公平を標榜して党派に傍観者的であることは実は無意識的ながら一つの党派性を形成することで、それが無意識であるだけに一層度しがたい人間の壁を形づくる。むしろ歴史的な現実にあっては哲学もまた人間共同の社会的営為として党派性を免れがたいことを充分意識した上で、党派と党派との間に哲学的対話を形成すべきであろう。イデオロギーは互いに排他的にそれのみを信奉する独断性の要求からいつかは聖戦思想にゆきつくことが多いが、むしろそれならばこそかえって一層対話的に共存することが要求されている。哲学者のとりくむ問題性は実はイデオロギーないし「思想」の問題性以外のものでないから、哲学者はむしろ自ら意識して党派性を取り、問題性の中に体系を見出す「方法」の精神に則って辛抱強くこの党派そのものを対話に持ち込む用意がなくてなるまい。ソクラテスは明らかに誤解されたが、実は哲学者の誤解されてはならぬ「喜劇精神」がここにある。信念的独断的な党派を自らの哲学として心ゆくまで展開し、展開しきったところでそれを他党派との相対的対話に持ち込むこと、ここに絶対の相対化としての「諧謔」がある。けだし党派の伝統を真に自己のものと主体化し、それに独自の発展を齎すもののみが、対話の姿勢に移行できるのである。要するに喜劇精神とは偏していることの効用をしった上で自ら偏することを敢えて企図する、充分に意識された党派心であり、それは自らの公平とする無意識の党派心から生じてくる聖戦思想とはおよそうらはらである。無意識の党派心こそ無党派の意識と同様甚だ危険であり、度しがたきものである。
『存在論の諸問題』松本正夫
昭和42年 第一刷 ⅷ