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対話の金銭問答その三

問い:
対話するのにお金をもらうとすると、お金が払えない人を排除してしまわないか

答え:
全くその通りである。

お金を払ってまで対話しないような人を、対話しようとする人は排除すべきである。また逆に、対話するのにお金を貰えば、お金を払う人なら誰でも受け入れるという条件を提示していることになるのを忘れてはならない。

補足

「お金が払えない人を排除してしまわないか」というのは問いの形をしていますが、単なる懸念です。どんな懸念であるかを考え、突き詰めていくと、吐き気を催すような気持ちの悪いものに出くわします。

子どもからお金をとるべきではない?子どもにはお金を払うべきである

まず、お金が払えない人の代表として、子どもを考える人がいるでしょう。子どもに対話を教えるのに、子供が対話を学ぶのに、子どもが対話をするのに、お金がかかってはいけない、と多くの人は考えているかもしれません。私は、しかし、全くそんなふうに考えていません。根本からそんなふうな考え方をしていません。そもそも、子どもには対話を教える必要はなく、子どもから大人が対話を学ばなければならないと考えているからです。お金が払えない人を排除してしまう、などと懸念している人は、すでにして子どもに対話を教えてあげるということを仮定した上でそんな愚かな懸念をしている。そもそも、そんな仮定を取り払う方が先決です。

さて、対話をしたいという子どもが現れれば、その子どもと対話をするまでのことです。子どもが対話屋に尋ねて来れば、もちろん無料で対話するでしょう。子どもからは、私はお金をとるつもりは全くありません。

しかし、だからといって子どもにお金をあげるつもりもありません。というのも、子どもにお金をあげたところで全く子どもは得をしないからです。おそらくは、そのお金を受け取ることになる、親が得をするでしょう。そうであるとすれば、やはり、私は、その親からお金をとるべきでしょう。親でなくとも、保護者から、お金をとるべきでしょう。というのも、子どもが対話する機会を、その保護者や親は与えることができず、その上で子どもが対話屋を尋ねてきたということなのですから。

子どもに対話の場を与えることができない大人からお金をもらうべきである

その保護者や親ができないことで子どもが求めることを、親や保護者に代わって対話屋は対話をその子に与えるのですから、保護者や親から報酬を得るのは当然でしょう。

そもそも、お金を取るとお金を払えない人を排除してしまう、という発想は、対話を教育するという前提に立ち、教育の機会はすべての人々に平等に与えられるべき、という思想から来ている。私はこれに反する考えがありますが、話が大きくなり過ぎるのを避け、次のことを言うにとどめておくことにします。なるほど対話が存在する、ということを知らせるだけのことなら、強制的に子どもや人々をかき集めて必要最低限のことをすればよいが、それ以上のことをする必要はない。

対話を普及しようという善行に関してのあまりに無知な熱狂

さて、私のもっとも言いたいことは、こうです。すなわち、金銭を得ないことによって代わりに何か他のものを得ているのではないか、ということです。何か他のものとは、尊敬だとか道徳心だとかです。私に吐き気を催させるのは、金銭を得ない代わりに人々に尊敬という名の隷属根性を植え付けることです。つまり、金銭の代わりに「心」を取り上げることです。お金をもらわずに対話をすべての人々に平等に与えようとするその心性のうちに、善行に関する無知な熱狂が、透けて見えるというよりはむしろ剥き出しになっている。そのことに対する感度がない人の多さに私は驚きを隠せません。

トロッコ問題が事件になったのは、哲学が学校には適さないということを自己申告しているからである

人々を強制的に集めておいて対話という存在を知らせるというのは、暴力にも近いのは明らかなことではないのでしょうか。その暴力にも近いことに対する自覚がなければ暴力はエスカレートしやがて本当に暴力になってしまうでしょう。現にそれが誰の目にも明らかな形で事件になることさえあるのです。トロッコ問題が教室で取り上げられ、それが事件を起こしたことがあったと記憶しています。それが私に何を示しているのかといえば、やはり哲学や対話は学校という強制された場所で行われることができるものでは決してない、ということです。あの事件は、子どもたちや教師たちに関わる問題というよりも、哲学そのものが学校という場所で教えられるべきではないことを訴えたものであると私は考えます。

山口県岩国市立東小と東中で、「多数の犠牲を防ぐためには1人が死んでもいいのか」を問う思考実験「トロッコ問題」を資料にした授業があり、児童の保護者から「授業に不安を感じている」との指摘を受けて、両校の校長が授業内容を確認していなかったとして、児童・生徒の保護者に文書で謝罪した。

https://mainichi.jp/articles/20190929/k00/00m/040/044000c

暴力に近いものが行われており、それに加担しているという教師の自覚のなさはもはや恐るべきものです。そのことがすでに暴力ではないか、と思われるほどです。学校に勤務するとか教育機関に所属して人々を教えることは、そうした暴力に加担することです。にもかかわらず、そのように感じるのは、ほんのごくわずかの人だけのようです。私がこれを知ったのは、流行であったところのポストモダンの思想やニーチェやフーコーからなのですが、こうも人々がまったく違う行動に出ているところをみると、私の誤解である確信が強くなってきます。しかし、誤解であることが、私の洞察の価値を下げることにはまったくならないと自負しています。いや、洞察というよりはむしろ、ほぼ身体的な感覚です。というのは自ずと看取され看取されるとこのように書き記すことによって行為してしまうからです。

学校や教育組織の一員になるのは、半暴力組織の一員になることである

ともかく、人々を強制的に、それも非常に多くの人数を、集めている学校や教育組織は、それだけで十分巧妙な仕方で暴力をふるっているのに、その一員となって加担しようとする発想は私には本当によく分かりません。それも自らの生活を守るために必要に迫られてそうするならまだ分からないこともありませんが、私の観察するかぎり、自らの生活を守ることについてよく考えもしないで思い込んでいるだけです。大学や教育機関に職を得なくても自分で生きていく道はあるし、ないならもっと考えるべきなのに、そのような重要な事柄に対しての考えを放棄して、因習や名誉や惰性にたぶらかされて半暴力組織の一員に自覚もなしになっているわけです。そうした人から主体性や自分で考えることや思考力を学ぶなどというのは、不可能な話です。まったくちゃんちゃらおかしな話です。大学や教育機関で教えられる内容がたしかにそれに反するものであったとしても、結局はそんな組織の中にいることで思考を停止しているところを示しているわけですから、そのような人々に子どもたちが長い時間囲まれて弊害が起こらないわけがない、と私は素直にそう思います。

さて、このことについてもっと書きたいことがありますが、どれほど私がこれを書き記しても読んでくれる人さえわずかであり、読んでくれても理解してくれる人はもっとわずかであり、理解しなかったら私と対話しようと思う人などはもっともっとわずかであればこそ、「私」がこれを言い続ける価値があるであろうと信じております。そのことを告げて、お金を取ることでお金を払えない人々に対して対話を提供できなくなる、という問いに、善行を求める無知な熱狂を嗅ぎ取らざるをえないことの補足をやめにします。

さて、以上のことは、人々を挑発するために、あえて辛辣にしかも悪意を持って書いていることを、告白しておきます。どうか、皮肉を理解していただけますよう、お願い申し上げます。

The Third Man(木本)
The Third Man(木本)

Y先生には「君には言いたいことが何かあるのは分かるけれど、それが何であるのか分からない」と言われ、H先生には「何かの本質をつかんでいるとは思うけど、それが何かってことだよね」と言われたと話すと「それはそのままthe third manさんのキャッチフレーズになりますね」と。

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Y先生には「君には言いたいことが何かあるのは分かるけれど、それが何であるのか分からない」と言われ、H先生には「何かの本質をつかんでいるとは思うけど、それが何かってことだよね」と言われたと話すと「それはそのままthe third manさんのキャッチフレーズになりますね」と。

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