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対話屋の対話

ここでは、私たちの実践する対話がいかなる哲学(理念やミッションと同様の意味での「哲学」)に基づいているかを短く紹介します。

*もちろん、対話についてどのような哲学を持っているのかを事前に知らなくとも、哲学カフェにお越しいただくことや対話イベントへの参加やレンタル哲学対話のご利用は可能です。各ページで詳細と最新情報をご確認ください。
新宿哲学カフェ / 対話イベント / レンタル哲学対話

純粋な問いと答え

対話とは問うことと答えることです。たとえば「なぜ悪いことをしてはいけないのか」と問うことは、日常では、挑発だとか道徳性の欠如の表明だとかいうふうに切り捨てられてしまいます。そうすると「なぜなら罰せられるからだ」といった答えの余地もなくなり、対話は全くできなくなってしまう。けれども、そんな日常の次元を超えた、純粋に知ろうとするための「なぜ悪いことをしてはいけないのか」という素朴な問いが存在するのです。さらに、そのような素朴な問いには「なぜなら罰せられるからだ」と真摯に答えてよいのです。こうした問いと答えの営みが存在すると認めているのは、実は哲学対話だけです。考えを深めることも、他者をケアすることも、よく聞くことも、無心に問いと答えを続けて行けば、すべて自ずとできるようになるものです。それが哲学対話の不思議な魅力であり、古今東西の知恵の多くが、実に問答によって伝えられてきたのも、偶然ではないかもしれないのです。

セーフティーと緊張

哲学対話には知的セーフティが備わっていなければならないと言われます。知ることを求め真実を語ろうとする限り、いかなる発言も許されるという解放と安全が、知的セーフティです。「虐待も許される場合があるのではないか」とか「あなたには生きている価値がなさそうです。」とか、こうした過激で誤解されるリスクの高い発言が、哲学対話という場で緊張感を持ってなされるからこそ、発言の自由が保証される。このように「何を言ってもよい」という安心感や解放感と表裏一体になっている「真実を語ろう」という緊張感が、参加者の連帯を強め探求の共同体を生むことになります。

ルールとスタイル

対話にはルールがあると言われています。代表的なものをいくつか挙げるとすれば、

対話のルール

  1. 何を言ってもよい。
  2. 否定しない。
  3. 人格攻撃をしない
  4. 嘲笑したり茶化したりしない。
  5. 無理に発言しなくてよい。
  6. 考えは一貫しなくてよい。
  7. 結論がでなくてもよい。
  8. 専門的知識を持ち出さない。
  9. 分からなくなってもよい。

などです。ルールは対話を行うに際して最低限守るべきものです。ルールはスポーツにおいては競技規則、文章においては文法です。しかしながら、それだけで試合ができるか文章が書けるかといえば違います。スポーツならば試合運び、文章ならば文体、というスタイルがあってこそスポーツらしいスポーツができ、文章らしい文章が書けるようになる。スタイルは、チームや書き手の固有の在り方が実現されるようなものです。対話にも、そうした固有のスタイルがあります。そのようなスタイルは、試合運びや文章がその実践のうちに表現されるのと同じように、対話の実践のうちに現れるものであり、明文化するのは難しいのですが、次のようなものが、私たちの対話のスタイルのなかで際立ったものとして挙げられると思います。

対話のスタイル

  1. 知ろうと思って問う
  2. 問いに答える
  3. 話を最後まで聞く
  4. 短く、ゆっくりと話す
  5. 教えようとしない
  6. 言葉の背後や意味を探らない
  7. 哲学的に素晴らしい問いがでたら、笑う

こうしたスタイルは流儀とも芸風とも言えるもので、人によっては好みが分かれるものもありますが、ともかく、私たちの実践する対話を経験してもらう以外には、スタイルについて語るのは難しいと言うべきかもしれません。

対話の言葉遣い

繰り返しになりますが、「問う」と「答える」をできるだけ純粋に行うことが、私たちの対話活動の一番の目標です。では、そのための具体的な方法は何かといえば、日常疎かにしている言葉遣いを正していくことです。問うためには、問うための言葉遣いを用います。それは疑問文を使うことです。答えるためには、答えるための言葉遣いを用います。それは問いに正確に呼応した受け答えです。問いと答えの正確な言葉遣いは、例えば、「なぜ?」と問い、「なぜなら、カクカクしかじかだからです」と答える、ということです。また、もう一つ例をあげると、「甲ですか、乙ですか、どちらですか?」と問われたら、「甲です」とか「乙です」とか「どちらもです」とか「どちらでもありません」という具合に言葉を使う必要があります。こうした至極単純なことを愚直に行うことを積み重ねていくことこそが、対話するということに他なりません。

問うことと答えることを続けるというのでは、あまりにすべきことが少ないので驚かれるかもしれませんが、祈りや瞑想(今日ではマインドフルネスと呼ばれています)といった古代から現代にまで伝わる永久不滅の知恵はその単純さに凝縮されていると言っても過言ではありません。例えば瞑想や呼吸や身体感覚という非常に単純な生理現象に愚直に意識を集中しますが、対話も同様です。純粋に問うて答える、ということに徹するのです。そうすると、瞑想や祈りが様々な効果、たとえば安らぎや癒しや自由といったものを生むように、哲学対話もまた同じように、対話における自由な発言や安心感や癒しといった効果を生みだすのです。これは非常に不思議なことですが、確かにそうであることを認めざるを得ないと思います。

無知の自覚

これまでのところを逆の側面から理解してもらうことが、特に大人の人々が行う対話には必要です。また、これこそが、西洋哲学の最も中心的な知恵であるとしばしば言われる、無知の自覚に根差すものです。例えば、

Q:なぜ嘘をついてはいけないのでしょうか?
A:いや私は嘘をつくことも必要だと思いますよ。

のような問答は普段の生活の中では非常にしばしば見られます。しかし、厳密な言葉遣いに即せば、問いに対する答えが成り立っているとは言えない。その意味で、先の例示したやり取りは、厳密には問答ではない。対話をしているはずなのに、幾度となく言葉遣いを疎かにして、問答を行なっていないということを、逐一意識し、気付く訓練こそが、対話であるといえます。

対話では「なぜ?」と問われれば「なぜならかくかくしかじかだから」と答えなければならない。それが厳密な問答であり、純粋な対話です。「いや私は…」は、問いでもなく答えでもない。にもかかわらず、知らず知らずのうちに言ってしまったり思ってしまったりしている。「知らず知らずのうちに」していることを惰性のなすがままにしておかないで、他人の指摘を受け入れたり自分で反省したりすることを通じて気付かなければなりません。「問いと答えとは関係のないものが生じて来た」と気付かねばなりません。

もっといえば、問いをはぐらかしたり答えることから逃げようとしていたことを悟るべきであるということです。これが対話における無知の自覚です。哲学の根本に関わりソクラテスにまで遡る無知の自覚はこのようにして対話で実践されるべきなのです。

他にも対話について紹介すべきことはたくさんありますが、おおよそこうした哲学に基づいて、私たちは、対話の活動を実践しています。

* こうした対話についての私たちの哲学をあらかじめ知っておく必要はありません。新宿哲学カフェや哲学対話イベントへはお気軽に参加ください。

新宿哲学カフェ

初めての人のための哲学カフェ。哲学や対話が存在することを知っていただければと思います。

哲学対話イベント

標準的な哲学対話のイベント。知的セーフティと緊張が、探究の共同体としての連帯を高めます。

レンタル哲学対話

目的に応じてカスタマイズできる哲学対話。企業や教育機関の研修などにご利用いただけます。

営業している同業者の皆様、並びに、開業される同業者の皆様にお伝えしたいことがございます。

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