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忙しさの中で小さな精神の訓練をすること

 ところで、探究のために文章を書いていて、ふと浮かんできたことを逃さないように書いておこうと思う。それは休む間もない労働の中で、会議だの報告だの文書作成だの投資契約だので、人々に分かるような表現の仕方を与えることを常に強いられるために心に浮かんできたものだ。それは、人に分かってもらえそうにないことを、書かずに排除しようとしたことだ。書いてしまうとややこしくなり、人々はそのような難しいことを時間をかけて考えはしないために、そうした表現をしないで分かるように、分かる範囲のうちで、正確さや微細さを軽視しながら、それとなく、人々がわかった気になりそうな言い回しや説明の順番を与える。労働する環境ではそのような表現を強いられる。そして、わかりにくく、曖昧で、微妙で、時間をかけて考えることを、表現のうちから除去するように強制される。

 私にさえ、そのような労働からくる強制が、哲学をしようとしているこの際にも、何かしらの影響を与えようとすることに、今気づくことができて本当によかったと思っている。この小さなことに気付かず、これが知らない間に習慣化してしまったら、きっと哲学が全くできなくなる。哲学どころか、およそものを本来の意味で「考える」ことさえできなくなる。自分ではじめから考える、ということができなくなる。ただただ、求めに応じるために考えさせられているに過ぎないことを、「考える」と勘違いしてしまうだろう。

 ものを考えようとするなら、人に分かってもらえるかどうかなどはまず度外視しなければならない。そんなことをはじめに考えるべきではないのだ。人に分かってもらえるかどうかは問題ではない。だからといって人に分かってもらえるような表現を与えるとか、人に分かってもらえるよう説明するとかいうことを全くしなくてよい、というわけではない。人に分かってもらえる努力をすることは必要なことかもしれない。だが、人に分かってもらえないことを、はじめから切り捨て表現しようとしなくなると、哲学の息吹は絶えてしまうだろう。それだけで、実は問いの芽は摘まれてしまうのだ。ほんの少しの不思議なことを、人生をかけて問い求めなければならないのだ。それを人に分かってもらえない、という理由だけで除去してしまっては絶対にいけない。その小さな少しの細かい疑問は、実はアルキメデスの点なのだから。

 人に分かってもらえそうにない、ということを理由に表現を与えようとしなかったこと、それをこのように反省して見逃さないようにすれば、十分であろう。だが、恐ろしいと十分に自覚しなければならないのは、今のようにふと心に浮かんだ小さなことを、小さなことだからというのでそれほど気にせず、注意を支払わず、何の気無しになおざりにしてしまうことだ。なおざりにしてしまって反省しないのが二度も三度も続けば十分に、悪しき習慣が身につくのは必須であろう。しかしながら、以上の述べたすべてのことが、全く持って些細なことであるために、ほんの一握りの人に、ほんのわずかの間にしか、顧みられることがないのである。

 ほんの小さなことだが、これこそは、卑しき労働しているその時間のうちでも、同時に哲学をしていく方法の一つと言ってよいのではないか。私は、労働を強いられた状況を受け入れもせず拒みもせず、その状況を自らを試練にかけるためだと自らに言い聞かせている。仕事をしながら同時に哲学できるかどうかを問うための実験だと思い込もうとしている。そのとき、では、何をすればよいのか。具体的に、何をすればいいのか。それが、以上のように、ほんの小さな精神の訓練をすることだと今は答えたいのだ。

 この小さな精神の訓練と今呼んでみたものが、実は哲学者たちにも仏教徒たちにも説かれてきたものであるに違いない、と私は信じている。もちろんそんなこととは知らずに幼い頃から修行だとも遊びだとも思って私はやってきたのだが、テオリアやメディタチオやヴィパッサナーとか言われるものを聞いたとき、私は何か同じようなものを感じ取った気がしたが、さて、それが本当なのかどうか、まだ分からない。

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thethirdman

Y先生には「君には言いたいことが何かあるのは分かるけれど、それが何であるのか分からない」と言われ、H先生には「何かの本質をつかんでいるとは思うけど、それが何かってことだよね」と言われたと話すと「それはそのままthe third manさんのキャッチフレーズになりますね」と。

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