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対話の金銭問答その一

問い

何にも役に立たないと思われている対話になぜ人々が金を払うであろうか。

答え

なぜなら対話それ自体に価値があるから。

また、対話は何の役にも立たないのではなくて、全ての役に立つ。

問答についての補足

対話を娯楽と置き換えて考えてみる。

人々が対話することにそのものに価値があることを認めてくれればお金を払ってくれることは不思議ではありません。対話を他の娯楽に置き換えて考えてみれば明らかでしょう。映画やスポーツは何かに役立つのではなく、それ自体で価値をもっているから、人々はそれにお金を出して見に行ったりやってみたりするのです。対話も、対話することに価値があるということが人々に知られれば、お金を払ってまで対話したいという人がいるのは自明です。対話する場や環境が特別に備えられなければならないとしたらそれはなおさらでしょう。草野球をするのだって、グローブやユニフォームなどの道具を揃え、人々を集め、さらには野球のできる場所を借りる必要があるのですから。

対話を健康と置き換えて考えてみる。

対話を娯楽と置き換えるのが不自然であるのならば、対話を健康や体力と置き換えてみてみるとよいでしょう。健康であればこそ、様々な運動をすることができたり、遠くに出かけることも、美味しいものも食べることができます。しかしながら、健康が害されれば、ある限られた運動しかできず、行動範囲は狭められ、食事制限もしなければなりません。こうしたことから、健康は、健康そのもので価値があるということが認められています。対話は、そうした健康や体力のようなものです。

補足への補足

ところで、以上のことに関連してこんなことをよく聞きます。

1.1 対話することが他者のケアに、問題解決に、思考力の養成に、美的鑑賞に役立つとかいうのなら、対話をするのにお金をだしてまでするが、そうしたことに役立ちそうもない対話になんかお金を払うまでのことはない。

さらには、

1.2 対話するだけなら学ばなくたってできる。対話するのは簡単なことなのだから。そんな誰にでもできることをわざわざお金を払ってまでする必要はない。

これらについて、少し考えてみることにします。

対話なんぞにお金を払ってするまでのことはない(1.2)への反論

1.2のもとになっているのはこんな考えです。すなわち、対話が単純でもっとも基礎的なものであることから、それを誰でもいつでも任意の目的でどんな場面でも行うことが、誰に教わらなくてもできる。それゆえに、そんなものにお金を払うまでのことはない。至極あたりまえのように聞こえる見解ですが、救い難い無知に陥っていることを告げてあげなければなりません。しかし、あまりにも深い無知に陥っているので、説得するのが無駄ではないかと私は思います。

まず、ほとんどありえない場合を想定します。1.2のような見解を持つ人で、本当に対話ができる人という想定です。その人は、たしかに対話をするのにお金を支払う必要はない。しかもその人に対して私が改めて説得することは全くない。ですから対話について何であれ、こちらが説明するのは、もちろん無駄です。

けれども、1.2のような見解を持つ人は、対話することが実はできていない人です。その数は実はあまりにも多い。私の見る限りご老人方や他人を動かす言説を心得ている人々など、話を聞くことができないほぼすべての人々は間違いなくこの人種です。その人々たちにこそ、対話は必要であろうと思うのですが、その人々に直接対峙して対話の重要性を説くことは、もはや不可能です。というのも、度はずれな勘違いつまり並外れた無知が、もはや対話が必要であるという対話をすることすらも、拒絶しているのだからです。

対話の必要性を説くのは無駄であるばかりか有害である

 そのような人々に対話の必要性を説くのは無駄であるばかりか有害であることを知ることのほうが圧倒的に重要かもしれません。というのも、対話の重要性を少しばかりは知っている人に対話の知識や技術や体験の場を提供するのにも時間や労力がかかるのですから、無知な人々に対して優先的に対話の必要性を説くならば、限られた時間や労力が、対話を必要とする人々へ届けられないことになってしまうでしょう。

 ところで、無知な人々も、権威ある人や数多くの人々が繰り返し対話の重要性を説けば、説得される可能性はある。ですがそれは優先事項ではありません。まずなすべきことは、対話の必要性を感じている人に対話を届け、必要性を全く感じていない方々については、放っておく、放っておくのも難しければ排除しておく、ということでしょう。

対話なんか役に立たないのだから金を払う必要はない(1.1)への反論

対話は悪用すら可能な万能薬である

 対話が役に立ちそうもない、ということに関しては、まったくの間違いであることを先に言っておきましょう。むしろ、対話はもっとも基礎的なもので、何にでも役に立つ万能薬だとさえ言っていいくらいのものです、悪用すら可能な。ですからその点で、先ほども言いましたが、対話は健康のようなものです。健康であるから、たとえば仕事ができ、趣味ができ、運動ができ、買い物にも行け、旅行に行ったりすることができます。しかし、健康でなければこれらのことが制限され、あるものは全くできなくなったりします。健康が少し害されれば運動することは制限され、健康が完全に害されてしまうと運動することが全くできなくなってしまいます。対話もまたそういうものです。対話が全然できなければそもそもコミュニケーションも自分で考えることもできなくなりますし、対話がほんの少ししかできないとなれば、他者のケアもそれほどの程度でしかできず、問題解決も限られた範囲でしかできませんし、美的鑑賞も貧寒なものしかできない。ともかく、我々は実は社会を根底的な部分で対話によって構成しているので、対話ができなかったり制限されていると、社会活動の様々な場面で不都合や不自由が出てくるのです。

 ですから、対話は何かの役に立つというよりはむしろ、何か我々の不都合や不自由な社会活動があるとすれば、それは対話が機能していないとか対話が制限されているとか対話が不全を起こしている、と考えるべきです。にもかかわらず、そのことを我々は知らないのです。我々は普段は知らないままに、様々な社会活動を行っていて、いろいろな問題に巻き込まれては何らかの苦し紛れの解決を余儀なくされています。役に立つばかりのものが要求されているために、役に立たないものを蔑ろにし、苦しんでいたり悩んでいたりするわけです。その蔑ろにされているものが、対話であり問いなのです。

 何かの役に立つということを、とりあえずは一旦脇に置いて、問いや対話を取り戻そうとすることが必要なのです。そのことをするのに対価を支払ってまでするのはあたりまえでしょう。その道の専門家に見てもらう必要があるからです。その道の専門家はすでにそれに時間や労力を注ぎ込み、必要としている人々に届けるための知識や技術や経験をもっているですから。

医者は有用性を度外視し、患者に健康を取り戻す

 ここでも健康と対話は同類です。健康を作り出すのは医者ですが、医者はとりあえずあなたがどんな活動するかなぜ健康を必要としているのか、健康を何のために役立てようとしているかは脇に置いた上で、あなたを健康にするようにする。それが医者の専門であり医者の果たすべき職務だからです。対話もまた同じことが言える。医者の立場となるのは対話屋ですが、対話屋は、対話をあなたがどのように生かそうとしているか、何のために用いようとしているか、なぜ対話を必要としてるのか、ということを、とりあえずは一旦脇に置いて、対話そのものを提供することに努めるのです。それが、対話屋の職務です。これが、対話屋が、対話そのもののを提供することができる、ということです。そして、対話そのものが価値をもっているとはそういうことです。

 対話することそのものに価値を認めず、それに対価を支払う必要がないと考えているなら、それは健康になるのには自分で健康管理をしっかりし病気にかかっても民間療法でなんとか治そうとするというのに似ていると思います。また対話を得るのに安ければ安いほどよく最低限の支払いしかする気もないので簡単に手に入るものでよいと考えるのは、ワケあり物件を探して住もうとするのに似ているのでしょう。

The Third Man(木本)
The Third Man(木本)

Y先生には「君には言いたいことが何かあるのは分かるけれど、それが何であるのか分からない」と言われ、H先生には「何かの本質をつかんでいるとは思うけど、それが何かってことだよね」と言われたと話すと「それはそのままthe third manさんのキャッチフレーズになりますね」と。

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