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E ジルソン『中世哲学の精神』第14章愛とその対象 無私無欲な愛は一般に不可能であるということは、絶対に確実であるのか?

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http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480012050/ より抜粋

p98

 この問題を解決するためにまず第一に明らかにせねばならぬ点は、愛の概念そのものにかかわるものである。無私無欲な愛は一般に不可能であるということは、絶対に確実であるのか。それとは反対に、真の愛であるためには、愛はすべて無私無欲であるというほうが真なのではないか。われわれに愛という語の真の語の意味をおおいかくすのは、われわれがつねに多かれ少なかれ愛を純粋で単純な欲望と混同することである。さて、われわれの欲望のほとんどすべてが利害にかかわるものであることは明らかであるが、しかしわれわれが或るものをわれわれ自身のためにのぞむとき、われわれはそのものを愛するというなら、そういう言い方は正しくない。そのような場合に、われわれが愛するのは、自分自身であって、われわれが他のものを愛するのは、ただ自分自身のためのみである。それゆえ、愛するということは、それとはまったく異なっている。愛するということは、或る対象をそのもののために欲することであり、対象の美と善とを、対象以外の何ものにもかかわりなく、美と善とのために楽しむことである。

 このような考え方は、功利説と静寂説という、相対立する行き過ぎから同じようにかけ離れている。愛は、報いを求めて愛するのではないのであって、それというのは、そうであるとすると、愛は、そのこと自体によって愛ではなくなるからである。しかしながら、愛には、その対象の所有によって与えられる喜びを断念して愛せよと要求してはならぬのであって、それというのは、その喜びは愛と本質とを同じくするからである。愛は、それに伴う喜びを断念すると、もはや愛でなくなることに甘んじるのである。それゆえ、真の愛はすべて、無私無欲であると同時に報われるものである。なおそのうえに、愛は、無私無欲であるーーー無私無欲であることは愛の本質そのものであるから、ーーーのでなければ、報われないというべきである。愛において愛以外の他のものを求める者は、愛とそれが与える喜びとを同時に失うのである。それゆえ、愛は、何の報酬も求めないのでなければ、存在しないわけであるが、報われるためには、ただ存在しさえすれば、十分である。それゆえ、無私無欲であると同時に報われる愛という概念は、矛盾を含まない。それどころかその反対である。とはいうものの、われわれを妨げていた困難はまだ除去されたわけではない。人間は、自分自身を忘れて神を愛することができるなら、神を無私無欲の愛をもって愛することができるかもしれない。しかしながら、人間は自分自身を忘れることができるかという問題、いいかえると、人間はまず自分自身の必要とするものをみたさねばならぬのに、自分自身をまったく神にささげるために、自分自身からまったく離れ去ることは可能であるか問いう問題はなお未解決である。

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Y先生には「君には言いたいことが何かあるのは分かるけれど、それが何であるのか分からない」と言われ、H先生には「何かの本質をつかんでいるとは思うけど、それが何かってことだよね」と言われたと話すと「それはそのままthe third manさんのキャッチフレーズになりますね」と。

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