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哲学史を「阿呆の画廊か?」と問うたヘーゲルは、哲学対話を「阿呆のお喋りか?」と問いはしないか。

 以下は近代の哲学者でもっとも有名な人の一人であるヘーゲルの哲学史についての長い引用です。主人と奴隷の弁証法やアウフヘーベンなどと並んで、「阿呆の画廊」はヘーゲル語の中でもよく知られているもので、もはや哲学の常識の一つに数えてもいいくらいのものかもしれません。

 哲学史は阿呆の画廊か?これがヘーゲルが突きつけた問いであり、もちろんヘーゲル自身にとっての問いでもあったわけですが、哲学対話は阿保の画廊、あるいはもっと、阿呆のお喋り、ではないか。この問いを哲学対話は避けて通れないように思われます、哲学対話に真摯に取り組むならば。この問いに心当たりもないというのでは、哲学対話をもはやすでに何かのイデオロギーと取り違え、哲学対話についての対話と反省を拒否する熱狂的な哲学対話教徒だとしか、私の目には映りません。

 哲学史と哲学対話とは無縁のものというのは本当でしょうか。ヘーゲルが述べる哲学史を、あたかも哲学対話についてであるかのように読むことは難しくないと思います。立論、反論、綜合、というのが哲学史の弁証法的発展であるとすれば、対話が探究を前進させるその仕方が、弁証法的発展にまったく類比的でないとは、誰も言い切ることはできないでしょうから。 問いに答えてしまうことに慎重にならなければならないのはもちろんですが、ある人の真摯な問いを理解しないまま自分の問いへと歩を進めるのにも、同じぐらいの慎重さが必要な場合もあるでしょう。

 度々出てくる「歴史」や「哲学史」という言葉を適宜、いやそれどころか逐一「哲学対話」と置き換えながら読んでみてはどうでしょうか。

 そして、哲学対話では、なぜ人それぞれが意見を言うだけではダメで、真理を求めるのでなければならないのか、とヘーゲルとともに問うてみてはどうでしょうか。

 引用は、ヘーゲル『哲学史序論』武市健人訳 岩波文庫(1998年)pp53-67 からです。 

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a 意見の集積〔阿呆の画廊〕としての哲学史

 歴史というとき、すぐに考えられることは、それが諸々の時代、諸々の民族、諸々の個人の偶然的な出来事を物語るべきものとせられているということである。

一方では時間の順序から言って偶然的なものについてであり、また一方では、その内容上偶然的なものをである。時間の順序にかんする偶然性については後に述べる。そこで、まず我々が論じようとする概念は内容の偶然性である。すなわち偶然的な諸行為の概念である。しかし哲学がもつ内容は外面的な行為でもなければ、また情熱とか幸福とかの事件でもなく、まさに思想である。ところが偶然的な思想は意見(Meinungen)にほかならない。そうして哲学的意見とは、哲学の立入った各内容や哲学特有の対象、即ち神、自然、精神に関する意見を言う。

 そこで我々が早速お目にかかるのは、哲学史は即ち時間の中で出現し、時間の中で提示された、たくさんの哲学的意見を枚挙すべきだという、哲学史についての極めて通俗的な見解である。控えめに言うときは、こういうものは意見と呼ばれる。しかし、これにもう一つ突っ込んだ判断を下しうると考える人々は、哲学の歴史を阿呆の画廊(Gallerie von Narrheiten)とさえも呼ぶ。或いは少なくも、思惟と単なる概念とに専念する人間の昏迷の画廊と呼ぶのである。このような見解は、ただ哲学において自分の無知を公言するような連中から聞きうるのみではない。(彼らが無知を公言してはばからないのは、普通の考えでは、哲学とは何かということに関して判断を下すのに、この無知は障害とはならないと考えられているからである。ーーそれどころか、各人は哲学について何の理解ももたなくても、哲学の価値と哲学の本質について判断しうると確信しているのである。)また自分で哲学史を書く人々、書いた人たちからも聞きうる。このいろんな意見の枚挙としての哲学史は、こうして閑暇な好事の事柄となる。或いは、いわば博識の関心事となる。なぜなら博識とは、もっぱら無用な事柄をたくさん知ることだからである。言いかえると、その知識をもつこと以外には、それ自身では何の値打ちも、何の利益もないような事柄をドッサリ知ることだからである。

 だが人々はまた、他人のいろいろの意見や思想を学ぶことから利益を受けとるとも考える。即ち、そのことは思考力を刺戟し、また多くの立派な思想に導くことにもなるという。言いかえると、時にはまた、さらに意見を生むための機縁ともなると見る。従って哲学史の役目は、意見から意見への発展を綴るところにある、と考えるのである。しかし、哲学史がただの意見の画廊にすぎないとすれば、ーーー神に関してであれ自然的な物と精神的な物との本質に関してであれ、ーーーこのような思想の運動や博識から、どんなに多くの利益がもたらされると言われるにせよ、哲学史は全く無用な、退屈な学問となるのではあるまいか。単なる意見の羅列を学ぶより下らないことがありえようか。これほど馬鹿らしいことが他にあろうか。哲学の諸々の理念を意見という形で捉え、論じようとするような頭で書かれた哲学史の通俗的著書が、およそ如何に下らなく、おもしろくないものであるかということは、ちょっと見ただけでも分かるのである。

 意見は一つの主観的な考え、一つの任意の思想、一つの想像であって、私はこう考え、他の者は異なって考えうるといったものである。意見は私のものである。(eine Meinug ist mein.) 意見は、それ自身において普遍的な、即且向自的にある思想ではない。だから哲学は何らの意見をも認めない。なぜといって、哲学的意見なるものはないからである。それで、だれかが哲学的意見について話すのを聞けば、その人が哲学史家であっても、その人に第一次的教養の欠如していることが直ぐに分かる。哲学は真理の客観的な学問であり、真理の必然性の学問であり、概念的認識であって、いかなる意見マイネン〔私念〕でもなく、意見の綴り合わせでもない。

 次に、このような観念に特有のもう一つの意味は、我々の知識がただ意見という形でしかありえないとせられることである。この場合には、意見にアクセントがおかれる。ところで、意見に対立するものは真理である。真理とは、その前に出れば意見が色を失うといったものである。しかし哲学史において、ただ意見だけを求める連中、或いは哲学史においてただ意見だけが見出されるべきだと一般的に考えている連中は、真理なる言葉に出会うと顔をそむけるのであるここで哲学は二つの面から反対を受ける。一方では敬虔〔信仰〕が、周知のように、理性または思惟は真理を認識しえず、反対に理性はただ懐疑の深淵に導くのみだと宣言した。従って真理に達するためには自力的思惟は放棄し、理性は盲目的な権威の信仰の下に縛っておくのでなければならないとも宣告したのである。宗教の、哲学と哲学史とに対する関係については後で述べる。これに反して他方では、これもまた周知のように、いわゆる理性が幅をきかせて、信仰を権威から引き下ろして、キリスト教を合理的にしようとした。その結果、何事の認知であれ、それには全くただ自身の識見、自分自身の信念だけが自分に対して責任のあるものだということになる。ところが不思議なことに、この理性の権利の主張は逆転して、理性は真なるものなどというものは認識しえないという結果に達したのである。このいわゆる理性は、一方では思惟的理性の名前と力とにおいて宗教的信仰と闘った。しかし同時に、自身も理性に反するものとなり、真の理性の敵となる。それは真の理性に背いて内的な予感や感情を主張する。だから主観的なものを価値の規準にするのである。即ち各人が自分の主観性のなかで自分勝手に作るような自分の信念を規準とするのである。だが、こういう自分の信念こそ意見に他ならない。従って意見が人間にとって究極のものとなったのである。

 そこで、それが次のような観念となって、我々の出発点において立ち現れるとすれば、我々は哲学史におけるこの見解について、まずもって述べておかないわけには行かない。この見解は一般文化の中に浸みわたっている、その結果であり、いわば我々の時代の偏見であり、また我々の時代の象徴である。即ちそれは、今や人々が互いに理解しあい、認識し合うための原理である。当然のこととして認められる前提であり、従ってあらゆる他の学問的活動の根底とせられる前提である。神学においてはキリスト教の教養として通用するほどの教会の信仰箇条はなく、各人は自分の信念に従って(他の人は他の信念に従って)、多かれ少なかれ自身のキリスト教の教義を作っている。或いは、色々の意見を知ろうとする関心が神学に向けられて、神学が歴史的に研究されていることは、我々のしばしば見るところである。そうして、この知識収集の最初の収穫の一つは、すべての信念を尊重することになり、しかも信念とは各人が自分だけで決定せねばならぬものだと考えるにあるとみられるようになったことである。そうなると、真理を認識するという目的もまた放棄される。何よりも自分の信念こそ、認識において理性と理性の哲学とが主観性の見地から要求する究極のものであり、絶対的に本質的なものなのである。しかし、この信念が感情、予感、直観などの主観的根拠に基づくか、即ち一般に主観の特殊性に基くか、それとも思想に基き、従ってその信念が事物の概念と本性とについての洞察から生ずるものであるかということの間には相違がある。ところで前の場合には、信念は意見である。

 いま力説した意見と真理との対立は、すでにソクラテス=プラトン時代の文化の中にも、即ちギリシア生活の堕落の時代の文化の中にもまた、意見マイヌンク(doxa)と知識〔学〕ヴィッセンシャフト(episteme)とのプラトン的対立として現れている〔ティマイオス、187b以下、メノン98a〕。我々がアウグストゥス治下のローマの社会的、政治的生活の衰退時代において、またエピクロス主義と哲学に対する無関心とが世を風靡したその後の時代において見るのも同一の対立である。キリストが「私は真理を伝えるために、この世に来た」と言ったとき、ピラトス(Pilatos)が「真理とは何か」と反問したのはいかなる意味においてである〔ヨハネ伝、18章37-38節〕。それは上品な言い方になっているが、その意味は、こうである。ーー「この真理などというものは我々には分かりきった、古臭いものだ。我々はもっと進んでいる。真理を認識するなどというようなことが、もはや問題でありえないことを我々は知っている。我々は、そんなことは卒業〔超越〕しているのだ。」、と。このことを言う者は実際、それを〔あまりにも簡単に〕超越しているのである。(*ヘーゲルはピラトスの問いとは全く違った意味で、「真理とは何か」ということを、古くて、しかも永遠に価値ある問いとみている。ヘーゲル『小論理学』(岩波文庫)、一七頁、『大論理学』、下巻、二七頁等を参照。) 哲学史において我々がこの立場〔意見の立場〕から出発するとすれば、人によってそれぞれ異なる他人の諸々の特殊性を知ることのみが哲学史の意味の全部となるだろう。ーーしかし、こういう特有性は私には無縁のものである。のみなら、ぞこでは私の思惟的理性は自由ではなく、お留守である。それらは私にとっては、ただ外的な死んだ歴史的素材であり、それ自身において空しい内容の塊りである。また、このような空虚なものの中で満足することは、それ自身ただ主観的空虚にすぎない。

 囚われのない人間にとっては真理は偉大な言葉となって、心を鼓舞するであろう。ところが真理は認識しえないという主張に関しては、それは哲学史そのものの中に現れて来るから、我々はさらに立入って、この主張を考察することにしよう。しかし、ここで次のことだけは一言しておかねばならない。もしもこの前提が許されるとすれば(例えばテンネマンTennemannの場合のように)、何故に我々が哲学に頭を悩ましているかの理由が分らなくなるということである。しかも、そこではどの意見も、それが真理を持つことをウカツにも主張しているのである。私はこの場合さし当たって昔からの考えを引証しておく。ーー真理は知識の中にある。しかし我々は思考ナッハデンケンかぎりでのみ真なるものについて知るのであって、我々が歩いたり、立っていたりするかぎりにおいて、そうなのではない。真理は直接的な知覚や直観的においては認識されない。それは外面的感性的な直観においても、また知的直観においても、同様である。(なぜなら、何の直観も直観としては感性的だからである。)ただ思惟の努力によってのみ、真理は認識される。ーーー 

b 哲学史そのものを通しての哲学的認識の空しさの立証

 ところで、哲学史についての前述の観念と関連して、我々がいわば有害とも利益ともみうる他の帰結が別の面から出て来る。即ち、いまいうような多様な意見、様々な哲学の体系を見ることになると、我々はそのいずれを採るべきかに困惑してしまうのである。これを言いかえると、人間の心を引きつけるもので、哲学がその認識を与えようとする偉大な問題については、偉大な精神も失敗したことが知られるのである。というのは、彼らも他の人々によって反駁されたからである。「偉大な精神にしてもこうであったとすれば、ego homunicio 〔不肖な自我〕がどうして、そこで決着をつけうるなどと考えることができよう。」〔Terentius、Cicero等〕哲学の諸々の体型の相違性と言うことから引出されるこの帰結は、いわば事柄の有害な点である。しかし、それはまた同時に主観的な利益でもある。と言うのは、この相違は、玄人らしい顔をして自分は哲学に関心を持つのだというような様子をしたい連中にとっての、つまり彼らがこういう殊勝な意志をもつとういうような見せかけにもかかわらず、いや、この学問にどうしても打ち込まざるをえないのだという、もっともらしい口上にもかかわらず、実はこれを全く忽(ゆるが)せにすることにとっての、格好の口実となるからである。しかし、この哲学の諸々の体系の相違ということは、単なる口実どころではない。それはむしろ、哲学がその研究に要求する真面目な態度に対する心からの、真向からの反駁の理由となるのである。即ち、哲学の研究を断念することの弁明とせられ、真理の哲学的認識に達しようとする試みの無駄であることに関する、このうえない証拠とせられることのなるのである。実際、「哲学は真実の学問であるべきであり、どれか一つの哲学は真の哲学であるだろう」ということは認められるとしても、「そうすると、それはどの哲学であるか、また我々は何によってそれを認識するか、という疑問が生ずる。各々は自分の哲学こそ真の哲学だと主張する。だが各々は、それぞれ異なった真理認識の特徴と規準をもっている。だから生真面目ニュヒテルンな、分別臭い思惟は判定に苦しまねばならない。」このように主張されることになるのである。

 これが哲学史が提供するとせられる、もう一つ利益であり、問題点である。キケロ(神々の本姓について)『Natura Deorum I, 8 sqq』はこの見地に立って、神に関する哲学的思想の、ぞんざい極まる歴史を書いた。彼はそれをエピクロス派の口を借りて述べているが、それについて自身ではそれにまさることを何もいいえなかったから、それが彼の見解である。即ちエピクロス派は言う。確定的な概念というものには達せられなかった、と。哲学の努力が虚しいという立証は、歴史の結果の示すものが互いに対立し、矛盾し、反駁する種々の哲学の多様な思想の発生だという哲学史の一般的な、皮相な見解から直ちに引き出される。そうして、この拒みがたい事実は、「死んだ者にその死んだ者を葬らせよ、そして私に従え」〔マタイ伝、8章22節〕というキリストの言葉を、また諸々の哲学にも適用する権利を我々に与えるものであると共に、それを要求しているようにさえ見える。実際それによれば、哲学史の全体は、ただ死者の屍で蔽われた戦場となるだろう。そこにあるものは、死んで肉体的に過去となった諸々の個人の国のみならず、各々が他の者を殺し、埋葬するところの、反駁され、精神的に過去となった諸々の体系の国であろう。この意味では、ここではもちろん、「私に従え」の代わりに、むしろ「君自身に従え」、即ち君自身の信念を固持せよ、君自身の意見に留まれ、何故に他人の意見など用いるのか、と言われねばならないだろう。

 もちろん新しい哲学が現れて、他のものは無価値だと主張することはある。また、たしかに各哲学は先行する諸々の哲学が自分によって反駁されたのみならず、その欠点は訂正され、遂に正しいものが見出されたという自負をもって登場する。しかし以前の経験からすれば、こういう哲学も同様に、やはり使徒ペトルス(Petrus)がアナニアス(Ananias)に話したところの、「見よ、君を担ぎ出す者の足がすでに門口に立っているのを」という聖書の言葉が適用されるものであることが分かる。見よ、君の哲学を反駁し、駆逐するだろう哲学が、やがて必ず訪れるだろうことを。それは曾てのの他のいずれの哲学にも、もれなく訪れたのと同様である。

c 哲学の相違に関する説明

 いろいろな哲学があるということ、またあったということは、たしかに否定しえない事実である。しかし真理は唯一である。理性の本能は、この克服しがたい感情または信仰をもっている。「それ故に唯一の哲学だけが真の哲学でありうる。ところが哲学はいろいろであるから、他のものは誤謬でなければならない」という結論が下される。「しかし各々は自分をその唯一の哲学だと断言し、その根拠づけを行い、証明をする。」これが普通に人々のやる理屈であり、また生真面目なニュヒテルネス思惟の、もっともらしい見解である。そこで、このいま出て来た語である思惟の生真面目(Nüchternheit)ということについて考えてみよう。我々が食事前にある(wir sing nüchtern)時には、そのとき直ぐに、或いはやがて間もなく、空腹を感じることは、我々が日常の経験から知るところである。ところが、この生真面目な思惟は、その食事前ニュヒテルンハイトであることから空腹を感じ、ガツガツするようにならず、自分で満足しておられる才能と手腕とをもっている。従って、いまいう言葉を述べるところのこの思惟は、自分が死んだ悟性であることを暴露している。なぜといって、ただ死んだものだけが食事前にあって、それに満足しておられるからである。ところが肉体的生命も精神のもつ生命も、食事前であることに満足してはおられない。それは衝動であり、真理に対する、真理の認識に対する空腹と渇仰に移って行く。即ち、この衝動の満足を切望する。前者のような反省にゴマかされて、満腹にせられはしないのである。

 しかし、この反省について一歩進んで言わねばならないことは、何よりもまず次のことである。哲学が如何に異なっているにしても、とにかく哲学であることでは、それは共通のものをもつということであろう。それで、どれでも一つの哲学を研究した者、或いはそれを知った者は、それが哲学であるかぎり、それでもって、とにかく哲学を知ったことにはなるであろう。だから単なる差異性に固執するところの、そうして普遍は特殊性の中に現実的にあるのに、特殊性をきらい、または恐がるところから、この普遍性をつかもうとも、認めようともしないところの、あの口実や屁理屈を、私は他の所で一人の病人に例えた。即ち、その病人というのは、

医者に果物を食うことをすすめられたので、人々は彼に桜実を、或いは杏の実を、或いはブドウを差出したが、悟性の杓子定規ぺダンテライから、これらの果実の何も果実ではなく、一方のものは桜実であり、他のものは杏の実またはブドウだからといって、取って食わないような者なのである。

 それで、諸々の哲学的体系のこの相違性が如何なるものであるかについて、さらに深い洞察をもつことこそ極めて大切なことである。ところで、真理と哲学が何であるかについての哲学的認識は、真理と誤謬との抽象的対立の面から見るのとは全く異なった意味において、この相違そのものを相違として認識させる。しかも、この点に関する説明こそ我々に全哲学史の意味を開示するであろう。そこで我々が根本的に明らかにしなければならないのは次のことである。種々の哲学という哲学のこの多様性は、哲学そのものにーー哲学の可能性にーー何の損害も与えないのみならず、こういう多様性こそ哲学という学問の存在に絶対的に必然的であり、また必然的であったということ、つまりそのことをこそ哲学に本質的だということである。

 この考察にあたって、もちろん我々は次のことから出発する。哲学は真理を思惟的に、概念的に捉えることを目的とするものであって、何ものも認識されということを認識するのを目的にするものではないということである。即ち少なくも真の真理は認識されるものではなく、ただ時間的な、有限的な真理のみ(即ち真理であると同時に非真理であるもの)が認識されるものであることを認識するのを目的とするのではないということである。というよりも、我々は哲学しにおいて哲学そのものを問題とせねばならぬということである。哲学史の行為は決して武勇伝アーベントイアーではない。それは世界史が単に小説的なものでないのと同じである。それは単に偶然的な諸事件の収集ではない。一人で流浪し、当てもなく戦い疲れ、しかもその活らきは跡かたもなく消え失せてしまったというような武者修行の騎士の遍歴の収集ではない。同時にまた、此処では一人の者が或ることについて頭をひねり、彼処では他の者が勝手にそうしたというのでもない。思惟する精神の運動には本質的関連があり、しかもそれは理性的〔合理的〕に行われる。世界精神に対するこの信仰をもって、我々は歴史に、また特に哲学史に向かわねばならない。

2 哲学史の概念規定に対する説明

 真理は唯一だ、という前に挙げた命題は、まだ抽象的で、形式的である。ヨリ深い意味から見ると、それは出発点である。しかし哲学の目的は、この唯一の心理が同時に、そこからすべての他のもの、自然の全法則、生命と意識との全現象の流れ出る源泉であることを(即ちこれらは、この唯一の真理の反映にすぎない)認識することである。言いかえると哲学の目的は、これらの全法則と全現象とを、その唯一の源泉から概念的に把捉するために、即ちこれらのものの由来をそこから認識するために、これらの法則と現象とを外見上逆の途において、その唯一の源泉に還元することである。それ故に最も大切なことは、むしろこの唯一の真理がただ単純な、空虚な思想ではなくて、それ自身において規定された思想であることを認識するにある。この認識のために、我々はそれ自身としては全く一般的で味気ない抽象的概念について、即ち発展(Entwicklung)と具体者(das Konkerete)という二つの規定について考えておかねばならない。実際、我々はここですべての問題を発展という唯一の規定の中に総括することができる。この発展ということが分かれば、他のものはみな、おのずから明らかになる。例えば、こうである。思惟の産物は思惟されたもの一般〔思想〕である。しかし、思想は、まだ形式的である。概念は、すでにヨリ規定された思想である。最後に理念は、全体性として、また即且向自的に存在する規定としてある思想である。だから理念こそ真なるものである。いや、理念のみが真なるものなのである。ところで、理念の本性は本質的に発展することであり、しかもただ発展のみによって自分を把捉することーー即ち理念であるところのものに成ることーーである。理念が理念であるところのものにせられねばならぬということは、ちょっと考えると矛盾であるように見える。しかし我々は、やはり理念は理念であるところのものだ、と言うことができるであろう。

プラトンの反出生主義? ”どんな生き物にとっても、生存というものは、そのそもそもの始めの時から苦難なのだ ”プラトン『エピノミス(法律篇後編)』973D

いや、私は別に、こむつかしい話をしているのではありません。こんなことには、ギリシャ人でも、よその世界の人でも、人間なら誰でも、何らかのかたちで気づくようになるものです。要するに、それは、どんな生き物にとっても、生存というものは、そのそもそもの始めの時から苦難なのだ、ということですから。つまり、まずはじめに胎児の状態を味わい、それから今度は生まれ落ち、そのうえさらに、体を育ててもらい、それから教育もつけてもらう、これらを全部合わせてみると、「受け入れていかねばならぬ難儀は、到底数え切れぬ」のです。確かに、あらゆる人がそう言っている通りです。それに、一生のうち、痛々しい目にばかり会っている時期などは論外なのですから、満足すべきだ、と誰でも認めるような境遇が得られる時期だけを考えることにすると、これがまた、実に短いものでして、その歳月などを数えてみることさえ無駄でしょう。もちろん、この時期は、言ってみれば、ほっと一息つく間を、人間の一生のなかばあたりのところで、少しばかり作ってくれるようにみえるものです。ところがこんどは、老年が足早に襲ってきます。すると、誰でも、自分が生きてきた生涯の跡をあれこれと考えてみたあげく、絶対に二度とは生まれ変わって来たくないものだと願うようになることでしょう。もっとも、子供じみたことを空想して、いい気になっているようなお人の場合であれば、話は変わってくるでしょうが。

プラトン『エピノミス(法律篇後編)』973D プラトン全集14,6頁 水野有庸訳

https://books.bunshun.jp/articles/-/4862

反出生主義と一緒に考えてみてもいいのかもしれません。

川上未映子と永井均の反出生トークイベントに行ってきた「反出生主義は可能か~シオラン、ベネター、善百合子」 https://note.com/kii365/n/n92b321405da8

哲学は知識に限定してのみ学べるし、教えることができるのだ。これが、謙虚な哲学者の姿勢ではないだろうか?

以下に中島義道『哲学者というならず者がいる』新潮社 URL という著書の、第II部「快か不快か」の「「有用塾」?」(該当ページ数:pp72-74)から引用します。見出しは引用ではありません。

「本当のこと」を語れる清浄な空気は哲学的議論成立の土壌

 昨年秋まで八年間も続いた哲学塾(「無用塾」)を開設した動機の一つが、語るべきことのみを語らねばならない世間の穢れた空気をシャットアウトし「本当のこと」を語れる清浄な空気を確保することであった。いわば哲学的議論を成り立たせるための土壌の手入れである。ある程度は実現したと思う。

哲学ブーム、哲学カフェ、マルク・ソーテ

 そういえば、たちまち化毛の皮がはがれて崩壊した十年前の「哲学ブーム」のころ、私だけではなくいろんな哲学的試みが哲学ジャーナリズム界(?)をにぎわせていた。その一つ、フランスのマルク・ソーテというなんだか料理の名前のような哲学(研究)者が、「哲学相談所」を開設したということが、狭い業界で話題になった。何でも、学生のレポートの手伝いから、哲学論文の書き方から、夫婦喧嘩の仕方あるいはその仲裁まで、引き受けるのだという。哲学カフェーを開き、「愛」について「暴力」についてカンカンガクガクの議論をするのだという。そのほか、ソクラテスの足跡をたどるアテナイ旅行を企画するなど、盛りだくさん。たしか日本にも来て、渋谷で宣伝活動をしたのではなかったか。そして、その後まもなく死んだのではなかったか。

マルク・ソーテにマイナスに刺激されて、「道場」「塾」に辿り着く

 彼の「活動」が、私の哲学の理念と正反対なので、よく憶えているのである。まあ、いろんな人が「哲学」という名のもとに、いろんなことをしてもいいのだが。じつを言えば、彼にマイナスに刺激されて、私は自分の理念にかなった哲学の場をつくろうと思い立ったのだ。カフェーから革命が起きたとも言われているパリやウィーンの伝統などないわが国の「やかましい」カフェーで、哲学談義なんかできるはずがない!わが国には、もっとふさわしいモデルがあるはずだ。そう思案してたどり着いたのが、「道場」であり(幕末の)「塾」であった。こうして、一九九六年十月に私は哲学の道場=塾を開いたのである。

全人間的教育をしないはずの無用塾

 とはいえ、「無用塾」は、はじめから「危うい」位置にあった。私はーー当然ながらーー宮本武蔵でも吉田松陰でもない。彼らのように燃えるまなざしで、哲学の道を「教える」ことなんかできやしないし、したくない。私は剣道や柔道や茶道など、「〜道」という文字が指し示すわが国古来の教育法が嫌いである。これは、単なる技術教育ではなく、全人間的教育という響きがあるから。こうしたことを十分自覚して、古来の「道場」や「塾」をあくまでも批判的に踏襲したつもりだったが、第一回目に参加者一同に松下村塾のパンフレットを見せたりして、私もずいぶんオカシかった。その後も、自分の哲学観や人間観を塾生たちに伝授することに、ほとんど嫌悪を覚えなかったのだから、マルク・ソーテのことなど笑えない「カエルの王様」だったなあ、とつくづく思う。『荘子』の「無用の用」から採った「無用塾」という名前も異様にクサイ。

哲学を学ぶこと、哲学することを学ぶこと カントとショーペンハウアー、プラトンの想起説

 カントは「哲学を学ぶことはできない。われわれはせいぜい哲学することを学ぶことができるだけである」と言った。ショーペンハウアーはこれに対して、「違うんじゃないの?むしろ、逆にわれわれは哲学することこそ学ぶことができないんじゃないの?」と問い返した。これはなかなか難しい問題で、じつはふたりの「哲学」や「学ぶ」という言葉の意味が互いにずれており、すれ違いの議論なのだが(それを説明すると膨大な言葉を要するので、割愛する)、ここでは単純に哲学を「知識」とし、「哲学すること」を哲学する態度、精神のようなものとしてみると、ショーペンハウアーのほうに分があると思う。哲学精神あるいは哲学的センスなんか学べないのだ。プラトンの想起説よろしく、学べるとしても、はじめから知っていた人のみが学べるのである。哲学は知識に限定してのみ学べるし、教えることができるのだ。これが、謙虚な哲学者の姿勢ではないだろうか?

結局マルク・ソーテに擦り寄る?

 こうした反省から、「中島教」の布教は差し控え、あれだけ軽蔑していたマルク・ソーテに思いっきり擦り寄って(?)有名大学の哲学科大学院に受かるための、つまりその試験問題の傾向と対策を伝授するための哲学予備校(「有用塾」?)を開こうかなあ、なんてふと考えてみたりするのですが、みなさんどう思いますか?

(2005・6)

ガレス・マシューズ『子どもは小さな哲学者』からの10個の引用、子どもとの哲学対話のやり方

ステイホームのお供に子どもとの哲学対話はいかがでしょうか。名付けて 「ステイホームウィズダイアローグ #StayHomewithDialogue」! ラップみたいで気に入っています。

子どもの哲学に関して、世界的にもっとも重要な貢献を果たした人の一人はガレス・マシューズでしょう。彼の『子どもは小さな哲学者』には子どもとの対話の実践が数多く記録されています。その記録と彼の考察は、哲学の本質もある光を当てるという点でも、非常に興味深いものです。

そんな子どもの哲学に興味を持つ人なら必読の著書から10個所の引用をし、著書の紹介にしたいと思います。引用の最後の一つは、マシューズが自分の息子と行った対話のやり方です。子どもとだけでなくとも、だれとでもできそうな対話のやり方なので試してみてはいかがでしょうか。

ガレスマシューズのウィキペディア(英語)

哲学するのはごく自然な行為である

p5
哲学するのはごく自然な行為なのだという考えに、多くの学生は抵抗を感じるらしかった。学生の抵抗感にたいして、わたしはある作戦を思いついた。かれらだってこどものころすでに哲学していたのだということを、学生たちに示したらいいのではないか、と考えたのだ。かつてはごく自然なこととして楽しんでいたのに、社会化されるにしたがってやめた活動へと、学生たちにをふたたび導くことが、大学の哲学教師としてのわたしの責務ではないかーーーこんな考えが頭に浮かんだのである。

パパが二重に見えないのはどうして?だってぼくには目が二つあるし、片目ずつあけてもパパが見えるよ

p21
わたしは八つになる息子ジョンを寝かしつけている。ジョンはわたしを見上げ、出し抜けにこう尋ねる、「パパ、パパが二重に見えないのはどうして?だってぼくには目が二つあるし、片目ずつあけてもパパが見えるよ」
わたしはなんと答えるか?
まずわたしは、ジョンが疑問に思っていることを、正確に理解しようと努める。
「お前には耳が二つあるね」とわたしは指摘する。「でも二重に聞こえるわけじゃないだろ?それは不思議じゃないのかい?」
ジョンはにやりと笑う。「二重に聞こえるってどういうこと?」
「そそうだだなな、ここんななふふうにききここえるるここととさ」とわたしは答える。
ジョンは考え込む。

問題点の重要性を、「からだで」感じとっている

p70
 もちろん宇宙は無限か否かという問題にたいして、非ユークリッド幾何学を含め、マイケルよりもずっと複雑な概念装置を動員するおとなもいる。だが明らかにマイケルは、この問題の根本的な意味のいくつかを明晰に理解している。時としてマイケルはまったく驚くべき推論を示す。また明らかにマイケルは、おとなだろうと子どもだろうと、だれによっても改良されえないいくつかの問題点の重要性を、「からだで」感じとっている。

ピアジェが迷いに対してまったく鈍感らしいということ

p98
わたしにとって、このやりとりいちばん印象的なところは、ピアジェが迷いに対してまったく鈍感らしいということである。だれだって、おとなだろうとこどもだろうと、ファヴと似た内容の夢を見た人に「あなたが夢の中にいたのか。それとも夢があなたのなかにあったのか」」と質問して、「その両方だ。わたしは夢の中にいたし、夢はわたしの中にあった」という答えが返ってきたら、なんとなく不自然な気がするのではなかろうか。ファヴは迷っている。ピアジェは迷っていない。
p99
しかし、ピアジェが子どもに見出したと称する概念はすべて、哲学的考察をそそる。

ピアジェは幼児の哲学的思考に敏感でないというわたしの主張には、たしかに皮肉が含まれている。

注1 p188
ピアジェは幼児の哲学的思考に敏感でないというわたしの主張には、たしかに皮肉が含まれている。その証拠に、ピアジェの初期の小論文「子どもの哲学」の最初のパラグラフを以下に掲げよう。(”Children’s Philosphyies”, in A Handbook of Child Psychology, ed Carl Murchison, 2nd ed. rev., Worcester, Mass.: Clark University Press, 1933)ーーー「いうまでもなく現実には子どもは、本来の意味での哲学に取り組むわけではない。というのは子どもはけっして自分の考察をなにか体系のようなものに編み込もうとはしない。原始社会の神秘的な概念作用のことを言っているような「野生哲学」という表現を用いたタイラーが間違っているとしても、一方、比喩的に用いる以外に、子どもの哲学という言い方もできない。」
「とはいえ、自然や心や物の起源などの様々な現象に対する子どもの自発的な意見が、いかに関連がなく、一貫性がないとしても、その中に、あらたに考えるごとにふたたびあらわれる一貫した傾向を見てとることができる。我々が『子どもの哲学』と呼ぶのは、この傾向のことである」。皮肉にもかかわらず、わたしは自分の主張に固執する。

ほとんどの哲学的な問題には、どこか無邪気で素朴なところがある

p128
 いわゆる西洋哲学は、紀元前6世紀に小アジアの海岸地方、今のトルコ地方で生まれた。ベッテルハイムのような発生反復論者にたいしては、こんな質問をしてもいいはずだーーー「こどもはその発達のどの段階で、哲学の発生を反復すると考えられるのか」。もし、「子どもは思春期にはじめて抽象的な思考ができるようになる。そのときだ」という答えが返ってきたら、わたしはこう言い返さなくてはならないーーーわたしの知る限り、五歳児や六歳児は(あるいはひょっとしたら七歳児も)、十二や十四の子どもよりも、はるかに哲学的な質問をするし、哲学的な説明をするものである。この現象は単純には説明できない。
 この現象は、一面では、哲学の本質と関係がある。多くの、いやおそらくほとんどの哲学的な問題には、どこか無邪気で素朴なところがある。大学生を含め、おとなは、初めて哲学の本に接するときには、それを養わなくてはならない。それは、子どもにとっては、ごく自然なものである。
 また、この現象は、別の一面では、我々の社会において、子どもをおとなにする社会化の過程と関係がある。おとなたちは子どもが哲学的な質問をしないように仕向ける。はじめは恩着せ顏で聞いてやり、今度は子どもの探究心をより「有益な」探索へと向ける。ほとんどのおとなは、彼ら自身、哲学的な問題に興味がないのである。一部の哲学的な問題を、こわがったりもするのである。そのうえ、子どもが、おとなが決定的な答を与えることができず、辞書にも百科事典にも答えが出ていないような質問をすることだってあるのだということを、ほとんどのおとなは考えたこともないのである。

哲学的な問題について子どもと話し合うということ

p145
哲学的な問題について子どもと話し合うということは、簡単に言えば、ある種の疑問あるいは概念の問題についてよく考え、その疑問を取り去り、問題を解決することができるかどうかを見きわめることである。うまくいくこともあれば、失敗することもしばしばである。時には、あることがより明確になったために、なにか別のことがひどく曖昧であることに気づく場合もある。

p148
哲学を論ずるのに必要なのは、根本的には、言語とそれが表現する概念を使いこなす能力が人並みにそなわっている人ならば誰でも持っている、理解力である。それにあえて付け加えるならば、どんなに単純に見える問題も、どんなに基礎的に見える問題も、考えようという意欲と、忍耐力である。

p148
ここで一つ注意しておきたいことがある。私は、これまで論じてきた説明や質問が情緒的に健康で安定している子供から提出さたものと仮定してきた。この仮定はかならずしも正しいとは限らない。いつもは安定と自信にみちている子だって不安になるときがあるかもしれないし、哲学的な説明や質問の中にその不安を表現しているかもしれない。

おとはなおどけなさを意識的に養うことによって哲学と出会うしかないが、子どもたちはむしろ、無邪気さから哲学と出会う

p158
 たいていの人は自分に、あるいは他人に、空がいくつあるかなどと質問したりはしない。誰もが幼い頃に、この質問が、「大洋はいくつあるのだろうか」という質問とは違って、妙竹林な質問であることを知るのである。
 キャサリンみたいな子どもは、これが突飛な質問であることをまだ知らない。おとはなおどけなさを意識的に養うことによって哲学と出会うしかないが、子どもたちはむしろ、無邪気さから哲学と出会う。子どもたちは、哲学者たちが質問のクズ箱から救い出した多くの質問を、いかがわしいとか卑しいとか決めつけて捨ててしまうことを、まだ学んでいないのである。

子どもの思考には、持続性と連続性がじつにはっきりと認められる

p163
たしかに、一部の子どもが哲学的な事柄に向ける注意は発作的である。しかし、わたしの息子ジョンの、比較的持続した意見と質問のいくつかの結実が示しているように、一部の子どもの思考には、持続性と連続性がじつにはっきりと認められる。

p166
「世界はおもしろいな」と、ごくさり気なくジョンが言った。
「そりゃ結構じゃないか。きっとこれからもおもしろいことがたくさんあるよ」
「そういう意味じゃないんだ。世界には、考えるとふしぎなことがたくさんあるってことさ。たとえば道路標識…… 『制限速度三〇マイル』……言葉はその意味を、どうして意味することができるの?」
 わたしははじめ、ジョンが道路標識のどこにとまどっているのか、見当がつかなかった。わたしは次から次へと、いくつかの疑問点を挙げたが、どれもジョンが抱えていた疑問とは違っていた

質問を一つ選び出し、わたしがそれを紙に書く。それからわたしが答を考え、それを書く。

p174
 そんなわけでわたしたちはアウグスティヌスのパロディーはやめにして、代わりに、独自の対話をいくつか書いた。その対話は、ジョンが表明した疑問を出発点とし、わたしたちは対話の中でベストを尽くしてその疑問に取り組んだ。
 手順はこうである。まず討論の材料として、ジョンの質問を一つ選び出し、わたしがそれを紙に書く。それからわたしが答を考え、それを書く。今度はジョンの質問とわたしの答えを、わたしが声に出して読み、答についてどう思うかとジョンにたずねる。たいていジョンはしばらく考えた末、なにがしかの結論に達する。わたしがそれを紙に書く。
 ジョンはこの企画が気に入った様子だった。かれは続けて幾晩も、楽しそうに協力した。

ガレス・マシューズ『子は小さな哲学者』 鈴木晶訳 
引用元の著書の入手は以下をご覧ください。(引用のページ番号は、左側の思索社からの出版のものになります。)

オンラインで参加できる哲学対話・哲学カフェ トップ10とおまけとまとめ

参照

コロナウイルスが猛威を振るっておりますが、哲学カフェや対話のイベントは、あたかも肉体の死後も魂が生き延びているかのごとく、オンラインで生き延びています。そんな試みはもうとっくにたくさん(1000個ぐらい)あるのかと勝手に思っていましたが、全然そうでもないようです。これからもっともっと増えていって欲しいという期待を込めて、私が見つけた順にトップ10をお伝えいたします。

(機を見て追加・修正ができればと思っています。)

オンラインで参加できる哲学対話・哲学カフェのトップ10

めぐろ哲学カフェ 

URL

【アプリ】Zoom

【参加費】0円

【詳細などの抜粋】

●テーマ

「不安になると人はどうなるか」

●日時 4月19日(日)15:00~17:00

●会場 1LCK.ONLINE

  ※別途、メッセンジャーにて、

  Zoomの招待URLをお送りします。

●参加費

0円(オンライン開催初めてのため)

定員 8人

主催 めぐろ哲学カフェ、1LCK.EBISU

申込 参加ボタンを押すだけ

追加情報

めぐろ哲学カフェはアーダコーダとの共同運営です。アーダコーダの清水将吾さんのこちらのツイートからみるとオンライン哲学対話を試験的にすでに何度かやっているみたいですので、もうすぐ一般公開されるのかもしれません。

哲学Bar:思考実験の夜

URL

【アプリ】Zoom

【参加費】500円

【詳細などの抜粋】
初めてのご来店は少しお手数です。方法を箇条書きで書きます。
1、Noteのアカウントを取得(FBなどで簡単)
2、Noteにカード情報を入力し今回の有料記事に課金
3、有料記事中の【zoom bar】の入場リンク開示
4、入場リンクをクリック
5、zoomにサインイン(FBやGoogleで簡単)
6、ヴォガホワイエの【zoom bar】入場
○日 時:4月19日(日)19:30-21:00
○場 所:BAR VOGA foyer|ヴォガ・ホワイエ(京都木屋町御池下ルひと筋目東入ル大久ビル4F)
○参加費:500円
○定員:特になし
○主 宰:山本和則
○協 力:カフェフィロ、BAR VOGA foyer|ヴォガ・ホワイエ
○問合せ:yamamoto@cafephilo.jp ※参加申しこみ不要

アリとプラ

URL

【アプリ】Zoom またはWebex?

【参加費】0円,予約不要、

【詳細などの抜粋】

【日時】

第2回:4月19日 13:30~17:00

第3回:4月23日 19:30~23:00

【場所】

第2回:当日更新のURLから(前回同様こちらのページを更新します)

第3回:当日更新のURLから

※前回はZoomを使いましたが、今回はWebexを使うかもしれません。どちらの場合も上記のURLにパソコンから入っていただければ、そのまま参加していただけます。

【内容】

当日参加者で問を決めて哲学対話をします。

【参加条件】

学生であること。(URLが分かった人) 

 ※予約不要、無料

お問い合わせ:aritopura@gmail.com

オンラインてつがくカフェ 

URL

【アプリ】Zoom

【参加費】0円

【詳細などの抜粋】

オンライン哲学カフェは、その場に行かなくても参加することができるので、子育て中のお母さんや障害のある方、高齢の方々が参加しやすくなります。それに遠方の人も参加することができます。これまでは地域の人同士が集まっていたのが、地域を超えて繋がることができるというのが魅力だと思いました。

蒲田哲学カフェ

URL

【アプリ】Zoom

【参加費】0円

【詳細などの抜粋】

開催日時 令和2年 4月19日(日) 10時~12時

場所 各自自宅

定員 8名(最小催行人数3人)

参加費 無料

*zoomは画像と音声が拾える端末(パソコン・スマホ)があれば使えます。特別な契約や申し込みは必要ありません。

オンライン・子ども哲学カフェ#1 

URL

【アプリ】Zoom

【参加費】600円 【対象】新小学4年生〜新小学6年生

【詳細などの抜粋】

https://tayounamanabiproject.peatix.com

多様学びプロジェクト

「楽しいってなんだろう?」「幸せってどんなとき?」

ハッキリとした「こたえのない」問いについて、みんなで話し合う60分。

2010年以降は、vuca(ヴーカ)と呼ばれる、「予測不可能な時代」に突入したと言われています。

そんな時代を生きていく子ども達には、 また大人達には、 どんな力が必要でしょうか?

互いの違いを認め合い、 互いの違いの面白さを味わえる力。

不確かなことすらも、 いや不確かなことだからこそ、 楽しめる心。

この月一回の活動で、そんな力と心が育めたらと、私たちは願っています。

でもまずは1回「遊びに」きてください。

日時:2020年5月8日(金)14:00〜15:00(申し込み締切:5月7日(木)17:00)

参加費:600円

場所:オンライン会議システムzoom (申し込まれた方に前日18時にURLをお伝えします)

対象:新小学4年生〜新小学6年生

定員:8名(先着順)

onecafe 学生哲学カフェ 

URL

【アプリ】Zoom

【参加費】0円?

【詳細などの抜粋】

第247回

「『私』はなぜ生まれてきたのか

(3月6日振替)」

です。

4月17日(金)19:00〜21:00

を予定しております。

新型コロナウイルスの影響により、Zoomなどを用いたオンラインでの開催となります。詳細はメールでご連絡いたします。ご参加お待ちしております。

活動日記など詳細は公式ツイッターで更新中 @onecafe_

ソフィア哲学カフェ 

URL

【アプリ】Zoom

【参加費】0円

【詳細などの抜粋】

とき:2020年4月30日(木)17:15~18:45

ところ:IGC Online(Zoom使用予定)

進行:堀越耀介(グローバル・コンサーン研究所客員所員)

お問い合わせ: i-glocon@sophia.ac.jp

※定員12名/要事前申込(〆切:4/28(火))/参加費無料

町田の小さな場所MUCHA 

URL

【アプリ】Zoom

【参加費】0円

【詳細などの抜粋】

外出自粛要請期間中につき

オンライン(zoom)での哲学カフェを開催します。

4月12日(日)16-18時:政治について話す会

4月19日(日)14-17時:仮面BL会『BLビブリオバトル』

4月25日(土)16-18時:カミュ『ペスト』読書会

参加費は無料です。参加にはメールアドレスとインターネット環境が必要です。

参加ご希望の方はご予約をお願い致します。

哲学カフェ愛知 

URL

【アプリ】Zoomプロ

【参加費】0円?

【詳細などの抜粋】

オンライン哲学カフェをしませんか?哲学カフェの未経験者の方も、オンライン哲学未経験者の方も大歓迎です。

【日時】4月14日(火)19時〜21時

【使用アプリ】zoom こちらから送るURLから入るだけです。アカウントを作る必要はありません。

【申込み】tetsucafe.p4e@gmail.comまで、ご連絡ください。参加される方にURLとパスワードを送らせていただきます。

【参加費】無料

【定員】5人〜14人

【テーマ】「先が見えない」とは?

おまけ

他にも面白い試みがあります。これからもっと増えてくるのではないかと予想もしますが、もっと増えて欲しいと期待しています。私自身も遅れを取らないように何かやらねば、と思っています。

講義・ラジオ

なぞらじ

https://www.youtube.com/channel/UCawy40dW33qG5-igE9jSTPQ

【紹介ページより】

いろんな謎をめぐっておしゃべりをするラジオです!

* 光栄にも私は第1回に出演させていただきました。謎を追う哲学対話がオンラインで配信されている貴重で斬新な試みです。

P4Radio 哲学ナビゲーター 

URL

【紹介ページより】

P4Radio【哲学する体験を届ける】

哲学のエッセンスをカジュアルにお届けしています。

難しいイメージの哲学、挫折してしまいそうなイメージの哲学。

でも哲学っていうのは、もっともっと簡単で、誰にもできて、役に立つものなんです。

そんな哲学のエッセンスをカジュアルに、楽しくお伝えしていけたらなと思っています。

①毎週哲学対話のラジオを収録(生放送でやってます!)

②考える哲学史の配信

③一人哲学対話動画配信

メディア型授業

URL

【紹介ページより】

新型コロナウィルスの感染拡大を受けて、多くの大学で授業がオンライン化しています。教材開発の例として、私が作成した授業の動画を公開します。(たぶんそのうち消すと思います)

メディア型授業をつくってみた。|戸谷洋志|note

使ってみた感想

オンラインでの講義を初めて使ってみた人が情報を伝えてくれています。

オンラインでの哲学対話(哲学カフェ)について|mrmts|note

この圧迫感にもつながる話なんだけど、参加者が少ないときに長時間パッシブ(映像がなく、他の参加者の発言を聞いたりチャットを見ているのかどうかもわかならい状態)の参加者が一定数いると、なんとも言えぬ居心地の悪さがある。まあストレスに感じるということかな。

 この経験は哲学対話における〈参加〉の意味をめぐる議論にある示唆を与えてくれた。個人的には哲学対話というよりも哲学カフェのことなんだけど、オスカル・ブルニフィエ的な全員が発言をして全員の理解とともに対話を進めていくという参加のあり方に私はずっと疑問を呈してきた。

 ざっくり言うと、哲学対話(哲学カフェ)における参加の仕方は多様であっていいというのが私の立場で、発言したい人は発言すればいいし、発言したくない人は発言しなくてよく発言を強制されるべきではない(だからミュートの強制解除も問題になる)というのが私の考え。

zoomで哲学対話をしてみたのでふりかえる

よかったこと、イマイチだったこと

90分くらい*2話した後、なんと学生さんたちのほうから、このサービスを使ってみての感想共有も始めてくれた。優秀。

そこで出ていたよかったこと、イマイチだったことをまとめると、

よかったこと

・対面でやる場合の代替品としては使える

・案外、やれる

・挙手ボタンとか、いいよね

イマイチだったこと

・やっぱり対面には劣るかなあ

・特に、話を切り出すタイミングがわかりづらい(いつ話し出せばいいかわからない)

・(スマホだと)カメラで自分を映しながら、画面を操作するのが、使いづらい

・声がところどころ途切れる

 という感じ。

私の感想はというと、今回くらいの人数から10人程度までなら結構イケるかも、という感じ。

高校生とZoom授業/座談会!手順や感想まとめ ~教員:生徒の割合がカギ!~

Zoomでレクチャーをしてもよいかもしれませんが、youtubeで観てもらってからZoomでディスカッション、という形の方がいいかもしれません。課題の提出はclassroomがあり、youtubeと連携もスムーズなので、Zoomとどう使い分けていくかは今後の課題です。

内容や人数によって変化する部分があると思いますが、少なくとも、チャットで質問を募集しながら進めていくスタイルは次回も継続してみようと思います。

生徒がこの1か月何を感じてきて、どう過ごしているのか、共有しあって分かりあう時間をつくることの意味を感じられました。

まとめ

みんなZoomを使っている

私の見つけた全てのオンライン哲学カフェ・対話が Zoom を使用していました。これからオンライン哲学カフェに参加しようと思っている人は、スマホやパソコンにアプリをインストールしておいた方がよさそうです。とはいえ他方で、Zoomには安全性に問題があると指摘されていたりもしますので、少しばかり注意が必要かもしれません。

「ズーム」回避の動き ビデオ会議、安全性に懸念

私の個人的なオススメは、Google Hangoutsです。こちらの方が使い勝手がよいと感じます。何より、Google では他にもClassroomやJamboardなどのオンライン講義に便利なアプリと併用でき、レポート執筆などに使えるほぼ全ての機能が無料で使えるので、仕事でも使っています。

その他にも同様な機能をもつ様々なサービスがあり、それらのサービスを分かりやすく説明してくれている方がいました。

#StayHomeな授業をつくるためのツールやサービス図鑑 (リアルタイム編集中)

今後の課題は支払い?

ところで、今はほとんど全てのオンライン哲学カフェが無料のようですが、これから料金が発生する場合には支払いはどうするのでしょうか。哲学対話・哲学カフェの老舗であるカフェフィロさんでは、noteの有料記事を購入することによってお支払いをするという形になっているようです。

ご参加には以下のURLから有料記事を購入していただく必要があります。
https://note.com/kondo_kazumi/n/n0981a4c538b9

http://cafephilo.jp/events/event/cafephilo-1664/

paypayなどが少し前にようやく普及してきて、電子的なお金のやり取りはスムーズになったところですが、私個人としては、金額を指定して請求するPaypalがその後のお金の管理を含めてもっとも使いやすいと感じています。メールアドレスか電話番号を教えてもらって請求するという仕方で私は使っています。

https://www.paypal.com/myaccount/transfer/homepage/request

Zoomなどを使って支払いができればよさそうですが、それらの機能は備え付けられていませんので、paypaやPaypalなどのアカウントは事前に用意しておいた方がよさそうです。

最後に

オンラインで参加できる哲学対話や哲学カフェは、現時点ではそれほど多くはないようです。しかしながら、コロナ騒動が継続しようが収束しようが、コロナ騒動をきっかけに哲学のオンライン領域がもっと広がればいいなと思います。オンラインによって全国各地どころか世界中全ての哲学カフェに参加するのがこれまでよりも比較にならないほど容易になると想像するとなかなか楽しそうです。日本にいながらカンボジアの哲学カフェにも参加できればなあ、などとも思います。とくに「聞くだけ」参加、すなわち視聴者的な参加者が増えれば、哲学カフェはもっともっと身近になり、私だけではなくて他の「対話屋」がたくさん出現するのではないかと妄想するのもなかなか楽しいです。

そうしたときのために、オンラインで参加できる哲学カフェや哲学対話のデータベースがあればいいと気付きました。記事を書いた後思いついたのでまだ全然情報量がたりませんが、とりあえず、登録フォームとデータベースを作ってみました。よければ利用してみてください。誰でも閲覧・登録できますし、リクエストなどありましたら改善いたします。

オンラインダイアローグのデータベース閲覧

オンラインダイアローグデータベースへの登録 (リンク先)

言語哲学的かもしれないラーメンズとモンティパイソン

なかなか言語哲学的かもしれないと思ったコントがありました。

ラーメンズ『TOWER』より「名は体を表す」

何が似ているのかを言うのは難しいなあと思いつつ、ともかく思い出したのは次のものです。

Monty Python Flying Circus, season 4 episode 3 “The Light Entertainment War” の woody and tinny words と呼ばれているスケッチ。

6分あたりから

さて、ブログを書く時間がとれません。コロナウイルスのみならずコロナ便乗ウイルスのおかげで全然暇にもならなければお金も儲からないからです。こんなことが起こっているのです。

こういうわけで対話についてのブログが滞ってしまう代わりに、非常事態宣言下の新宿と原宿の様子をお伝えいたします。

オンライン哲学対話のまとめページなどを探してもなかなか見つからないので、自分で作ろうと思っていたのですが、そんな暇がなさそうです。もしかしてもうあるようでしたら、教えてください。

オンライン哲学対話を売り込む3つのウェブサイト

こんな記事を見ました。

「すきま時間副業」が増加中。新型コロナで伸びた在宅時間「有効に使いたい」

なるほど、確かにそういう人が増えているでしょう。かくいう私もこの際にオンラインでいろんな副業をつまみ食いしてみたいなんぞと思ったりもします。

そんなに数は多くないですが、雑談をスキルとして売っていらっしゃるのを発見しました。

そこで哲学対話を、あえて雑談として売ってみるありだなあと思いました。雑談したいだけの人を哲学対話に誘い込むスキルを売れるようになれば面白いかも、などと私の妄想は膨らみますが、スキルマーケットで自分の哲学対話を広めてはどうでしょうか。そのための3つのウェブサイトを紹介します。

スキルマーケット

スキルマーケット カテゴリ:フリートーク/雑談

ココナラ

ココナラというスキルマーケットのウェブサイトには、悩み相談やカウンセリングも売っています。

ココナラ 悩み相談・カウンセリング

ストアカ

ストアカにあるカテゴリーでは、いろんなものが哲学対話に当てはまりそうです。文化・教養ライフハック・自己啓発趣味・ライフスタイル子育て・キッズで子どもの哲学対話をやってみるのもいいかもしれません。

スキルマーケットは他にもいくつかあるようです。スキルマーケットを9つ紹介しているウェブサイトがありました。参考にしてみてはどうでしょうか。

スキルマーケット9選、まとめてみた

一つ一つに紹介を加えたかったのですが、それはまた今度にいたします。非常事態宣言が終わるまでの試みに使ってみてはいかがでしょうか。

The Third Man(木本)
The Third Man(木本)

Y先生には「君には言いたいことが何かあるのは分かるけれど、それが何であるのか分からない」と言われ、H先生には「何かの本質をつかんでいるとは思うけど、それが何かってことだよね」と言われたと話すと「それはそのままthe third manさんのキャッチフレーズになりますね」と。

五味太郎、コロナ、子ども

https://withnews.jp/article/f0200405003qq000000000000000W09w10101qq000020833A

むしろおれ、ガキたちにはこれがチャンスだぞって言いたいな。心も日常生活も、乱れるがゆえのチャンス。

だって、仕事も学校も、ある意味でいま枠組みが崩壊しているから、ふだんの何がつまんなかったのか、本当は何がしたいのか、ニュートラルに問いやすいときじゃない。実はコロナ禍がないときこそチャンスに満ち満ちているんだけど。今は幸か不幸か、時間が余っているんだから。

おれは初等教育のプログラムって、ほとんどが「大きなお世話」だと思う。人格形成とか学習能力とか……。もちろん、誰も悪意でやってるわけじゃないんだけど、全員座ってじっと先生の話を聞くって、子どもの体質には合ってない。そこで栄養がとれて健康が管理できれば十分だと思うし、やりたいこと・わからないことがあったら聞ければいいと思うから。

この取材と矛盾しちゃうけど、人の話なんて一方的にずっと聞いていちゃだめだよ(笑)

https://withnews.jp/article/f0200406002qq000000000000000W09w10101qq000020835A

熱さに意味はないけど、この熱さに耐えれば卒業証書、修了証書、そして退職金……と続いていく。で、疲れちゃって、考えるのをやめていく。考えるのって面白いはずなのに。それを繰り返してるうちに、自分が何がしたいかわからなくなっちゃってる。誰かに見てもらって点数つけてもらって休みもお金ももらう。おれは「学校化社会」って名づけたよ。

仕事は体を使ってするもので、しんどい・しんどくないは体で判断すればいいのに、その素直な感覚を無視してしまう。

大人がやりがちなミスです。ガキに「礼儀正しく」という割にはガキに礼儀正しくない。

限られた材料や選択肢の中で、悩むしかない。大人も子どもも。これを機に、十分悩みましょうよ。

対話屋ディアロギヤの新型コロナウイルス感染症対策案 暫定3つ+1つ

あらためて言うまでもありませんが、新型コロナウイルスパンデミックにより、対話屋ディアロギヤの活動(新宿哲学カフェ、哲学対話イベントなど)の中断を余儀なくされております。

今後も新型コロナウイルスの感染拡大は加速していくでしょうし、仮に一時的に収束したとしても、予断を許さない状況であるのは間違いのないことでしょうから、それまで何かしなければなりません。

この機会に、直接の報酬を求めない社会奉仕でもやってみようかと思います。

オンライン哲学対話の技術サポート

哲学対話のイベントをこれまでに行ってきた方なら、様々なイベントが中止になるたびに、オンラインでの対話ができないものか、とお考えでしょう。そうした中で、技術的な問題のためにオンライン対話を断念しなくてよいようなサポートをしていきたいと思っております。zoomやgoogle hang outなどのオンラインサービスに慣れていない方々がかなりの数いるのではないかと推測しますので、そうした方々がに対して、コンピューターやソフトウェアの技術的なサポートをしていきたいとおもいます。

お電話、メール、チャットなどでサポート活動を行います。東京近郊であれば、条件等が揃えば出張という形も可能です(公共の交通機関を使わずに参ります)。あるいは西新宿のオフィスにまでご訪問していただける方にはオフィスにて、サポートを提供したいとおもいます。

オンライン哲学対話

新宿哲学カフェの活動や対話イベントを、オンラインで行うことも考えております。すでに哲学対話を実践した先人たちがいらっしゃるようです。

zoom

zoomを使っての哲学対話の前例は、少なくともこのブログの著者の行ったものと、ブログの著者が引用するものとの2つはあるようです。

まだまだこれからになりますが、zoomのアカウントを作成して、パーソナルミーティングURLを取得しておきました。zoomは 100人で 40分間のミーティングが可能らしいです。(参考リンク

対話屋ディアロギヤ

https://us04web.zoom.us/j/9252856955

Google Hangouts

ところで、私が普段使っているのはGoogle Hangoutsです。こちらは10人までしか参加できませんが、Googleの他のサービス(ドキュメントやスプレッドシートやClassroomなど)もあって便利ですのでおすすめです。こちらも開催の予定は立てておりませんが、URLはすでに用意しています。

オンライン新宿哲学カフェ

https://hangouts.google.com/group/p7UWYC3hYJutexxa9

録画スタジオとしてなど

新宿まで様々な点で安全にお越しいただける方には、弊社のスペースをレクチャーなどの録画スタジオとしてご利用いただくこともできます。ホワイトボードなどを用いてオンライン講座の動画を作成し、動画を配信していただけるようなサポートをいたします。

弊社までお越しになる方は、感染症のリスクを避けるための最大限の努力をお願いいたします。

所在地

(番外) 宿泊部屋の提供、コロナショックによる不動産のトラブル

不動産業に関わっている身の上、コロナショックが不動産業にじわじわと深刻な被害を及ぼしているようです。とりわけ、引越しシーズンを直撃した影響が大きい。すでに契約したお部屋のリフォームがなされていないために入居できない、あるいはそもそもの契約が解消された、などの話をチラホラ聞いています。内定の取り消しや採用の見合わせなどのために、引越しを取りやめるにあたっての違約金のトラブルなども増えています。さらに、飲食業やイベント業に携わる方々は月々の収入が減るなどして、家賃が遅れたり払えなかったりしているようです。

学生や新入社員などの弱い立場の方々にそのような方々が多く大変厳しい状況に迫られています。これらについてなかなか解決は難しいですが、何か助けになれることがあるかもしれませんので、こちらも無料でご相談を受けさせていただければと思っております。

お問い合わせはこちらからお願いいたします。