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他の対話屋様へ

「対話」という新しい価値について

同業を営業しておられる皆様へ

全国全世界にすでに存在する哲学カフェ、対話イベントの主催者、そして、大学や教育機関でそれらのものに関わる皆様とは、可能な限り協力・友好関係を築くことができればと考えております。私たちが自らの活動を通じて知り得た方々には、皆様の活動をはじめとするいっそう大きな知の営みへのご案内をしたいと思っているからです。そうすることで、社会にはいっそう対話が広がり、対話は一つの新たな産業を生み出すと確信しているからです。

対話や哲学カフェ、ひいては哲学の何であるかについて、私たちとの見解の相違や主張のすれ違いがあったとしても、それらによって対話が不可能になることはありえません。そうした相違やすれ違いさえ、対話によってこそ生まれるはずのものでしょうから。

同業を開業しようとなさる皆様へ

「対話屋」という概念は、大学や教育機関などから経済的に独立して自ら生計を立て、自分自身の研究を在野でも続けて行こうとしている人々のためにもあるものです。対話屋の存在が、例えば本屋や八百屋や床屋のように、一般の人々に知られればよいと切に願っています。そうすれば、社会の中で新たな「対話」産業が生まれ、「対話」の市場が広がるでしょう。そして、哲学や人文学などの、実学と対比される、虚学に人生の大半を捧げてきた人々、例えば博士号を取得した人々など、が、例えば医師が医院を、弁護士が法律事務所を、税理士が税理士事務所を、建築士が建築事務所を開くのと同様に、対話屋を開業する、という道が開けてくるでしょう。

対話屋は、「対話」という価値を創出する、と私たちはうたっております。その意味するところは、知を求めるための対話が、教育やビジネスや他の何かの役に立つだけでなく、対話そのものに価値があるということを、改めて多くの人々に知らせることです。教育やビジネスやおよそ社会のあらゆることは、むしろその根底に対話があって成り立つものです。それゆえにこそ、その根底にあるもっとも本質的な対話を取り戻すために、対価を支払ってまでするということは、何らのおかしなところもありません。例えば病気になってしまった体や心に健康を取り戻すために医者に行く、受けた損害を取り戻そうと法律相談に行くのと同じです。

昨今では、社会の多くの人々が、対話の重要性を認識するに至っています。しかしながら、その効用ばかりが注目されているだけです。例えばビジネスマンや教育者は、対話を「用いている」にすぎません。対話を求める人々も、対話そのものを提供する場所もなければ提供しうる人が誰だかを知らないので、対話の結果を与えるだけの人々のもとに殺到している、というのが現状です。社会に広がりつつある、オープンダイアローグとかワールドカフェとか、哲学カフェや哲学プラクティスも、現在のところはまだ、効果を人々に与えるが、原理や原則を提供するには至っていない。そのような原理原則を提供できるような人々が実践者のうちのごく少数に限られているのだから当前でしょう。

なぜこんなことになっているのかには、様々な理由があるでしょうが、明らかに、対話を提供すべき資格のある人が、大学や教育機関に守られると同時に閉じ込められているからです。そのような人々が直接社会に関わるならば、状況は一変するでしょう。直接社会に関わるということは、何らの難しいことでもありません。自ら開業すればよいだけの話ですから。開業するというのも、全く新しいことをやるのではなく、医師や弁護士や税理士と同じことをやるだけです。開業に必要なのが何であるのかくらいは、皆さんなら、簡単に調べて行動に移すことができると思います。しかし、開業について調査するのは簡単でも、行動に移すには、確かに少し勇気がいるかもしれません。そういう方に対しては、私たちの失敗例も成功例もお話しすることで、自立する勇気を持ってもらいたいと思っています。ほんの少し早く始めただけで得られた知識や経験はわずかですが、勇気を与えるだけなら全く十分だと思います。

皆様へ

対話は注目されている

対話が注目を浴び、教育やビジネスで用いられるようになっています。社会は必要としているなどと言われています。これは一体どういうことなのか、一体何なのか、どうしてなのか。もしかして、対話が注目を浴びているのは、対話が何らかの解決を与えたり、望まれている答えになっているからでは?何という皮肉でしょう、答えよりも問いを強調してきた対話が、実は、社会に既に存在する問題の解決をあたえ、人々の望む答えを与えるものとして、受け取られているとしたら。

対話が解決だとしたら皮肉である

皮肉を説明するのは野暮かもしれませんが、こういう皮肉なのです。探求の共同体や共に考えることによって「達成される」のは「問う」ことです。それがなんと、「問う」ことが達成されれば、すでに人々の期待に応えており、教育やビジネスや社会や世間では、答えることを強要されているというような問題があるので、すでに存在するその問題の解決を与えてしまっている、ということです。なぜ皮肉なのでしょうか。なぜなら、探求や共同体や共に考えることによって、達成されるというのではなく、ようやく始められるべきものが問うことであるはずだからです。それは、教育やビジネスや社会に、すでに存在する問題の解決を与えることではない。すでに存在する問題の何が問題なのか、と問いを再び立てることです。解決を求められるがままに早急に無闇に与えてしまうことに対して慎重になって、問いを反復することです。これこそが対話に求められていることなのではありませんか。これだけが対話になしうる最大のことではないでしょうか。

対話そのものに価値がある

以上のことからお察しいただきたいのですが、「対話屋」は、教育やビジネスや社会にすでにある問題の解決のためのものではありません。だからといって、誤解されないように注意してもらいたいのですが、教育やビジネスや社会で言われている対話とは無関係でもありません。それどころか、対話の本質は同じです。異なるのは何かといえば、対話屋が個人や少人数によって営まれるなら、純粋な対話を提供しうる、ということです。それゆえに対話そのものの価値を提供しうるのです。

教育業界で導入されている対話は、無自覚的に教育のための対話になっています。そのために教育という目標が達成されなければ対話はいわば見捨てられるでしょう。ビジネスにおいて注目されている対話は、なんらの反省もなくビジネスのための対話と同一視されています。対話が何らの利益ももたらさなければビジネスから対話は不要になるでしょう。社会が求める対話は、社会に貢献する限りでの対話でしかありません。社会では認められていないことについての対話は、社会では価値のないものとされるでしょう。

対話産業が独立可能である

このように、対話がどれほど注目を浴びていても、結局のところ現段階では何らかの手段や方法として用いられる対話でしかなく、実は限定を受けた対話にすぎない。教育に導入されるにせよ、ビジネスで利用されるにせよ、社会に浸透するにせよ、既存の産業や分野に対応した対話でしかないのです。そうした対話は、純粋に問いを立て答えていく、という対話そのものからはかけ離れています。そうした対話は、問題を解決する限りで様々な分野や産業に取り入れられているにすぎないのです。しかし、対話がその本来の意義を持つのは、そうした産業や分野とは独立に、問題を提起し、問いを反復することではないでしょうか。産業や分野や社会のうちには見えてこない問題を指摘しうることが、対話のもつ力ではないのでしょうか。対話とはそうした他の何にも回収されない固有の働きをもち、対話すること自体で十分に価値があるものではないのでしょうか。

対話は根源的である

「対話屋」という概念、活動、その他一切のことは、まったく単純に対話そのものにだけに向けられています。だからこそ、教育やビジネスや社会という業界や分野に吸収されない、独立した産業あるいは分野あるいは存在とでもいうべき「対話」が、成立するのです。そして、対話は対話することそのもの自体に価値をもつもので、他のものからその価値を得ているのではありません。教育やビジネスや社会に役立つ限りで対話が価値を得るのではない。いまはそう思われていますが、そもそも対話することに価値があるから、その他の目的の役に立つのです。それは、教育にもビジネスにも社会にも、その根底には対話があることを思い起こせば一目瞭然でしょう。対話が教育やビジネスや社会に根差しているのではない。かえって産業や分野や社会や世界は、対話を基盤として成り立っているのです。対話がなければ対話の上に成り立つそれらのものは、一切なくなってしまうはずなのです。

対話屋は問題提起すなわち問いである

対話が独立で価値を持つということ、対話がそれ自体として価値を持つ産業となり分野となり社会を成立させるということ。これは身の程を知らない大きな主張であり、本当にそんなことがありうるのか、いや、あるはずがない、と考える方がほとんどなのではないかと予想します。しかし、少しばかりよく考えてみてください。私たちが「対話屋」などと言ってやってみたこととは、ただただ対話屋という概念を問題として提起しているだけです。皆様の一人一人は、対話屋という問題概念に対して自分なりの回答を示せばよいだけです。すなわち、自らの対話屋を自分勝手にやってみることによって。皆様と私たちの間には、実はどんな連帯も必要ないのです。単なる対話屋という概念を皆様が用いることによって対話屋が人々の間に知られるようになれば、対話産業というのが勝手に出来上がるはずでしょうから。人々が対話を欲しているであれば、そうなるはずでしょう。

対話屋について対話しましょう

さて、私たちが「対話屋」という一見愚かしくもある言葉で、いかなる問いを立てようとしたかが、以上でお分かりいただけたと思います。その問いに対する確たる答えを、私たち自身はほとんど持ち合わせていないことを告白しなければなりませんが、この問いにを共に問うてくれる人がもしもいらっしゃるなら、私たちは是非ともまずは対話をしたいと思っております。

対話屋についてのお問い合わせを、お待ちしております。対話屋について、対話しましょう。

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Y先生には「君には言いたいことが何かあるのは分かるけれど、それが何であるのか分からない」と言われ、H先生には「何かの本質をつかんでいるとは思うけど、それが何かってことだよね」と言われたと話すと「それはそのままthe third manさんのキャッチフレーズになりますね」と。

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