ここ最近は大学や高校の友人たち(少ないながらそういう人々が私にもいるということは常々思うが驚くべきことだ)に会うことがあった。 風の噂なのかなんなのか、私が哲学に首を突っ込んでだいぶおかしなことになっていることを彼らは知っているらしい。みんなが集まれば各々が最近やっていることや仕事の話を報告しあって、思い思いに気になることを尋ねてみる、という場面が必ずあるみたいである。上司のこととか家庭のこととか。そういうわけで私の順番が、何となく回ってきたので仕事か家族の話でもすればいいのかなと思い、子どものことでも話そうと思いを巡らしていたら、「そう言えば哲学とかやってたよな。大学に行ったり塾に行ったりしてんだろ?で、結局、哲学って何すんの?」ときた。ほう、これは面白いと思って、 「簡単な話が、真理を求めるってことだね。その一言に尽きると言ってもいい。」 と言った。 「何、真理って?」...
レビュー 『ゼロからはじめる哲学対話 哲学プラクティスハンドブック』
哲学プラクティスについて何か知りたいなら、しのごのいわず本著を手にとるべきである。 正直なところ全体的な感想を言うのはかなり難しい。というのも多くの執筆者によって書かれ、多岐にわたる実践の指南書であるために、一部は玉石混交だからである。一つの読み物と言うよりは、哲学プラクティスの辞書だと思って、調べたいことがあったら該当箇所を読んでみるというふうに使うのがいいのではないだろうか。それが手引き(ハンドブック)として用いるべき本の役目であろうから。 さて、私の印象に残ったもので、おそらくは多くの人にはあまり注目されることがないであろう4つの点に短く触れておくことにしよう。一つは、対話の「記録の仕方」3章4(p142)、二つ目は「知っておきたい哲学のテーマの概説」4章(p197)、三つ目は、「付録:倫理基準」5章4(p336)「付録:オンラインによる哲学プラクティス」5章5(p344)。...
日本語で書かれた哲学対話の8つの必読本から考える、現代日本の哲学対話のまとめと歴史
対話への誘い 2
承前 対話への誘い 批判したり同調したりするだけでなく、遠近を正確に見極めること 発表の題材はアキナスの「他者への無限責任」です。実は私は「他者への理解が根底の所で閉ざされているのは何故なのか。それにも関わらずどうしてそのような他者に対して責任を私が負わねばならないのか。」という問いをもっています。そこを中心に議論・対話をしたいのです。というのも、私のこれまでの経験や性格から思うところがあり、やはり「他者」というものは考えれば考えるほど異様で、全く自分とは別の「意識存在」であり、無視することができず、何故かいつも自分に迫って来ている。そのような「絶対他者」の前で、自分はなすすべもなく、翻弄され、そしていかなる時でも「応答」をしなければいけない。これは一体どういうことなのか。…...
哲学対話は簡単か?
哲学や対話は、子どもにとっては簡単であるが、大人にとっては難解である。このことを言い続けているのだが、どうも伝わっていないのであり、それを伝えるのによい素材記事を見つけた。 家庭でできる哲学対話に挑戦したら……我が子の「実はこう思ってた」に驚いた! 上の記事を引用しながら、それに対してコメントすることで、よく理解してもらえよう。 1 哲学は難解でわたしたちの日常とは縁がないのはもっともである まず、“哲学”と聞いて何を思い浮かべますか? 「難解」「変わり者の学問」「実社会では役に立たない」「成績に結びつかない」……、このように、わたしたちの日常とはあまり縁がないように感じている方も多いのではないでしょうか。たしかに、大学で専門的に学ぶいわゆる“学問としての哲学”には、そのようなイメージがありますね。...
対話への誘い
夢でのメール 不思議な夢を見た。私は誰だか知らない哲学の師を慕っており、対話を在野で研究している。私の師は哲学教室アレクサンドリアを主宰しており、哲学の専門家たちが、どこか殺伐とした雰囲気のその教室で毎回講義を行なっている。あまり議論や対話の場は設けられないことに、私は何も疑問を感じていない。 私はその生徒に過ぎないというのに、師はある日、哲学を志す或る新入りの生徒「根尾井さん」に対し、私に哲学対話について尋ねるように言ったという。そういうわけで私は根尾井さんから、哲学教室アレクサンドリアで哲学の発表し、対話をするにはどうしたらいいのか、という相談のメールをもらった。私は師を忖度することもせず、そのメールに返信をしたという夢であった。 夢であったとはいえ、考えてみたところそれが現実であったとしてもおかしくはない。そこで、そのメールへの返答を、以下に記しておくことにする。...
『ウソつきの構造』からの考察 哲学対話のルールに則るだけなのはウソつき?
ルールに則るだけの哲学対話はウソつきの哲学対話か? 中島義道『ウソつきの構造』を哲学対話という観点から考察するならば、二つの観点①ルールに則るだけの哲学対話②子どものウソつきの習得が重要になるだろう。この書が哲学対話に対して提起しうる問いは、ルールに則るだけの哲学対話には如何程の価値があるか、であろう。 『ウソつきの構造』〜法と道徳のあいだ〜 中島義道 角川新書 2019年10月 哲学の領域に限っていえば、著者によって何度も繰り返し論じられているテーマが再び扱われている。参考は以下。 カントの「悪」論 (講談社学術文庫悪への自由: カント倫理学の深層文法真理のための闘争—中島義道の哲学課外授業 ...
フーコー『主体の解釈学』の対話のやり方(その二) 「我思うゆえに我在り」は自己の存在を意味しない
承前 (その一)「汝自身を知れ」は自己認識を意味しない B 省察は主体の思考に対する働きかけではない。思考の主体への働きかけである。 引用 p404 省察は誤解されている ここでひとつの概念が出てきます。この概念についてはいずれまたもう一度お話しするつもりですが、今日も少し立ち止まってみたいと思います。それは「省察(méditation)」という概念です。ラテン語のメディターティオ meditatio (その動詞形は meditari)はギリシア語の名詞のメレテーmelete の翻訳であり、その動詞形はメレターン meletan です。このメレテーやメレターンという語は、少なくとも十九世紀や二十世紀の人間が「省察」というときに考えるような意味をまったく持っていませんでした。メレターンとは訓練のことです。それは、「訓練する」とか「熟練する」といった[意味を持つ]ギュムナゼイン...
フーコー『主体の解釈学』の対話のやり方(その三) 読書は作者が言いたかったことを理解することではない。
フーコー『主体の解釈学』の対話のやり方(その四) ソクラテスの弁明からの引用
承前 (その一)「汝自身を知れ」は自己認識を意味しない 承前 (その二) 「我思うゆえに我在り」は自己の存在を意味しない 承前 (その三) 読書は作者が言いたかったことを理解することではない。 まとめにかえて 哲学対話の観点に限定しても、600ページを超える『主体の解釈学』はあまりに内容豊かであり、私には到底まとめるなどということができません。いや、まとめるなどということはわかった気にさせるという観点から、避けられねばならないでしょう。ほとんどの人が、まとめられないばかりによく分からず、そのよく分からなさに忍耐強くならないで、考えることを放棄するわけですが、それこそが、ここで糾弾されるべき当のことではないかと思われます。汝自身を知ることも、省察も、書くことや読むことも、ひと時どころか一日一夕には成らない訓練だということが、ここでは言われ続けていたことなのだからです。...