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カント『プロレゴーメナ』より、笑える一節

プロレゴーメナ・人倫の形而上学の基礎づけ (中公クラシックス)   カント

pp8-9

 形而上学が学問であるなら、形而上学が他の諸学問のようには全般的持続的な承認を得られないといったことがどうして起こるのだろうか。また、形而上学が学問でないのなら、形而上学が学問であるかのようなふりをして、たえず気取った様子を示し、人間の悟性を欺いてけっして消えることのない、それでいて満たされることのない希望をいだかせるといったことがどうして生じるのか。そこで、われわれにとっては、自分の知を論証することになるにせよ無知を論証する ことになるにせよ、ともかく一度、この学問と自称しているものの本性について何か確かなことが見定められねばならない。それというのも、形而上学はもはやこれ以上同じ状態に止まるのは不可能だからである。ほかのどの学問もたえず進歩しているのに、知恵そのものでありたいと望み、人間だれもがそのお告げをたずねるこの形而上学では一歩も前進せず、いつになっても同じ場所を廻っているのは笑われても仕方がないように思える。実際また、形而上学はその傾倒者のきわめて多くを失っているのである。そして、ほかの学問で異彩を放つだけの十分の力量があると感じている人々があえてこの形而上学で名声を得ようとするのをわれわれは見かけない。ところが、この形而上学では、ほかのすべてのことには無知な人がだれでもはばからず決定的な判断なるものを下している。それは、この(形而上学という)国には実際のところ、根本にまでさかのぼる思考を浅薄な雑談から区別する確かな度量衡がまだないからである。 
 しかしながら、ひとつの学問が長いあいだ研究を重ねられたすえに、その学問においてすでに どれほど進歩が成しとげられたことかと人々が驚いているときに、やがてだれかが、一般にそのような学問は可能なのかどうか、また、いかにして可能なのか、という問いを思いつくというのはさほど珍しいことではない。それというのも、人間の理性は建築熱心で、なんども塔を建て終わっては、その土台がどんな具合になっているかを調べるために、あとでまた取り壊してしまう ほどなのである。理性的で聡明になるのにけっして遅すぎることはない。ただ、洞察が遅れると それだけ洞察を働かせるのはつねに困難になる。
 ひとつの学問がそもそも可能かどうかを問うことは、その学問の実在を疑うことを前提してい る。ところが、そういう疑いは、全所有物がおそらくこの宝物と思い込んでいるものであるかも しれないようなすべての人たちの気持を損わせる。だから、こうした疑いを口にもらす人はあら ゆる方面からの反対をしっかり覚悟しておくほうがよい。或る人たちは、自分たちの古い、まさ にそのために正当と見なされる所有を誇らしげに意識して、彼らの形而上学の摘要を手に持ち、疑いをもらす人を軽蔑して見下すであろう。またほかの人たちは、何にしても、すでにどこかで見たものと同じものしか見ないので、彼の疑いを理解しないであろう。こうして、しばらくは近い将来の変化を気づかわせるか、あるいは期待させるような何ごともおこならないかのように、万事があり続けるであろう。

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Y先生には「君には言いたいことが何かあるのは分かるけれど、それが何であるのか分からない」と言われ、H先生には「何かの本質をつかんでいるとは思うけど、それが何かってことだよね」と言われたと話すと「それはそのままthe third manさんのキャッチフレーズになりますね」と。

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