三

問い:
対話するのにお金をもらうとすると、お金が払えない人を排除してしまわないか

答え:
全くその通りである。

お金を払ってまで対話しないような人を、対話しようとする人は排除すべきである。また逆に、対話するのにお金を貰えば、お金を払う人なら誰でも受け入れるという条件を提示していることになるのを忘れてはならない。

補足

「お金が払えない人を排除してしまわないか」というのは問いの形をしていますが、単なる懸念です。どんな懸念であるかを考え、突き詰めていくと、吐き気を催すような気持ちの悪いものに出くわします。

子どもからお金をとるべきではない?子どもにはお金を払うべきである

まず、お金が払えない人の代表として、子どもを考える人がいるでしょう。子どもに対話を教えるのに、子供が対話を学ぶのに、子どもが対話をするのに、お金がかかってはいけない、と多くの人は考えているかもしれません。私は、しかし、全くそんなふうに考えていません。根本からそんなふうな考え方をしていません。そもそも、子どもには対話を教える必要はなく、子どもから大人が対話を学ばなければならないと考えているからです。お金が払えない人を排除してしまう、などと懸念している人は、すでにして子どもに対話を教えてあげるということを仮定した上でそんな愚かな懸念をしている。そもそも、そんな仮定を取り払う方が先決です。

さて、対話をしたいという子どもが現れれば、その子どもと対話をするまでのことです。子どもが対話屋に尋ねて来れば、もちろん無料で対話するでしょう。子どもからは、私はお金をとるつもりは全くありません。

しかし、だからといって子どもにお金をあげるつもりもありません。というのも、子どもにお金をあげたところで全く子どもは得をしないからです。おそらくは、そのお金を受け取ることになる、親が得をするでしょう。そうであるとすれば、やはり、私は、その親からお金をとるべきでしょう。親でなくとも、保護者から、お金をとるべきでしょう。というのも、子どもが対話する機会を、その保護者や親は与えることができず、その上で子どもが対話屋を尋ねてきたということなのですから。

子どもに対話の場を与えることができない大人からお金をもらうべきである

その保護者や親ができないことで子どもが求めることを、親や保護者に代わって対話屋は対話をその子に与えるのですから、保護者や親から報酬を得るのは当然でしょう。

そもそも、お金を取るとお金を払えない人を排除してしまう、という発想は、対話を教育するという前提に立ち、教育の機会はすべての人々に平等に与えられるべき、という思想から来ている。私はこれに反する考えがありますが、話が大きくなり過ぎるのを避け、次のことを言うにとどめておくことにします。なるほど対話が存在する、ということを知らせるだけのことなら、強制的に子どもや人々をかき集めて必要最低限のことをすればよいが、それ以上のことをする必要はない。

対話を普及しようという善行に関してのあまりに無知な熱狂

さて、私のもっとも言いたいことは、こうです。すなわち、金銭を得ないことによって代わりに何か他のものを得ているのではないか、ということです。何か他のものとは、尊敬だとか道徳心だとかです。私に吐き気を催させるのは、金銭を得ない代わりに人々に尊敬という名の隷属根性を植え付けることです。つまり、金銭の代わりに「心」を取り上げることです。お金をもらわずに対話をすべての人々に平等に与えようとするその心性のうちに、善行に関する無知な熱狂が、透けて見えるというよりはむしろ剥き出しになっている。そのことに対する感度がない人の多さに私は驚きを隠せません。

トロッコ問題が事件になったのは、哲学が学校には適さないということを自己申告しているからである

人々を強制的に集めておいて対話という存在を知らせるというのは、暴力にも近いのは明らかなことではないのでしょうか。その暴力にも近いことに対する自覚がなければ暴力はエスカレートしやがて本当に暴力になってしまうでしょう。現にそれが誰の目にも明らかな形で事件になることさえあるのです。トロッコ問題が教室で取り上げられ、それが事件を起こしたことがあったと記憶しています。それが私に何を示しているのかといえば、やはり哲学や対話は学校という強制された場所で行われることができるものでは決してない、ということです。あの事件は、子どもたちや教師たちに関わる問題というよりも、哲学そのものが学校という場所で教えられるべきではないことを訴えたものであると私は考えます。

山口県岩国市立東小と東中で、「多数の犠牲を防ぐためには1人が死んでもいいのか」を問う思考実験「トロッコ問題」を資料にした授業があり、児童の保護者から「授業に不安を感じている」との指摘を受けて、両校の校長が授業内容を確認していなかったとして、児童・生徒の保護者に文書で謝罪した。

https://mainichi.jp/articles/20190929/k00/00m/040/044000c

暴力に近いものが行われており、それに加担しているという教師の自覚のなさはもはや恐るべきものです。そのことがすでに暴力ではないか、と思われるほどです。学校に勤務するとか教育機関に所属して人々を教えることは、そうした暴力に加担することです。にもかかわらず、そのように感じるのは、ほんのごくわずかの人だけのようです。私がこれを知ったのは、流行であったところのポストモダンの思想やニーチェやフーコーからなのですが、こうも人々がまったく違う行動に出ているところをみると、私の誤解である確信が強くなってきます。しかし、誤解であることが、私の洞察の価値を下げることにはまったくならないと自負しています。いや、洞察というよりはむしろ、ほぼ身体的な感覚です。というのは自ずと看取され看取されるとこのように書き記すことによって行為してしまうからです。

学校や教育組織の一員になるのは、半暴力組織の一員になることである

ともかく、人々を強制的に、それも非常に多くの人数を、集めている学校や教育組織は、それだけで十分巧妙な仕方で暴力をふるっているのに、その一員となって加担しようとする発想は私には本当によく分かりません。それも自らの生活を守るために必要に迫られてそうするならまだ分からないこともありませんが、私の観察するかぎり、自らの生活を守ることについてよく考えもしないで思い込んでいるだけです。大学や教育機関に職を得なくても自分で生きていく道はあるし、ないならもっと考えるべきなのに、そのような重要な事柄に対しての考えを放棄して、因習や名誉や惰性にたぶらかされて半暴力組織の一員に自覚もなしになっているわけです。そうした人から主体性や自分で考えることや思考力を学ぶなどというのは、不可能な話です。まったくちゃんちゃらおかしな話です。大学や教育機関で教えられる内容がたしかにそれに反するものであったとしても、結局はそんな組織の中にいることで思考を停止しているところを示しているわけですから、そのような人々に子どもたちが長い時間囲まれて弊害が起こらないわけがない、と私は素直にそう思います。

さて、このことについてもっと書きたいことがありますが、どれほど私がこれを書き記しても読んでくれる人さえわずかであり、読んでくれても理解してくれる人はもっとわずかであり、理解しなかったら私と対話しようと思う人などはもっともっとわずかであればこそ、「私」がこれを言い続ける価値があるであろうと信じております。そのことを告げて、お金を取ることでお金を払えない人々に対して対話を提供できなくなる、という問いに、善行を求める無知な熱狂を嗅ぎ取らざるをえないことの補足をやめにします。

さて、以上のことは、人々を挑発するために、あえて辛辣にしかも悪意を持って書いていることを、告白しておきます。どうか、皮肉を理解していただけますよう、お願い申し上げます。

The Third Man(木本)
The Third Man(木本)

Y先生には「君には言いたいことが何かあるのは分かるけれど、それが何であるのか分からない」と言われ、H先生には「何かの本質をつかんでいるとは思うけど、それが何かってことだよね」と言われたと話すと「それはそのままthe third manさんのキャッチフレーズになりますね」と。

対話の金銭問答その二

問い

対話なんて役に立たないものを仕事にできるのか。

答え

できる。なぜなら (2.1)対話が仮に役に立たないとしてもそのもの自体で価値をもつから。さらに、(2.2)対話が役に立たないというのは誤解である。対話はあらゆることに役に立つ。社会的に善いことにも、悪いことにも役に立つ。

補足

対話の悪用についての認識

とりわけ、対話は悪用されるという点について補足したいと思います。対話は社会を作っている基礎的なものなので、世俗の善いものに役に立つように用いることができるのは当然ですが、逆に、悪いものに役に立つように用いられていることも、知る必要があるでしょう。むしろ、対話についてよく知らないと、自らが対話を知らず知らずに悪用してしまっていたりすることがある。

たとえば職務上避けることのできない、たとえば従業員への叱責だとかクレーム客に対する処置だとか業務提携先との齟齬に際して生じる争いの場面では、私自身、対話をある意味では意識的に悪用しています。あまり詳しく書かない理由があるのですが、従業員にネガティブな感情を植え付けるために質問攻めにしたり、クレーム客を消耗させるような問い投げかけたり頓珍漢な答えをしたり、争いの場面では相手方の不利になるような言説へと導く論理を展開したり…、というようなことです。対話の本質が何であるかを私は知っているので、対話を明らかに悪用することができるのです。そして、悪用しているという認識も持っている。ですが、対話についてよく知らなければ、これらのことを悪用とは考えずに、従業員に対する経営者の振る舞い方、クレーム処理の技術、論争の作法などというむしろ肯定的で積極的な能力を持っているということで済ませてしまうことになるでしょう。

そうした能力は、対話から生じるものなのですから、それに自覚的・意識的であるということ能力を誤った方向に用いないためにも非常に重要でしょう。その重要性が理解されるなら、対話が役に立たないなどとは思いもしないことではないかと思います。

The Third Man(木本)
The Third Man(木本)

Y先生には「君には言いたいことが何かあるのは分かるけれど、それが何であるのか分からない」と言われ、H先生には「何かの本質をつかんでいるとは思うけど、それが何かってことだよね」と言われたと話すと「それはそのままthe third manさんのキャッチフレーズになりますね」と。

対話の金銭問答その一

問い

何にも役に立たないと思われている対話になぜ人々が金を払うであろうか。

答え

なぜなら対話それ自体に価値があるから。

また、対話は何の役にも立たないのではなくて、全ての役に立つ。

問答についての補足

対話を娯楽と置き換えて考えてみる。

人々が対話することにそのものに価値があることを認めてくれればお金を払ってくれることは不思議ではありません。対話を他の娯楽に置き換えて考えてみれば明らかでしょう。映画やスポーツは何かに役立つのではなく、それ自体で価値をもっているから、人々はそれにお金を出して見に行ったりやってみたりするのです。対話も、対話することに価値があるということが人々に知られれば、お金を払ってまで対話したいという人がいるのは自明です。対話する場や環境が特別に備えられなければならないとしたらそれはなおさらでしょう。草野球をするのだって、グローブやユニフォームなどの道具を揃え、人々を集め、さらには野球のできる場所を借りる必要があるのですから。

対話を健康と置き換えて考えてみる。

対話を娯楽と置き換えるのが不自然であるのならば、対話を健康や体力と置き換えてみてみるとよいでしょう。健康であればこそ、様々な運動をすることができたり、遠くに出かけることも、美味しいものも食べることができます。しかしながら、健康が害されれば、ある限られた運動しかできず、行動範囲は狭められ、食事制限もしなければなりません。こうしたことから、健康は、健康そのもので価値があるということが認められています。対話は、そうした健康や体力のようなものです。

補足への補足

ところで、以上のことに関連してこんなことをよく聞きます。

1.1 対話することが他者のケアに、問題解決に、思考力の養成に、美的鑑賞に役立つとかいうのなら、対話をするのにお金をだしてまでするが、そうしたことに役立ちそうもない対話になんかお金を払うまでのことはない。

さらには、

1.2 対話するだけなら学ばなくたってできる。対話するのは簡単なことなのだから。そんな誰にでもできることをわざわざお金を払ってまでする必要はない。

これらについて、少し考えてみることにします。

対話なんぞにお金を払ってするまでのことはない(1.2)への反論

1.2のもとになっているのはこんな考えです。すなわち、対話が単純でもっとも基礎的なものであることから、それを誰でもいつでも任意の目的でどんな場面でも行うことが、誰に教わらなくてもできる。それゆえに、そんなものにお金を払うまでのことはない。至極あたりまえのように聞こえる見解ですが、救い難い無知に陥っていることを告げてあげなければなりません。しかし、あまりにも深い無知に陥っているので、説得するのが無駄ではないかと私は思います。

まず、ほとんどありえない場合を想定します。1.2のような見解を持つ人で、本当に対話ができる人という想定です。その人は、たしかに対話をするのにお金を支払う必要はない。しかもその人に対して私が改めて説得することは全くない。ですから対話について何であれ、こちらが説明するのは、もちろん無駄です。

けれども、1.2のような見解を持つ人は、対話することが実はできていない人です。その数は実はあまりにも多い。私の見る限りご老人方や他人を動かす言説を心得ている人々など、話を聞くことができないほぼすべての人々は間違いなくこの人種です。その人々たちにこそ、対話は必要であろうと思うのですが、その人々に直接対峙して対話の重要性を説くことは、もはや不可能です。というのも、度はずれな勘違いつまり並外れた無知が、もはや対話が必要であるという対話をすることすらも、拒絶しているのだからです。

対話の必要性を説くのは無駄であるばかりか有害である

 そのような人々に対話の必要性を説くのは無駄であるばかりか有害であることを知ることのほうが圧倒的に重要かもしれません。というのも、対話の重要性を少しばかりは知っている人に対話の知識や技術や体験の場を提供するのにも時間や労力がかかるのですから、無知な人々に対して優先的に対話の必要性を説くならば、限られた時間や労力が、対話を必要とする人々へ届けられないことになってしまうでしょう。

 ところで、無知な人々も、権威ある人や数多くの人々が繰り返し対話の重要性を説けば、説得される可能性はある。ですがそれは優先事項ではありません。まずなすべきことは、対話の必要性を感じている人に対話を届け、必要性を全く感じていない方々については、放っておく、放っておくのも難しければ排除しておく、ということでしょう。

対話なんか役に立たないのだから金を払う必要はない(1.1)への反論

対話は悪用すら可能な万能薬である

 対話が役に立ちそうもない、ということに関しては、まったくの間違いであることを先に言っておきましょう。むしろ、対話はもっとも基礎的なもので、何にでも役に立つ万能薬だとさえ言っていいくらいのものです、悪用すら可能な。ですからその点で、先ほども言いましたが、対話は健康のようなものです。健康であるから、たとえば仕事ができ、趣味ができ、運動ができ、買い物にも行け、旅行に行ったりすることができます。しかし、健康でなければこれらのことが制限され、あるものは全くできなくなったりします。健康が少し害されれば運動することは制限され、健康が完全に害されてしまうと運動することが全くできなくなってしまいます。対話もまたそういうものです。対話が全然できなければそもそもコミュニケーションも自分で考えることもできなくなりますし、対話がほんの少ししかできないとなれば、他者のケアもそれほどの程度でしかできず、問題解決も限られた範囲でしかできませんし、美的鑑賞も貧寒なものしかできない。ともかく、我々は実は社会を根底的な部分で対話によって構成しているので、対話ができなかったり制限されていると、社会活動の様々な場面で不都合や不自由が出てくるのです。

 ですから、対話は何かの役に立つというよりはむしろ、何か我々の不都合や不自由な社会活動があるとすれば、それは対話が機能していないとか対話が制限されているとか対話が不全を起こしている、と考えるべきです。にもかかわらず、そのことを我々は知らないのです。我々は普段は知らないままに、様々な社会活動を行っていて、いろいろな問題に巻き込まれては何らかの苦し紛れの解決を余儀なくされています。役に立つばかりのものが要求されているために、役に立たないものを蔑ろにし、苦しんでいたり悩んでいたりするわけです。その蔑ろにされているものが、対話であり問いなのです。

 何かの役に立つということを、とりあえずは一旦脇に置いて、問いや対話を取り戻そうとすることが必要なのです。そのことをするのに対価を支払ってまでするのはあたりまえでしょう。その道の専門家に見てもらう必要があるからです。その道の専門家はすでにそれに時間や労力を注ぎ込み、必要としている人々に届けるための知識や技術や経験をもっているですから。

医者は有用性を度外視し、患者に健康を取り戻す

 ここでも健康と対話は同類です。健康を作り出すのは医者ですが、医者はとりあえずあなたがどんな活動するかなぜ健康を必要としているのか、健康を何のために役立てようとしているかは脇に置いた上で、あなたを健康にするようにする。それが医者の専門であり医者の果たすべき職務だからです。対話もまた同じことが言える。医者の立場となるのは対話屋ですが、対話屋は、対話をあなたがどのように生かそうとしているか、何のために用いようとしているか、なぜ対話を必要としてるのか、ということを、とりあえずは一旦脇に置いて、対話そのものを提供することに努めるのです。それが、対話屋の職務です。これが、対話屋が、対話そのもののを提供することができる、ということです。そして、対話そのものが価値をもっているとはそういうことです。

 対話することそのものに価値を認めず、それに対価を支払う必要がないと考えているなら、それは健康になるのには自分で健康管理をしっかりし病気にかかっても民間療法でなんとか治そうとするというのに似ていると思います。また対話を得るのに安ければ安いほどよく最低限の支払いしかする気もないので簡単に手に入るものでよいと考えるのは、ワケあり物件を探して住もうとするのに似ているのでしょう。

The Third Man(木本)
The Third Man(木本)

Y先生には「君には言いたいことが何かあるのは分かるけれど、それが何であるのか分からない」と言われ、H先生には「何かの本質をつかんでいるとは思うけど、それが何かってことだよね」と言われたと話すと「それはそのままthe third manさんのキャッチフレーズになりますね」と。

対話の金銭問題

対話の金銭問題とは次のようなものです。