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フーコー『主体の解釈学』の対話のやり方(その四) ソクラテスの弁明からの引用

承前 (その一)「汝自身を知れ」は自己認識を意味しない

承前 (その二) 「我思うゆえに我在り」は自己の存在を意味しない

承前 (その三) 読書は作者が言いたかったことを理解することではない。

まとめにかえて

 哲学対話の観点に限定しても、600ページを超える『主体の解釈学』はあまりに内容豊かであり、私には到底まとめるなどということができません。いや、まとめるなどということはわかった気にさせるという観点から、避けられねばならないでしょう。ほとんどの人が、まとめられないばかりによく分からず、そのよく分からなさに忍耐強くならないで、考えることを放棄するわけですが、それこそが、ここで糾弾されるべき当のことではないかと思われます。汝自身を知ることも、省察も、書くことや読むことも、ひと時どころか一日一夕には成らない訓練だということが、ここでは言われ続けていたことなのだからです。

 まとめにかえて、ソクラテスの弁明から引用します。

ソークラテースの弁明・クリトーン・パイドーン (新潮文庫)   プラトーン  田中美知太郎訳 新潮文庫

自己認識とは、自分の知っていることには何も価値がないと知ることである

23AーC、p22
しかし実際はおそらく、諸君よ、神だけが本当の知者なのかもしれない。そして人間の知恵というようなものは、何かもうまるで価値のないものなのだということを、この神託の中で、神は言おうとしているのかもしれません。そしてそれは、ここにいるこのソークラテースのことを言っているように見えるけれども、わたしの名前は、つけ足しに用いているだけのようだ。つまりわたしを一例にとって、人間たちよ、お前たちのうちで、いちばん知恵ある者というのは、誰でもソークラテースのように、自分は知恵に対しては、実際は何の値打ちもないものなのだということを知った者が、それなのだと、言おうとしているようなものなのです。だから、これがつまり、いまもなおわたしが、そこらを歩きまわって、この町の者でも、よその者でも、誰か知恵のある者だと思えば、神の指図に従って、これを探して、調べあげているわけなのだ。そして知恵があるとは思えない場合には、神の手助けをして、知者ではないぞということを、明らかにしているのです。そしてこの仕事が忙しいために、公私いずれのことも、これぞと言うほどのことを行う暇がなくて、ひどい貧乏をしているが、これも神に仕えるためだったのです。

ふさわしい刑罰は、迎賓館での食事である

36CーE、p55
 さて、ところで、この男はわたしに対して、死刑を求刑している。よろしい。それなら、これに対してわたしは、いかなる刑を申し出るべきだろうか。アテーナイ人諸君。無論、至当のそれでなければならない。では、それは何か。わたしは一生を、おとなしくしてはいなかったというので、何の刑を受け、何のつぐないをしたら、至当だということになるのだろうか。わたしはしかし、大多数の人たちとは異なり、銭を儲けるとか、家事をみるとか、あるいは、軍隊の指揮や民衆への呼びかけに活動するとか、その他にも、官職につくとか、また徒党を組んで、騒動を起こすとかいう、いまの国家社会に行われていることには、関心を持たなかったが、それはそういうことに入って行って、身を全うするのには、自分は本当のところ、善良すぎると考えたからなのだ。それで、そこへ入って行っても、あなた方のためにも、わたし自身のためにも、なんの利益もあるはずのないようなところへは、わたしは行かないで、最大の親切とわたしが自負するところのものを、そこへ行けば、各人に個人的につくすことになるような、そういうところへ赴いたのです。つまりあなたがた一人一人をつかまえて、自分自身が、できるだけすぐれた者となり、思慮ある者となるように気をつけて、自分にとっての付属物となるだけのものを、決してそれに優先して気づかうようなことをしてはならないし、また国家社会のことも、それに付属するだけのものを、そのもの自体よりも先にすることなく、その他のことも、これと同じ仕方で、気づかうようにと、説得することを試みていたのだ。すると、このようなことをしてきたわたしは、何を受けるのが至当なのだろうか。何かよいことをでなければならない。アテーナイ人諸君、もしも本当に、至当の評価を受くべきものだとすればです。しかもそれは、わたしに適当するような、そうした善いものでなければなりません。それなら、何が適当するだろうか。諸君に親切をつくしたその男は、貧乏人であり、しかもいま諸君を説き励ますのに、時間の余裕を必要としているのです。およそ、アテーナイ人諸君、この者がこのような事情にあるとすれば、市の迎賓館プリュタネイオンにおいて給食を受けるほど、適当なことはない。それはオリュムピアの競技で、諸君の誰かが、一頭もしくは二頭、四頭の馬で勝利を得た場合に、そうされるよりも、ずっと適切なことなのだ。なぜなら、その人は諸君を、ただ幸福だと思われるようにするだけだが、わたしは幸福であるようにしているのだから。しかも、馬を出場させるような人は、何も給食を必要としないけれども、わたしは必要とするのです。だから、わたしが正義に従って、至当の評価で自分の受けなければならぬものを申し出るべきだとするならば、これがわたしの申し出る科料だ。すなわち市の迎賓館における食事。

フーコー『主体の解釈学』の対話のやり方 (その一)「汝自身を知れ」は自己認識を意味しない

フーコー『主体の解釈学』の対話のやり方 (その二) 「我思うゆえに我在り」は自己の存在を意味しない

フーコー『主体の解釈学』の対話のやり方 (その三) 読書は作者が言いたかったことを理解することではない。

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