しばしば以上にほとんどの場合、官庁や病院や大企業でさらにはともかく誰かに雇ってもらうなどという仕方であくせく働いていては、クソ真面目なりすぎて哲学ができなくなると感じる。それもあって私は自営業・自由業にこだわっている。
忙しい日々のうちに湧いてくる疑問や人間関係での悩みや組織への反発は哲学の材料としては格好のものではあろう。しかし、それ以上に、哲学にとって本質的なことをクソ真面目さが害してしまうように思う。
目次
西洋哲学の伝統のうちには遊びやふざけがある
勤勉さや真面目さはたしかに哲学にとって不可欠である。勉強もしなければいけないし訓練もしなければならない哲学には必須のものである。けれども、だからといってふざけてはならないわけではない。それどころか、ふざけや遊びこそが哲学にはぜひとも必要なのだ。それがなくなってしまっては哲学が宗教や神学になってしまうだろう。哲学が宗教や神学と違って固有のものたりえているのは遊びとふざけが内在しているからだ。少なくとも私が西洋哲学の伝統から常に感動と驚嘆とをともなって学ぶところは、真剣にふざけることができるというところだ。これが子どもの哲学とギリシア哲学には著しいということを付け加えておきたい。
形而上学の問いは人を救わないが、だから何なのだ
仏典のある一説に次のようなことがあるのを知って、宗教とは異なる西洋哲学が私にとってとくに魅力的な理由がふと分かった気がした。出典を明記できないので正確さを欠くのだが、形而上学の問題、なぜ世界が存在するのか、精神だけでなく物質の世界があるのか、という問いを考えところで救われることはない、とブッダは言ったらしい。なるほど救いを求めるならばそんなことを問い続けるべきではないかもしれないが、救いなんかよりも、世界がなぜあるのかの不思議さを問うほうが圧倒的に偉大ではないか、と私は思った。西洋哲学など学ぶ「意義」は、私にはもちろんない。だが、西洋哲学を学ぶ魅力はたしかにある。それは、不思議さに対する感度と執念とそれら全てを含んでもなおのこる遊びやふざけである。
西洋哲学を学ぶ「魅力」が以上のようなものにあると信じている私は、それゆえ、教育者が西洋哲学を学ぶ意義があるとすれば、私が感じている魅力にこそあるだろうと思うわけである。官庁や病院や大企業と同じ類のものである日本の教育機関で、たとえば儒学や仏教を学ぶことによっては、遊びやふざけがクソ真面目さによって駆逐されてしまう。だからこそ、西洋哲学を学ぶことによって、真剣さ真面目さと両立するどころか真剣さや真面目さに支えられた遊びやふざけがあるの知る意義があろう。
スコレー、ディアゴーゲー
学校の語源がスコレーすなわち間暇であることが、それをいくらか示しているとは言えないだろうか。スコレーと言われている箇所がアリストテレスの形而上学にあったと思って探してみたが見つからなかったので勘違いだったかもしれない。しかし、次の箇所でも、上に言ったことが十分に現れていることが分かるだろう。
それゆえに、最初に、常人共通の感覚を超えて、或るなんらかの技術を発明した者が、世の人々から驚嘆されたのも当然である。それも、ただたんにその発明したもののうちになにか実生活に有用なものがあるからというだけではなくて、むしろそれを発明したほどの者は知恵のある者であり、他の人々とはちがって遙かに優れた者であるからという理由で、驚嘆されたのである。だが、さらにいろいろの技術が発明されてゆき、そしてその或るものは実生活の必要(アナンカイア)のためのものであり、他の或るものは楽しい暇つぶしディアゴーゲー〔娯楽〕にかんするものであるが、これらの場合にいつでもひとは、この娯楽的な術の発明者の方を、前者のそれよりも、その認識がなんらの実際的効用をもねらっていないからという理由で、いっそう多く知恵ある者だと考えた。そこからさらに、すでにこうした諸技術がすべてひと通り備わったとき、ここに、快楽を目指してのでもないがしかし生活の必要のためでもないところの認識エピステーマイ〔すなわち諸学〕が見いだされた、しかも最も早くそうした暇のある生活を送り始めた人々の地方において最初に。だから、エジプトあたりに最初に数学的諸技術がおこったのである。というのは、そこではその祭祀階級のあいだに暇な生活をする余裕が恵まれていたからである。(岩波文庫 形而上学(上)p24 出訳)
アリストテレス形而上学981b10 あたり
さて、以上のことは私一人で考えたことでは実はないのは言うまでもない。だが、一昨日に提起された諸々の問いに対する一つの回答でありうるとみなしているのは私であるということを申告しておく。