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同じ素人であるところの、子どもと哲学するとは?老人と哲学するとは?

昨日は子どもの哲学のワークショップに午後に行き「子どもと哲学するとは?」、そのあと夜には哲学塾カントに行き「老人と哲学するとは?」を問うことになった。後者が前者を照射するその仕方はなかなか面白いものでありうる。

Sharing experiences in philosophy for/with children in Asia 

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闘いの対話か配慮の対話か

ワン氏の発表およびその応答の中で最も印象的だったものを一つ挙げるなら次の点である。西洋哲学が培ってきた「闘い」としての対話であると理解しているワン氏は、その批判として「傾聴」という対話がありえ、我々アジア人はそれに適しているだろう、ということであった。これに対して、河野氏が応答して、ある意味で傾聴することに過度になっている我々にとっては、「闘い」としての対話を学ぶべきであろう、と言ったのであった。なぜこれが私にとって印象的であるかは、中島義道が哲学の西洋哲学の伝統を学ばなければならない、と(あえて)主張することの趣旨であるからだ。

この点は、ワン氏のあとに発表した清水氏の発表の際に私は指摘したかったのだが、なんというか、中島義道を代弁するようになりそうな気がして、尻込みしてしまった。そんなことを言うと知的権威に寄り添うことでセーフティを害するとその場では思ってしまったが、あとで考えてみるとそんなことはなかったと反省している。まさにこういうとき、「闘い」としての対話は、私にはまだまだ身についていないのだと痛感する。

対話における時間の流れ

清水氏の発表の個々の論点については書ききれないのでここに書くのはやめておく。一つ気付いた点を指摘しておく。それは、発表が二言語でなされることによって「ゆっくり」な対話が出来たのではないか、ということである。(https://twitter.com/shogoinu/status/1228839874230276096 ) 確かにだらだらと長くなったかもしれないが、その間に、少なくとも私は繰り返し中心にある問いに立ち戻ることができた。だから、私から見れば、的を得ていないと思われた問いや発言が、時間とともに流れ去っていき、問いは自然と洗練されていったのであった。ゆっくり話す、ゆっくり考える、と言われる対話は、こういう仕方でも実現できるのか、と思った。つまり清水氏は時間を味方につけていたわけなのだ。

休み時間には「対話屋ディアロギヤ」のショップカードを渡すなど営業活動をした。学会やワークショップで営業活動をするのは、ちょっと気が引けるなあと思いつつ、やれることは何でもやるべきだろうと思いつつ、やったのであった。

老人たちの対話

さて、そのあと、当の中島氏の主宰する塾「哲学塾カントhttp://gido.ph/」の講義を受けに行った。この日はHiという名の講義が19.30からあり、カントや対話についての研究をしている檜垣良成(筑波大学のウェブページ)氏がその講義を担当している。講義の題目は主に、西洋哲学史における実在(レアール)とは何か、ということなのだが、講義の形式は実は「講義」ではなくて、対話することが許されている、哲学塾カントの講義の中でも少し特別なものである。

そこに出席しているのは、子どもとは真逆の、ほとんどが老人であって、発言するのも老人ばかりである。なるほど20代や30代の人も参加はしているがそういう人々はほとんど発言しない。思うに子ども哲学などを知っていたらすでにこの時点で何かが改善すべきであるとも思うのであろうが、なぜ老人たちが(誠に軽蔑的な書き方で失礼!)若い人々の目を弁えず、それもど素人の哲学的知識や対話技術でもってああだこうだと話そうとするのかを観察し分析するのには、格好の機会であることは言うまでもない。私としても、こういう場所がなくなっては困ると切に思っている。(本当に!)

哲学的ポイントを見事に外す老人

具体的には、バークリーの「人知原理論」の初めのほうの数説を読んだ上で対話をした。檜垣氏は、バークリーが物質を否定する論理を伝えようとしたわけだが、ここで私にとってはとても面白い現象が起こった。檜垣氏がバークリーの言っていることの意味は分かるか、この哲学的ポイントは分かるか、と問いを投げかけたところ、揃いも揃って老人たちが皆何らかの異を唱えた。彼ら老人は実は哲学や科学の知識を持っている人々なのであって普通の意味での知識人なのであるが、少なくとも私から見て、バークリーの哲学的ポイント、そしてそのことを伝えようとしている檜垣氏のポイントを、全く見事に的を外していた。檜垣氏は、それゆえに、何度も同じことを繰り返し説明し、質問があるたびに、その質問者の言葉遣いを訂正したり質問者に理解してほしい点を質問者の言葉を使ってまでも説明したのに、それでも、非常に重要な哲学的ポイント、つまり物質が不活性であることをなぜバークリーが主張しているのか、という点が、美しいぐらいに伝わっていない。挙げ句の果てには、ずっと黙って聞いていた中島氏が痺れを切らして、「議論が活発になるのはいいが、どうしてそんな単純な哲学的ポイントがこんなに伝わらないのか」と切り出して対話は大混乱になって時間が来て終了した。

擬似修論指導?

ある意味では対話に極度に真摯でありとても親切な中島氏と檜垣氏の二人は老人たちと私を居酒屋に連れていって、あたかも修論の指導かのように、哲学の対話はこうするのだああするのだ、こうじゃいけないああじゃだめだと書い言っていた。先輩や先生にこう指導された、あんなことがあっただからこうするべきだなどと渾々と説いていた。いや、一体この場は何なのだろう、どういう席なのだろうと、私は終始不思議な夢の心地がしたが、もちろん楽しんだ。そして、ここでは無礼になることを断って私の問いとするところも話した。

子どもは説明抜きに射当てるが、老人は全てが与えられてもなお射損なう

私の問いとするところとは、一番はじめに書いたことだ。飲み会では老人たちに向かって次のように言った。「子どもはむしろ説明抜きに、哲学的なポイントや問いを言い当てるのに対して、老人たちはどうしてむしろ全ての説明が与えられてもなお、哲学的なポイントや問いを言い当てることができないのか」ということだった。中島氏と檜垣氏は、「そう、それなのだ。それが分かりゃあ苦労しない」くらいなことを言っていたのだが、老人たちは、「何のことでしょう、はて」という顔をしていた。いや、本当に謎だ。なぜ哲学の問いは、人々をこういう仕方でわけてしまうのか。

とはいえ、中島氏や檜垣氏、そして私のような若造にこれほど無礼なことを言われてもなお、何か哲学の論ずるところに関心を持ち続けているこれらの老人は、やはりとても稀有な存在なのであろうといたく感動もする。これは皮肉でもあるのだが、そういう老人たちを尊敬している。実際、他の老人といえば、こんな無礼には耐えられないし、そもそも話を飲み会にまでいってこんな嫌な話など聞くなどということはないのだから。

これは檜垣氏も中島氏も言っていた。とくに中島氏は、「あなた方のような人々はたくさんいますが、実際には哲学に触れもしない。それなのに、あなた方は哲学に何かあると思って塾に来たり哲学書を読んだりしている。哲学なんかやめて社会学でも何でもやればいいけど、哲学してもいいんですよ。」みたいなことを老人たちに言い放っていた。いつものツンデレの炸裂であった。さすがだった。

何かまとめがあるわけではない。ただ、言っておきたいのは、同じ哲学の素人であるところの「子どもと哲学するとは?」の問いと、「老人と哲学するとは?」の問いは区別しながら、しかし切り離されずに問われるべきではないか、と思ったのだった。

The Third Man(木本)
The Third Man(木本)

Y先生には「君には言いたいことが何かあるのは分かるけれど、それが何であるのか分からない」と言われ、H先生には「何かの本質をつかんでいるとは思うけど、それが何かってことだよね」と言われたと話すと「それはそのままthe third manさんのキャッチフレーズになりますね」と。

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Y先生には「君には言いたいことが何かあるのは分かるけれど、それが何であるのか分からない」と言われ、H先生には「何かの本質をつかんでいるとは思うけど、それが何かってことだよね」と言われたと話すと「それはそのままthe third manさんのキャッチフレーズになりますね」と。

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