哲学や対話は、子どもにとっては簡単であるが、大人にとっては難解である。このことを言い続けているのだが、どうも伝わっていないのであり、それを伝えるのによい素材記事を見つけた。
上の記事を引用しながら、それに対してコメントすることで、よく理解してもらえよう。
目次
1 哲学は難解でわたしたちの日常とは縁がないのはもっともである
まず、“哲学”と聞いて何を思い浮かべますか? 「難解」「変わり者の学問」「実社会では役に立たない」「成績に結びつかない」……、このように、わたしたちの日常とはあまり縁がないように感じている方も多いのではないでしょうか。たしかに、大学で専門的に学ぶいわゆる“学問としての哲学”には、そのようなイメージがありますね。
https://kodomo-manabi-labo.net/kodomo-tetsugaku
「哲学は難解」であるというイメージは全く間違っていない。全く正しい。これに対して、「哲学対話」は、簡単だとか容易だとかいうイメージをもっている人は、自分のイメージを改めた方がよい。哲学対話は、哲学と同じくらい難しい。
さて、引用で言われているように、哲学は「わたしたちの日常とはあまり縁がない」のも本当だ。ここで問わなければならないのは、なぜこの「難しい」というイメージを払拭して人々にとって簡単で分かりやすいものとされた哲学が、子どもでもできるとか誰でもできるとかいうふうに言われるのか、である。しかも、それがどうして常日頃から言われるようになったのか、である。
子どもが、「変わり者の学問」をじつはしており、「難解」なことを考えており、わたしたちの日常とはほとんど縁のない世界に住んでいる、とある。それは何か悪いことだろうか。子どもの哲学とはそういうものだというのが、どうしていけないのか。
子どもは変わり者の哲学ができるし、難解な哲学もできるのだ。この価値は計り知れない。にもかかわらず、その価値が認められないまま、哲学は簡単だとかいう言説が広まってしまうことに、何か不穏なものを感じないだろうか。
この種の、子どもの哲学や哲学対話の大バーゲンには強烈な違和感を覚えるのは私だけか?
偽物や訳あり商品や型落ちモデルや中古品が安売りされているというのではなくて、純正の正規品が、ただ同然で売りに出されているのだ。本物のダイヤモンドが百円ショップに並べられ、本当に百円で売られているようなものなのだ。凡人にはそれが盗品であることはわからないかもしれないが、見る人が見たら、もうこれは大事件なのだ。
先日指摘したことは、以上のことと全く無関係ではない。何の反省もなく、つい「よいこと」が語られ始めてしまうのだ。そのことについて、警戒心のない人が多すぎるので、怒ってでも伝えようという気にならざるをえない。
2 哲学はシンプルだから難しい
しかし、ここでご紹介する『こども哲学』は、哲学対話と呼ばれる対話活動を意味します。それは決して難しいことではなく、いくつかのシンプルなルールを守っていれば、「どんな発言もOK」といった自由なものです。
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いくつかのシンプルなルールを守ることは相当難しい。それがどこにも言われていないのはどうしてなのだろうか。「決して難しいことではなく」と言われているが、私なら、「決して簡単なことではなく」と注意を促すところである。
そして、「どんな発言もOK」とは私は決して言わないだろう。「本当のことを言おうとしたものなら、どんな発言もOK」というふうに言うであろう。どんな発言もOKなら嘘の発言もOKということになろう。そうではないとしたら、やはりその条件の方を強調すべきであるのに、人聞きのよい「どんな発言もOK」ばかりが取り上げられている。このようなことは、哲学対話のもたらす弊害になりうることがいい加減に周知されてもよい。
3 哲学対話はディベートの根拠を問う
哲学対話では、ディベートのように相手を言い負かすのではなく、いろいろな考えを認めることを重視します。そして、対話を深めるためにも「みんな考えが違って面白いね」で終わらず、相手の意見でわからないところがあれば「どうして? どんなときにそう思うの?」など、どんどん質問しましょう。
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ディベートのように相手を言い負かすのではなく、と言われているが、言い負かすとか言い負かさないとかいうのがどういうことであるのかを、よく考える必要がある。言い負かそうとしているのか、言い負かそうとしていないのか、を問い返し、よく考えることができるというのが、哲学対話がこの上なく力を発揮するところなのだ。
哲学的議論はディベートによっては打ち負かされないし、だからといって打ち勝つようなものでもない。そのことを知らないで、相手を打ち負かさないでくださいとか打ち勝とうとしてはだめだとか言っても仕方がない。真に哲学対話であるならばこそ、相手を打ち負かそうとしたっり勝とうとしたりすれば、なぜそのようなことになったのかを問いうるはずである。
哲学対話はディベートと相容れないものなのではなくて、むしろディベートの根本を問いたずねるという点で異なる。つまり徹底的に根拠を問い尋ねる。徹底的に根拠を問い求めるというポイントを見逃したまま、相手に勝とうとしてはいけないとか言ってしまったら、哲学対話は骨抜きにされてしまうだろう。
4 大人が”受け止める“の発想が間違っている
まず、『こども哲学』の入り口は“受け止めること”です。子どもが言っていること、やっていることの奥にある、本当に伝えようとしていることは何かな? どうしてその表現になったのかな? ということに、保護者が思いを巡らせましょう。
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確かにその通りかもしれない。けれども、「受け止める」ということが保護者(大人)に本当にできるだろうか。私の経験からしても、他の対話の実践者から聞くところによっても、ほとんどの大人は子どもの言うことをじっとして聞いていることさえできない。子どもが言っていることを受け止めるのは、全然簡単ではないのだ。じっとしていない子どもをじっと聞くのは、大人には耐え難いことなのである。「じっとしていなさい」とは、子どもどころか大人にももっとよく響かねばならない言葉であると、哲学対話をするにつれ痛感することであろう。むしろ大人の方の鈍重な理解力を、新鮮な洞察を繰り出し続ける子供の方に受け止めてもらわねばならないのだ。
そして、「子どもが言っていること、やっていることの奥にある」の「奥にある」ことに大人は思いを巡らしてはならない。子どもが言っていることそのことを、たとえば言い間違いや独特の言い回しを十分に堪能するべきだ。。「言っていること、やっていること」そのものをよく観察する必要があるのであり、その奥に思いを巡らそうなどとはしなくてよい。「子どもが言っていること、やっていること」を大人は普段全然見ていないのである。そのことに気付くことが優先されねばならない。それはとりもなおさず、大人の無知の自覚である。それが何よりも優先されるべきだろう。
5 大人は意外と物事を全然考えていない
哲学対話は、今すぐにでも始められるとても簡単なコミュニケーションです。子どもは意外と物事をしっかりと考えているものです。対話を進めていくうちに、「本当はこんな風に考えていたの!?」と驚かされることになるでしょう。ぜひ親子で挑戦してみてくださいね。
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ここまで何度も述べてきたことから、大人にとっては、「哲学対話は、今すぐにでも始められるとても簡単なコミュニケーション」だというのは全くの間違いであり、大嘘であることは、よく分かってもらえたことであろう。大人にとってと子どもにとってとでは、哲学対話は難易度が全く逆の、不思議なものなのだ。
子どもにとっては確かに、哲学対話は簡単である。けれども、大人にとっては全くそうではない。書かれているルールを守るだけでも大変難しいのだから。その難しさも自覚せずに、「今すぐにでも」できると思ってしまう大人は、哲学対話にとって有害である。これこそまずもって改善されるべきだ。
「子どもは意外と物事をしっかりと考えているもの」という大人目線の無自覚な断定を、いい加減に改めなければならない。出会うこと全てが新しく何も慣れていない子どもこそは物事を考えざるを得ない状況に置かれているのであり、反対に大人は、因習や惰性に任せて「意外にも」物事を全然考えてなんかいないのである。考えていると思っているだけなのだから。だから、大人は「こんなことも考えていなかったのか」と驚くはずである。「子どもが意外にも云々」などと思っている限りは決してセイフティと言っているもので実現したいものが到来することにはならないということはよく知るべきである。