承前
目次
批判したり同調したりするだけでなく、遠近を正確に見極めること
発表の題材はアキナスの「他者への無限責任」です。実は私は「他者への理解が根底の所で閉ざされているのは何故なのか。それにも関わらずどうしてそのような他者に対して責任を私が負わねばならないのか。」という問いをもっています。そこを中心に議論・対話をしたいのです。
というのも、私のこれまでの経験や性格から思うところがあり、やはり「他者」というものは考えれば考えるほど異様で、全く自分とは別の「意識存在」であり、無視することができず、何故かいつも自分に迫って来ている。そのような「絶対他者」の前で、自分はなすすべもなく、翻弄され、そしていかなる時でも「応答」をしなければいけない。これは一体どういうことなのか。…
助言をさせていただくなどおこがましい限りなのですが、以上の二つの段落で述べられようとしたことを、より一層明確に言語化して問いを提出できれば、大変素晴らしい対話ができるでしょう。そのうえで、私を含む参加者に、自分の問いを言葉を尽くして説明するのに、一つの問いに絞ることができれば、哲学的にとても有益になることと私は信じています。
「一層明確に言語化して問いを提出できれば」について付け加えます。他の参加者も、私も、ぜひとも聞きたいと思うのは次のことであるはずです。それは根尾井さんが「アキナスが言っていることと違う」と断定し批判したり、アキナスに同調して自分の問いを提出したりすることで終わることなく、アキナスが言っていることを気にかけながら、アキナスと自分の問いはどれほど近くて遠いのかを測定しようとしているか、ということです。アキナスの主張や用語を習得するのは凡庸な一般人には難しく、哲学書を読めるようになっただけで哲学をしているつもりになる愚かな知者たちはたくさんいますが、そんなのは愚の骨頂です。確かに、哲学を始めたばかりの頃は哲学書や哲学説を理解するのに手一杯であるとしても、自分で哲学をし続けるためには、それらの用語や論理に習熟するのは単なる手段の獲得に過ぎないのであって、それをもって、自分の問いを表現できるようにならねばなりません。自分の問いを表現できるようになって、ようやく道の半ばというくらいです。そのことはぜひ知っておいてもらいたい。自分の問いを表現したあとでも、まだまだ長い道を歩まねばなりませんが、哲学まがいの思想や哲学研究にならないためには、はじめから自分の問いを忘れない訓練をしなければなりません。このことを、私は、何度でも強調します。逆に言えば、たとえ哲学を初めに志したとしても、実に多くの人がその道中で自分固有の問いを忘れ脇道に逸れた挙句戻ってくることがない。私もまたその一人とならないよう、常に精進しているところです。
知的安全性(セーフティ)に対する正しい理解
林さんの言われたことから、最も大切であろうと感じたのは、議論が白熱したときに、信念や問いを貫き通したことがない私の自信のなさからくる「恐怖」が「相手に議論で勝とう」「ここは誤魔化しておこう」というものに容易に移行しないように、「私の問いは誤解されていないだろうか」と常に気に留めておくことを怠らないようにする、ということでした。
「他者に理解されない」ということは「恐怖」に直結するのではなく、逆に自分の問いを忌憚なくぶつけることができるために問いを再考できる「安心」ともなりうる。そのように林さんの言っていることを理解しました。実践できるようになるにはとても時間がかかりそうですけれど。とはいえ、そのように考えると「信念」をもって「自分の問い」にこだわることができそうな気もします。
この箇所を私が読む限り、根尾井さんは、哲学対話や哲学実践の分野でしばしば問題となる「知的安全性(インテレクチュアル・セーフティ)」について正しく理解している数少ない人の一人のように思われ、私は非常に嬉しく感じました。というのも哲学対話における「知的安全性」は哲学カフェなどを主催したり参加したりしている多くの人々に無自覚に誤解され続け、もはや手のつけられないことになっているからです。相手を否定せずに優しく問いかけるのが哲学対話であるというようなイメージは、こうした誤解の深さと広さを示すものです。
哲学の問いが論理と直知を通じてある特殊な理性にしか宿らないのは何故か
ディスコミュニケーションが起こる理由として、「哲学の問いが論理と直知を通じてある特殊な理性にしか宿らないことにある、というものです。」とおっしゃってましたが、ここの意味をもう少し詳しく教えていただけますでしょうか。
誤解を恐れても言わねばならないのは、次のことかもしれません。
まず、哲学の問いが論理を通じて理性に宿る、というのは容易に理解されるのではないでしょうか。一見何らの具体性も伴わない抽象的な言語を用いながら、こと細かに事象を描写したりあらゆる反論に対して詳細に批判や検討をしながら再反論したり、といったことを通じて哲学の問いは理解される。つまり緻密な言語と論理でもって問いを表現するという、言語や論の運びに対する執念深さがないと哲学の問いは実らない。たとえば「死とは何か?」という同じ問いを、文学では詩的比喩を用いて、宗教では救済を求める信仰心でもって、表現するわけですが、哲学はそのどれとも違って、厳密な思考によってあらゆる可能性を尽くして検討し議論する。文学も宗教も同じように理性は必要でしょうが、哲学に用いられる理性は抽象的でありながらも緻密で厳格という点が特殊なのです。
しかしながら、厳密な論理でもって理詰めで誰にでも分かってもらえるのが哲学的問いなのかと言えば、最終的にはそうではない。哲学の問いはまことに驚きから始まり、終わりには言語を絶する謎が待っているからです。ここでも再び「死とは何か」との問いを取り上げると、その問いを問う哲学者にとっては、子どものときから片時も頭を離れず身に染み付いたものであって直に知っているもので、それにはいかなる理詰めの説得など必要ありません。さらに、死を言語によって知り尽くしたとしても死の間際まで死が真に何であるかは謎であることなど始めから知っている。これが哲学の問いが直知(nous)を通じて理性に宿る、ということで私が言わんとしたことです。このように、有無を言わさぬ驚くべき謎を捉えて離さない理性が、特殊であるのはいうまでもないことでしょう。
理詰めで考えることに慣れた人、たとえば科学者が、ディスコミュニケーションがなぜ起こるのかを理解するには、哲学の問いが驚きから始まるというのを知らねばなりません。逆に芸術家や宗教家のように直観の強い人は、哲学の問いが言語と論理によってはじめて正確にとらえうることを知ってもらう必要があるでしょう。この二つを哲学の問いに対する論理的理解と直観的理解と言うことができるでしょうが、哲学の問いを持つにはどちらか一つだけではダメで、だからといってどちらとも揃えているだけで済むというでもなく、二つを合わせ持ちながら精確に使い分けることができなければならない。そのような能力を生得的に持ち合わせていることが稀であるのは想像に難くないでしょうが、さらにその上、その能力を常に発揮し続ける実践を怠ってはならない。とすれば、このことがある特殊な理性にしか起こらないのは想像に難くないのではないでしょうか。
ディスコミュニケーションが起こる原因の一つは、議題に挙がっている哲学的問いに対して、先に述べた二つの理解が交錯することにあることは分かってもらえるのではないかと思います。つまり、ある人に対しては直観的理解が必要なのに論理的理解を促す説明を与えてしまっている。あるいは、論理的理解を欲している人に対して直観的理解を与える事例を示す。このような交錯が起こってはいるのですが、その交錯を見極めるに際して再び直感的理解と論理的理解とが生じているので、安易に着地点を求めたり、妥協したりしてはいけない、というわけです。
おっと、ほんの一文を説明するのに回りくどい説明を与えていることに今更気づきました。こうした饒舌は非難さるべきもので、お返事をするのに遅くなる理由にもなってしまっていたのでした。その点を反省しつつ、まずは上のように述べることでお返事をとりあえずは差し上げたいと思います。