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哲学は役に立たない。哲学者でさえ、真理には到達しない。

以上のツイートを踏まえつつ、「哲学は役に立つか?」の問いについて考えるきっかけを与えようと思う。

哲学が人類を「幸福にしない」これだけの理由
大学から哲学科が消えるのは由々しき事態か
中島 義道 : 哲学者
http://toyokeizai.net/articles/-/124180

二つの重要なことを、少し書き換えることで、主張を示してみたい。

真理は真理

哲学においては、たとえ人類が滅びようが、劣化しようが、不幸になろうが、真理は真理なのです。しかも、この場合の「真理」とは、科学的真理のようにいわゆる客観的(間主観的)なものではない。哲学者1人ひとりが誠実かつ真剣に思考し続けて到達したこと「すべて」です。それを超えた「客観的」な知などない。

https://toyokeizai.net/articles/-/124180?page=2

哲学においては、たとえ人類が生きながらえようが、繁栄しようが、幸福になろうが、真理は真理なのです。しかも、この場合の「真理」とは、宗教的真理のようにいわゆる主観的(間主観的)なものではない。哲学者全てが誠実かつ真剣に思考し続けても到達しなかったことの「ひとつひとつ」です。そうでない「哲学的」な真理などない。

哲学的真理は、具体的に制作することによって会得するほかはない

哲学的真理は、むしろ「芸術的卓越性」に近く、鑑賞することによってではなく、具体的に制作することによって会得するほかはない。芸術作品を鑑賞するだけでもある種の能力は開花しますが、それは芸術評論家の目にすぎません。

https://toyokeizai.net/articles/-/124180?page=3

哲学的真理は、もっぱら「芸術的遊戯性」であり、鑑賞することと同時に、具体的に制作することによって実現しているほかはない。哲学作品は鑑賞するだけでもある種の能力の現実化であるし、それは哲学研究者の目には見えないものです。

補足

A  芸術作品を鑑賞するときにも制作するときにも、その作品と合一するような体験のことを念頭に置いている。そのことを「遊戯」と私は呼ぶ。「合一」とは、鑑賞と鑑賞作品とが不可分であること、制作と制作品とが不可分であること、鑑賞も制作も作品も不可分であることと言い換えてもよい。

B 「会得」とされている芸術的卓越性について、私は次のような見解をとる。卓越性をたとえ存分に身につけていたとしても、傑作を残し続けるということは人間である限りありえない。芸術作品を制作する場合には、ある時は傑作を、ある時には駄作を、生み出すということがあるのが必然である。同様にまた、鑑賞力もある時期には敏感でありある時期には鈍感である。そして鑑賞力も制作力も十全であるようなときの、制作しかつ鑑賞している最中だけが、「真に」芸術的卓越性が発揮されている、ということなのである。私は哲学的真理をこのように非常に狭く理解する。単純に言えば、会得する哲学的卓越性は、場合によっては芸術的卓越性より以上に、錆付きやすいのである。

C 哲学作品が鑑賞するだけでもある種の能力の現実化であるというのは、哲学研究者はそもそも哲学作品など見ていない、ということから容易に理解されるだろう。哲学研究者は、「哲学」を名乗るほど「哲学」のことは知らず、単にある人物の思想や、流行やら伝統的なものやらの問題を自分で立法することなくただ単に行き当たりばったりに考えているだけだからである。そういうのは哲学研究ではない。哲学研究なら、哲学一般の研究のことだからである。プラトン研究やアリストテレス研究やカント研究やヘーゲル研究が哲学研究であるはずがない。哲学に対して無礼極まりない。プラトンやアリストテレスにとって哲学は重要であっても、哲学にとって重要なのはプラトンやアリストテレスのような個々の人物ではないし、イデア論やカテゴリー論の個々の問題でもない。哲学研究というくらいなら、哲学の本質を研究してもらいたいものだ。哲学そのものの。

哲学に「血税」を使う必要などない

哲学など何の役にも立たないのですから、それに血税を使うのはもったいない。もう1度言いますが、官立の大学は知的遺産管財人養成機関に衣替えするか、廃止するかを選択すべきでしょう。そして私立大学は、「哲学科」などという偽りの看板は取り下げ、「比較文学科」「人間学科」「コミュニケーション学科」「環境学科」といった安直な名称に切り変えて生き続けるか、それができなければ即刻廃止すべきでしょう。

こうして、少なくともわが国民が哲学の真の姿を認めて、その表面的な美名をひっぺがし、哲学はまったく役に立たず、自他の幸福を望むこととは無関係であり、反社会的で、危険で、不健全なもの、という点で認識が一致し、それにもかかわらず哲学をしなければ死んでしまう全人口の1パーセント未満の人のためにのみ哲学を学ぶ「真の場所」を設置すること。これはまことに健全なことだと思いますが、いかがでしょうか?

https://toyokeizai.net/articles/-/124180?page=3

哲学について、よく知らない人が役に立つとか素晴らしいものだ、とかいうのは、何か不健康なものを感じる。

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thethirdman

Y先生には「君には言いたいことが何かあるのは分かるけれど、それが何であるのか分からない」と言われ、H先生には「何かの本質をつかんでいるとは思うけど、それが何かってことだよね」と言われたと話すと「それはそのままthe third manさんのキャッチフレーズになりますね」と。

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