明るい秘密ということがある。通常、秘密は暗いものと考えられているが、それはひとが公にできない、他人に知られたくない事実を隠しているからである。隠されている秘密の事実は、それが事実として皆の前に明らかにされる なら、直ちに誰にでも明白な事実として隠れる術もなく白日のもとに露呈されるであろう。けれども明るい秘密とい うのは、事実としてはなんら隠れるところもなく公共の地平に晒され隈なく露呈されていながら、目の前にある事柄 に人びとが気がつかない、といういみでの秘密である。
哲学が本来明るい秘密の探究であったことは、プラトン『ソピスト』254a8-10 「(ソピストがその棲む場所の暗さのゆえに捉え難いのに対して) 哲学者の方は、ほんとうに有るものをいつも言葉の働きを通して見てゆく側に身を寄せているので、今度はその場所の明るさゆえに、見極めることが決して容易ではない」参照。またヘラクレイトス『断片』1「(根拠を証す) 言葉は (いまここに、わたしが語り明かす通りに)いつでもこれとして有るのに、人びとは初めてそれを聞いた後も、聞く前と同様に、ちっとも理解しないままになっている。……(わたしはことを分けて話しているのに)ほかの人びとは、自分たちが眠りながら何をしたのか覚えていないと同様に、目を醒ましていながらも何をしているのか蛇っていない」も参照(1)。 早い話が、ソクラテスやキリストが現にわれわれの傍らに立ったとしても、ドストエフスキーの「大都問官たち」(『カラマゾフの兄弟』)と同様にわれわれには目の前のこの人が何であるか、どう取り扱ったらよいか、判断を絶するで あろう。しかし明るい秘密はなにもこうしたショッキングな例外の場合だけではない。これらの例でも、秘密をもたらしたのは、この人の人物としての特異性の問題よりも(むろん特異性の問題もそれはそれで論じられねばならない にしても)、むしろこの人が〈わたし〉にとって他人である、という、しごく当たり前の、どの個人に対してでも成立している関係なのである。
モイラ言語 井上忠 p 77 https://www.amazon.co.jp/dp/4130100548/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_OWLlFb7B4FNKX