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第3回新宿哲学カフェ 2020/02/27

はじめての人のための哲学カフェ です。

対話が苦手な人、対話なんてしたくないと思っている人、哲学なんて関係ないと思っている人たちに向けた、哲学カフェです。

そのほかにも、こんな方々のご来店をお待ちしております。

  • これまでに哲学カフェ・哲学対話に参加したことがない人
  • 哲学や対話という言葉も聞いたことがない人
  • 哲学カフェって何をするところ?と思っている人
  • 哲学対話って何か役に立つの?どんないいところ、悪いところがあるの?と思っている人
  • 哲学対話って何?と思っている人
  • 哲学対話を体験するよりも前に、どんなものなのか説明してほしい人
  • 哲学カフェには参加してみたいけど、知らない人がたくさんいるところには行きたくない人
  • 哲学対話は面白そうだけど、経験者ばかりが参加していそうなところに行くのは不安だと思っている人
  • なんとなく実践にはじめて参加する勇気がない人

注:いわゆる哲学カフェとはちょっと違います。違いについては「新宿哲学カフェ」についてのページをご覧ください。 

新宿哲学カフェ(哲学カフェ or 哲学カウンセリング)

 日本における多くの哲学カフェはハワイにおける実践やフランスのマルクソーテの影響を強く受けたもので、円になって座り、コミュニティーボールを交換して対話をする、という特徴があると言われています。対して、主にヨーロッパ大陸では、哲学カウンセリングという実践が主流と言われることもあります。個人やごく少人数での行われる相談や商談のイメージに近いものかもしれません。

 新宿哲学カフェは、両者の中間を目指しておりますが、現状では、どちらかといえば、哲学カウンセリングに近い形式です。もっとも治療やケアを目的とするよりは相談や傾聴に重きをおきますので、カウンセリングというよりも、哲学コンサルティング(相談)というべきかもしれません。

 哲学カフェか、カウンセリングか、はたまたコンサルティングか、という呼び名はさておき、実際にやることはシンプルです。まずはお話をよく聞いたうえで、哲学に結びつきうるお客様自身の問いを一緒に探すことです。これによって、はじめての人にも、哲学とは何か、が少しは分かってもらえると考えているからです。

概要

日時2020/02/27 木曜日 2pm – 6pm
店番木本
場所160-0023 東京都新宿区西新宿7-22-11 金重ビル1B
いつもの
メニュー
哲学カフェとは?
対話とは?
問いとは? など
日替わり
メニュー
対話を求めるのは社会的に上の立場の人か、下の立場の人か。
料金500円/30分
(子ども・学生無料。SNSのリアクションなどで無料や割引の特典あり。)
だるまふどうさん」へのSNSリアクションで無料の特典あり。

新宿哲学カフェについて詳しく知りたい方は、是非、こちらをお読みください。もちろん、お読みならなくとも、新宿哲学カフェにはお越しいただけます。

皆様の初めての哲学カフェへのお越しをお待ちしております。

店頭に張り出した告知です。

お問い合わせはこちらから。

対話の金銭問答その三

問い:
対話するのにお金をもらうとすると、お金が払えない人を排除してしまわないか

答え:
全くその通りである。

お金を払ってまで対話しないような人を、対話しようとする人は排除すべきである。また逆に、対話するのにお金を貰えば、お金を払う人なら誰でも受け入れるという条件を提示していることになるのを忘れてはならない。

補足

「お金が払えない人を排除してしまわないか」というのは問いの形をしていますが、単なる懸念です。どんな懸念であるかを考え、突き詰めていくと、吐き気を催すような気持ちの悪いものに出くわします。

子どもからお金をとるべきではない?子どもにはお金を払うべきである

まず、お金が払えない人の代表として、子どもを考える人がいるでしょう。子どもに対話を教えるのに、子供が対話を学ぶのに、子どもが対話をするのに、お金がかかってはいけない、と多くの人は考えているかもしれません。私は、しかし、全くそんなふうに考えていません。根本からそんなふうな考え方をしていません。そもそも、子どもには対話を教える必要はなく、子どもから大人が対話を学ばなければならないと考えているからです。お金が払えない人を排除してしまう、などと懸念している人は、すでにして子どもに対話を教えてあげるということを仮定した上でそんな愚かな懸念をしている。そもそも、そんな仮定を取り払う方が先決です。

さて、対話をしたいという子どもが現れれば、その子どもと対話をするまでのことです。子どもが対話屋に尋ねて来れば、もちろん無料で対話するでしょう。子どもからは、私はお金をとるつもりは全くありません。

しかし、だからといって子どもにお金をあげるつもりもありません。というのも、子どもにお金をあげたところで全く子どもは得をしないからです。おそらくは、そのお金を受け取ることになる、親が得をするでしょう。そうであるとすれば、やはり、私は、その親からお金をとるべきでしょう。親でなくとも、保護者から、お金をとるべきでしょう。というのも、子どもが対話する機会を、その保護者や親は与えることができず、その上で子どもが対話屋を尋ねてきたということなのですから。

子どもに対話の場を与えることができない大人からお金をもらうべきである

その保護者や親ができないことで子どもが求めることを、親や保護者に代わって対話屋は対話をその子に与えるのですから、保護者や親から報酬を得るのは当然でしょう。

そもそも、お金を取るとお金を払えない人を排除してしまう、という発想は、対話を教育するという前提に立ち、教育の機会はすべての人々に平等に与えられるべき、という思想から来ている。私はこれに反する考えがありますが、話が大きくなり過ぎるのを避け、次のことを言うにとどめておくことにします。なるほど対話が存在する、ということを知らせるだけのことなら、強制的に子どもや人々をかき集めて必要最低限のことをすればよいが、それ以上のことをする必要はない。

対話を普及しようという善行に関してのあまりに無知な熱狂

さて、私のもっとも言いたいことは、こうです。すなわち、金銭を得ないことによって代わりに何か他のものを得ているのではないか、ということです。何か他のものとは、尊敬だとか道徳心だとかです。私に吐き気を催させるのは、金銭を得ない代わりに人々に尊敬という名の隷属根性を植え付けることです。つまり、金銭の代わりに「心」を取り上げることです。お金をもらわずに対話をすべての人々に平等に与えようとするその心性のうちに、善行に関する無知な熱狂が、透けて見えるというよりはむしろ剥き出しになっている。そのことに対する感度がない人の多さに私は驚きを隠せません。

トロッコ問題が事件になったのは、哲学が学校には適さないということを自己申告しているからである

人々を強制的に集めておいて対話という存在を知らせるというのは、暴力にも近いのは明らかなことではないのでしょうか。その暴力にも近いことに対する自覚がなければ暴力はエスカレートしやがて本当に暴力になってしまうでしょう。現にそれが誰の目にも明らかな形で事件になることさえあるのです。トロッコ問題が教室で取り上げられ、それが事件を起こしたことがあったと記憶しています。それが私に何を示しているのかといえば、やはり哲学や対話は学校という強制された場所で行われることができるものでは決してない、ということです。あの事件は、子どもたちや教師たちに関わる問題というよりも、哲学そのものが学校という場所で教えられるべきではないことを訴えたものであると私は考えます。

山口県岩国市立東小と東中で、「多数の犠牲を防ぐためには1人が死んでもいいのか」を問う思考実験「トロッコ問題」を資料にした授業があり、児童の保護者から「授業に不安を感じている」との指摘を受けて、両校の校長が授業内容を確認していなかったとして、児童・生徒の保護者に文書で謝罪した。

https://mainichi.jp/articles/20190929/k00/00m/040/044000c

暴力に近いものが行われており、それに加担しているという教師の自覚のなさはもはや恐るべきものです。そのことがすでに暴力ではないか、と思われるほどです。学校に勤務するとか教育機関に所属して人々を教えることは、そうした暴力に加担することです。にもかかわらず、そのように感じるのは、ほんのごくわずかの人だけのようです。私がこれを知ったのは、流行であったところのポストモダンの思想やニーチェやフーコーからなのですが、こうも人々がまったく違う行動に出ているところをみると、私の誤解である確信が強くなってきます。しかし、誤解であることが、私の洞察の価値を下げることにはまったくならないと自負しています。いや、洞察というよりはむしろ、ほぼ身体的な感覚です。というのは自ずと看取され看取されるとこのように書き記すことによって行為してしまうからです。

学校や教育組織の一員になるのは、半暴力組織の一員になることである

ともかく、人々を強制的に、それも非常に多くの人数を、集めている学校や教育組織は、それだけで十分巧妙な仕方で暴力をふるっているのに、その一員となって加担しようとする発想は私には本当によく分かりません。それも自らの生活を守るために必要に迫られてそうするならまだ分からないこともありませんが、私の観察するかぎり、自らの生活を守ることについてよく考えもしないで思い込んでいるだけです。大学や教育機関に職を得なくても自分で生きていく道はあるし、ないならもっと考えるべきなのに、そのような重要な事柄に対しての考えを放棄して、因習や名誉や惰性にたぶらかされて半暴力組織の一員に自覚もなしになっているわけです。そうした人から主体性や自分で考えることや思考力を学ぶなどというのは、不可能な話です。まったくちゃんちゃらおかしな話です。大学や教育機関で教えられる内容がたしかにそれに反するものであったとしても、結局はそんな組織の中にいることで思考を停止しているところを示しているわけですから、そのような人々に子どもたちが長い時間囲まれて弊害が起こらないわけがない、と私は素直にそう思います。

さて、このことについてもっと書きたいことがありますが、どれほど私がこれを書き記しても読んでくれる人さえわずかであり、読んでくれても理解してくれる人はもっとわずかであり、理解しなかったら私と対話しようと思う人などはもっともっとわずかであればこそ、「私」がこれを言い続ける価値があるであろうと信じております。そのことを告げて、お金を取ることでお金を払えない人々に対して対話を提供できなくなる、という問いに、善行を求める無知な熱狂を嗅ぎ取らざるをえないことの補足をやめにします。

さて、以上のことは、人々を挑発するために、あえて辛辣にしかも悪意を持って書いていることを、告白しておきます。どうか、皮肉を理解していただけますよう、お願い申し上げます。

The Third Man(木本)
The Third Man(木本)

Y先生には「君には言いたいことが何かあるのは分かるけれど、それが何であるのか分からない」と言われ、H先生には「何かの本質をつかんでいるとは思うけど、それが何かってことだよね」と言われたと話すと「それはそのままthe third manさんのキャッチフレーズになりますね」と。

対話の金銭問答その二

問い

対話なんて役に立たないものを仕事にできるのか。

答え

できる。なぜなら (2.1)対話が仮に役に立たないとしてもそのもの自体で価値をもつから。さらに、(2.2)対話が役に立たないというのは誤解である。対話はあらゆることに役に立つ。社会的に善いことにも、悪いことにも役に立つ。

補足

対話の悪用についての認識

とりわけ、対話は悪用されるという点について補足したいと思います。対話は社会を作っている基礎的なものなので、世俗の善いものに役に立つように用いることができるのは当然ですが、逆に、悪いものに役に立つように用いられていることも、知る必要があるでしょう。むしろ、対話についてよく知らないと、自らが対話を知らず知らずに悪用してしまっていたりすることがある。

たとえば職務上避けることのできない、たとえば従業員への叱責だとかクレーム客に対する処置だとか業務提携先との齟齬に際して生じる争いの場面では、私自身、対話をある意味では意識的に悪用しています。あまり詳しく書かない理由があるのですが、従業員にネガティブな感情を植え付けるために質問攻めにしたり、クレーム客を消耗させるような問い投げかけたり頓珍漢な答えをしたり、争いの場面では相手方の不利になるような言説へと導く論理を展開したり…、というようなことです。対話の本質が何であるかを私は知っているので、対話を明らかに悪用することができるのです。そして、悪用しているという認識も持っている。ですが、対話についてよく知らなければ、これらのことを悪用とは考えずに、従業員に対する経営者の振る舞い方、クレーム処理の技術、論争の作法などというむしろ肯定的で積極的な能力を持っているということで済ませてしまうことになるでしょう。

そうした能力は、対話から生じるものなのですから、それに自覚的・意識的であるということ能力を誤った方向に用いないためにも非常に重要でしょう。その重要性が理解されるなら、対話が役に立たないなどとは思いもしないことではないかと思います。

The Third Man(木本)
The Third Man(木本)

Y先生には「君には言いたいことが何かあるのは分かるけれど、それが何であるのか分からない」と言われ、H先生には「何かの本質をつかんでいるとは思うけど、それが何かってことだよね」と言われたと話すと「それはそのままthe third manさんのキャッチフレーズになりますね」と。

対話の金銭問答その一

問い

何にも役に立たないと思われている対話になぜ人々が金を払うであろうか。

答え

なぜなら対話それ自体に価値があるから。

また、対話は何の役にも立たないのではなくて、全ての役に立つ。

問答についての補足

対話を娯楽と置き換えて考えてみる。

人々が対話することにそのものに価値があることを認めてくれればお金を払ってくれることは不思議ではありません。対話を他の娯楽に置き換えて考えてみれば明らかでしょう。映画やスポーツは何かに役立つのではなく、それ自体で価値をもっているから、人々はそれにお金を出して見に行ったりやってみたりするのです。対話も、対話することに価値があるということが人々に知られれば、お金を払ってまで対話したいという人がいるのは自明です。対話する場や環境が特別に備えられなければならないとしたらそれはなおさらでしょう。草野球をするのだって、グローブやユニフォームなどの道具を揃え、人々を集め、さらには野球のできる場所を借りる必要があるのですから。

対話を健康と置き換えて考えてみる。

対話を娯楽と置き換えるのが不自然であるのならば、対話を健康や体力と置き換えてみてみるとよいでしょう。健康であればこそ、様々な運動をすることができたり、遠くに出かけることも、美味しいものも食べることができます。しかしながら、健康が害されれば、ある限られた運動しかできず、行動範囲は狭められ、食事制限もしなければなりません。こうしたことから、健康は、健康そのもので価値があるということが認められています。対話は、そうした健康や体力のようなものです。

補足への補足

ところで、以上のことに関連してこんなことをよく聞きます。

1.1 対話することが他者のケアに、問題解決に、思考力の養成に、美的鑑賞に役立つとかいうのなら、対話をするのにお金をだしてまでするが、そうしたことに役立ちそうもない対話になんかお金を払うまでのことはない。

さらには、

1.2 対話するだけなら学ばなくたってできる。対話するのは簡単なことなのだから。そんな誰にでもできることをわざわざお金を払ってまでする必要はない。

これらについて、少し考えてみることにします。

対話なんぞにお金を払ってするまでのことはない(1.2)への反論

1.2のもとになっているのはこんな考えです。すなわち、対話が単純でもっとも基礎的なものであることから、それを誰でもいつでも任意の目的でどんな場面でも行うことが、誰に教わらなくてもできる。それゆえに、そんなものにお金を払うまでのことはない。至極あたりまえのように聞こえる見解ですが、救い難い無知に陥っていることを告げてあげなければなりません。しかし、あまりにも深い無知に陥っているので、説得するのが無駄ではないかと私は思います。

まず、ほとんどありえない場合を想定します。1.2のような見解を持つ人で、本当に対話ができる人という想定です。その人は、たしかに対話をするのにお金を支払う必要はない。しかもその人に対して私が改めて説得することは全くない。ですから対話について何であれ、こちらが説明するのは、もちろん無駄です。

けれども、1.2のような見解を持つ人は、対話することが実はできていない人です。その数は実はあまりにも多い。私の見る限りご老人方や他人を動かす言説を心得ている人々など、話を聞くことができないほぼすべての人々は間違いなくこの人種です。その人々たちにこそ、対話は必要であろうと思うのですが、その人々に直接対峙して対話の重要性を説くことは、もはや不可能です。というのも、度はずれな勘違いつまり並外れた無知が、もはや対話が必要であるという対話をすることすらも、拒絶しているのだからです。

対話の必要性を説くのは無駄であるばかりか有害である

 そのような人々に対話の必要性を説くのは無駄であるばかりか有害であることを知ることのほうが圧倒的に重要かもしれません。というのも、対話の重要性を少しばかりは知っている人に対話の知識や技術や体験の場を提供するのにも時間や労力がかかるのですから、無知な人々に対して優先的に対話の必要性を説くならば、限られた時間や労力が、対話を必要とする人々へ届けられないことになってしまうでしょう。

 ところで、無知な人々も、権威ある人や数多くの人々が繰り返し対話の重要性を説けば、説得される可能性はある。ですがそれは優先事項ではありません。まずなすべきことは、対話の必要性を感じている人に対話を届け、必要性を全く感じていない方々については、放っておく、放っておくのも難しければ排除しておく、ということでしょう。

対話なんか役に立たないのだから金を払う必要はない(1.1)への反論

対話は悪用すら可能な万能薬である

 対話が役に立ちそうもない、ということに関しては、まったくの間違いであることを先に言っておきましょう。むしろ、対話はもっとも基礎的なもので、何にでも役に立つ万能薬だとさえ言っていいくらいのものです、悪用すら可能な。ですからその点で、先ほども言いましたが、対話は健康のようなものです。健康であるから、たとえば仕事ができ、趣味ができ、運動ができ、買い物にも行け、旅行に行ったりすることができます。しかし、健康でなければこれらのことが制限され、あるものは全くできなくなったりします。健康が少し害されれば運動することは制限され、健康が完全に害されてしまうと運動することが全くできなくなってしまいます。対話もまたそういうものです。対話が全然できなければそもそもコミュニケーションも自分で考えることもできなくなりますし、対話がほんの少ししかできないとなれば、他者のケアもそれほどの程度でしかできず、問題解決も限られた範囲でしかできませんし、美的鑑賞も貧寒なものしかできない。ともかく、我々は実は社会を根底的な部分で対話によって構成しているので、対話ができなかったり制限されていると、社会活動の様々な場面で不都合や不自由が出てくるのです。

 ですから、対話は何かの役に立つというよりはむしろ、何か我々の不都合や不自由な社会活動があるとすれば、それは対話が機能していないとか対話が制限されているとか対話が不全を起こしている、と考えるべきです。にもかかわらず、そのことを我々は知らないのです。我々は普段は知らないままに、様々な社会活動を行っていて、いろいろな問題に巻き込まれては何らかの苦し紛れの解決を余儀なくされています。役に立つばかりのものが要求されているために、役に立たないものを蔑ろにし、苦しんでいたり悩んでいたりするわけです。その蔑ろにされているものが、対話であり問いなのです。

 何かの役に立つということを、とりあえずは一旦脇に置いて、問いや対話を取り戻そうとすることが必要なのです。そのことをするのに対価を支払ってまでするのはあたりまえでしょう。その道の専門家に見てもらう必要があるからです。その道の専門家はすでにそれに時間や労力を注ぎ込み、必要としている人々に届けるための知識や技術や経験をもっているですから。

医者は有用性を度外視し、患者に健康を取り戻す

 ここでも健康と対話は同類です。健康を作り出すのは医者ですが、医者はとりあえずあなたがどんな活動するかなぜ健康を必要としているのか、健康を何のために役立てようとしているかは脇に置いた上で、あなたを健康にするようにする。それが医者の専門であり医者の果たすべき職務だからです。対話もまた同じことが言える。医者の立場となるのは対話屋ですが、対話屋は、対話をあなたがどのように生かそうとしているか、何のために用いようとしているか、なぜ対話を必要としてるのか、ということを、とりあえずは一旦脇に置いて、対話そのものを提供することに努めるのです。それが、対話屋の職務です。これが、対話屋が、対話そのもののを提供することができる、ということです。そして、対話そのものが価値をもっているとはそういうことです。

 対話することそのものに価値を認めず、それに対価を支払う必要がないと考えているなら、それは健康になるのには自分で健康管理をしっかりし病気にかかっても民間療法でなんとか治そうとするというのに似ていると思います。また対話を得るのに安ければ安いほどよく最低限の支払いしかする気もないので簡単に手に入るものでよいと考えるのは、ワケあり物件を探して住もうとするのに似ているのでしょう。

The Third Man(木本)
The Third Man(木本)

Y先生には「君には言いたいことが何かあるのは分かるけれど、それが何であるのか分からない」と言われ、H先生には「何かの本質をつかんでいるとは思うけど、それが何かってことだよね」と言われたと話すと「それはそのままthe third manさんのキャッチフレーズになりますね」と。

対話の金銭問題

対話の金銭問題とは次のようなものです。

第2回新宿哲学カフェ 2020/02/24

はじめての人のための哲学カフェ です。

対話が苦手な人、対話なんてしたくないと思っている人、哲学なんて関係ないと思っている人たちに向けた、哲学カフェです。

そのほかにも、こんな方々のご来店をお待ちしております。

  • これまでに哲学カフェ・哲学対話に参加したことがない人
  • 哲学や対話という言葉も聞いたことがない人
  • 哲学カフェって何をするところ?と思っている人
  • 哲学対話って何か役に立つの?どんないいところ、悪いところがあるの?と思っている人
  • 哲学対話って何?と思っている人
  • 哲学対話を体験するよりも前に、どんなものなのか説明してほしい人
  • 哲学カフェには参加してみたいけど、知らない人がたくさんいるところには行きたくない人
  • 哲学対話は面白そうだけど、経験者ばかりが参加していそうなところに行くのは不安だと思っている人
  • なんとなく実践にはじめて参加する勇気がない人

注:いわゆる哲学カフェとはちょっと違います。違いについては「新宿哲学カフェ」についてのページをご覧ください。

概要

日時2020/02/24 月曜日 2pm – 6pm
店番木本
場所160-0023 東京都新宿区西新宿7-22-11 金重ビル1B
いつもの
メニュー
哲学カフェとは?
対話とは?
問いとは? など
日替わり
メニュー
対話の金銭問題について
料金500円/30分
(子ども、学生無料、SNSのリアクションなどで無料の特典あり。)

新宿哲学カフェについて詳しく知りたい方は、是非、こちらをお読みください。もちろん、お読みならなくとも、新宿哲学カフェにはお越しいただけます。

皆様の初めての哲学カフェへのお越しをお待ちしております。

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第1回新宿哲学カフェ 2020/02/20

はじめての人のための哲学カフェ です。

対話が苦手な人、対話なんてしたくないと思っている人、哲学なんて関係ないと思っている人たちに向けた、哲学カフェです。

そのほかにも、こんな方々のご来店をお待ちしております。

  • これまでに哲学カフェ・哲学対話に参加したことがない人
  • 哲学や対話という言葉も聞いたことがない人
  • 哲学カフェって何をするところ?と思っている人
  • 哲学対話って何か役に立つの?どんないいところ、悪いところがあるの?と思っている人
  • 哲学対話って何?と思っている人
  • 哲学対話を体験するよりも前に、どんなものなのか説明してほしい人
  • 哲学カフェには参加してみたいけど、知らない人がたくさんいるところには行きたくない人
  • 哲学対話は面白そうだけど、経験者ばかりが参加していそうなところに行くのは不安だと思っている人
  • なんとなく実践にはじめて参加する勇気がない人

注:いわゆる哲学カフェとはちょっと違います。違いについては「新宿哲学カフェ」についてのページをご覧ください。

概要

日時2020/02/20 木曜日 2pm – 6pm
店番木本
場所160-0023 東京都新宿区西新宿7-22-11 金重ビル1B
いつもの
メニュー
哲学カフェとは?
対話とは?
問いとは? など
日替わり
メニュー
A 哲学カフェの日替わりメニューとは何か。
B 西洋哲学を学ぶ魅力は何か。
料金500円/30分
(学生無料、SNSのリアクションなどで無料の特典あり。)

新宿哲学カフェについて詳しく知りたい方は、是非、こちらをお読みください。もちろん、お読みならなくとも、新宿哲学カフェにはお越しいただけます。

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とりわけ西洋哲学の伝統を学ぶ意義は何か

しばしば以上にほとんどの場合、官庁や病院や大企業でさらにはともかく誰かに雇ってもらうなどという仕方であくせく働いていては、クソ真面目なりすぎて哲学ができなくなると感じる。それもあって私は自営業・自由業にこだわっている。

忙しい日々のうちに湧いてくる疑問や人間関係での悩みや組織への反発は哲学の材料としては格好のものではあろう。しかし、それ以上に、哲学にとって本質的なことをクソ真面目さが害してしまうように思う。

西洋哲学の伝統のうちには遊びやふざけがある

勤勉さや真面目さはたしかに哲学にとって不可欠である。勉強もしなければいけないし訓練もしなければならない哲学には必須のものである。けれども、だからといってふざけてはならないわけではない。それどころか、ふざけや遊びこそが哲学にはぜひとも必要なのだ。それがなくなってしまっては哲学が宗教や神学になってしまうだろう。哲学が宗教や神学と違って固有のものたりえているのは遊びとふざけが内在しているからだ。少なくとも私が西洋哲学の伝統から常に感動と驚嘆とをともなって学ぶところは、真剣にふざけることができるというところだ。これが子どもの哲学とギリシア哲学には著しいということを付け加えておきたい。

形而上学の問いは人を救わないが、だから何なのだ

仏典のある一説に次のようなことがあるのを知って、宗教とは異なる西洋哲学が私にとってとくに魅力的な理由がふと分かった気がした。出典を明記できないので正確さを欠くのだが、形而上学の問題、なぜ世界が存在するのか、精神だけでなく物質の世界があるのか、という問いを考えところで救われることはない、とブッダは言ったらしい。なるほど救いを求めるならばそんなことを問い続けるべきではないかもしれないが、救いなんかよりも、世界がなぜあるのかの不思議さを問うほうが圧倒的に偉大ではないか、と私は思った。西洋哲学など学ぶ「意義」は、私にはもちろんない。だが、西洋哲学を学ぶ魅力はたしかにある。それは、不思議さに対する感度と執念とそれら全てを含んでもなおのこる遊びやふざけである。

西洋哲学を学ぶ「魅力」が以上のようなものにあると信じている私は、それゆえ、教育者が西洋哲学を学ぶ意義があるとすれば、私が感じている魅力にこそあるだろうと思うわけである。官庁や病院や大企業と同じ類のものである日本の教育機関で、たとえば儒学や仏教を学ぶことによっては、遊びやふざけがクソ真面目さによって駆逐されてしまう。だからこそ、西洋哲学を学ぶことによって、真剣さ真面目さと両立するどころか真剣さや真面目さに支えられた遊びやふざけがあるの知る意義があろう。

スコレー、ディアゴーゲー

学校の語源がスコレーすなわち間暇であることが、それをいくらか示しているとは言えないだろうか。スコレーと言われている箇所がアリストテレスの形而上学にあったと思って探してみたが見つからなかったので勘違いだったかもしれない。しかし、次の箇所でも、上に言ったことが十分に現れていることが分かるだろう。

それゆえに、最初に、常人共通の感覚を超えて、或るなんらかの技術を発明した者が、世の人々から驚嘆されたのも当然である。それも、ただたんにその発明したもののうちになにか実生活に有用なものがあるからというだけではなくて、むしろそれを発明したほどの者は知恵のある者であり、他の人々とはちがって遙かに優れた者であるからという理由で、驚嘆されたのである。だが、さらにいろいろの技術が発明されてゆき、そしてその或るものは実生活の必要(アナンカイア)のためのものであり、他の或るものは楽しい暇つぶしディアゴーゲー〔娯楽〕にかんするものであるが、これらの場合にいつでもひとは、この娯楽的な術の発明者の方を、前者のそれよりも、その認識がなんらの実際的効用をもねらっていないからという理由で、いっそう多く知恵ある者だと考えた。そこからさらに、すでにこうした諸技術がすべてひと通り備わったとき、ここに、快楽を目指してのでもないがしかし生活の必要のためでもないところの認識エピステーマイ〔すなわち諸学〕が見いだされた、しかも最も早くそうした暇のある生活を送り始めた人々の地方において最初に。だから、エジプトあたりに最初に数学的諸技術がおこったのである。というのは、そこではその祭祀階級のあいだに暇な生活をする余裕が恵まれていたからである。(岩波文庫 形而上学(上)p24 出訳)

アリストテレス形而上学981b10 あたり

さて、以上のことは私一人で考えたことでは実はないのは言うまでもない。だが、一昨日に提起された諸々の問いに対する一つの回答でありうるとみなしているのは私であるということを申告しておく。

The Third Man(木本)
The Third Man(木本)

Y先生には「君には言いたいことが何かあるのは分かるけれど、それが何であるのか分からない」と言われ、H先生には「何かの本質をつかんでいるとは思うけど、それが何かってことだよね」と言われたと話すと「それはそのままthe third manさんのキャッチフレーズになりますね」と。

同じ素人であるところの、子どもと哲学するとは?老人と哲学するとは?

昨日は子どもの哲学のワークショップに午後に行き「子どもと哲学するとは?」、そのあと夜には哲学塾カントに行き「老人と哲学するとは?」を問うことになった。後者が前者を照射するその仕方はなかなか面白いものでありうる。

Sharing experiences in philosophy for/with children in Asia 

https://www.facebook.com/events/232952934398689

闘いの対話か配慮の対話か

ワン氏の発表およびその応答の中で最も印象的だったものを一つ挙げるなら次の点である。西洋哲学が培ってきた「闘い」としての対話であると理解しているワン氏は、その批判として「傾聴」という対話がありえ、我々アジア人はそれに適しているだろう、ということであった。これに対して、河野氏が応答して、ある意味で傾聴することに過度になっている我々にとっては、「闘い」としての対話を学ぶべきであろう、と言ったのであった。なぜこれが私にとって印象的であるかは、中島義道が哲学の西洋哲学の伝統を学ばなければならない、と(あえて)主張することの趣旨であるからだ。

この点は、ワン氏のあとに発表した清水氏の発表の際に私は指摘したかったのだが、なんというか、中島義道を代弁するようになりそうな気がして、尻込みしてしまった。そんなことを言うと知的権威に寄り添うことでセーフティを害するとその場では思ってしまったが、あとで考えてみるとそんなことはなかったと反省している。まさにこういうとき、「闘い」としての対話は、私にはまだまだ身についていないのだと痛感する。

対話における時間の流れ

清水氏の発表の個々の論点については書ききれないのでここに書くのはやめておく。一つ気付いた点を指摘しておく。それは、発表が二言語でなされることによって「ゆっくり」な対話が出来たのではないか、ということである。(https://twitter.com/shogoinu/status/1228839874230276096 ) 確かにだらだらと長くなったかもしれないが、その間に、少なくとも私は繰り返し中心にある問いに立ち戻ることができた。だから、私から見れば、的を得ていないと思われた問いや発言が、時間とともに流れ去っていき、問いは自然と洗練されていったのであった。ゆっくり話す、ゆっくり考える、と言われる対話は、こういう仕方でも実現できるのか、と思った。つまり清水氏は時間を味方につけていたわけなのだ。

休み時間には「対話屋ディアロギヤ」のショップカードを渡すなど営業活動をした。学会やワークショップで営業活動をするのは、ちょっと気が引けるなあと思いつつ、やれることは何でもやるべきだろうと思いつつ、やったのであった。

老人たちの対話

さて、そのあと、当の中島氏の主宰する塾「哲学塾カントhttp://gido.ph/」の講義を受けに行った。この日はHiという名の講義が19.30からあり、カントや対話についての研究をしている檜垣良成(筑波大学のウェブページ)氏がその講義を担当している。講義の題目は主に、西洋哲学史における実在(レアール)とは何か、ということなのだが、講義の形式は実は「講義」ではなくて、対話することが許されている、哲学塾カントの講義の中でも少し特別なものである。

そこに出席しているのは、子どもとは真逆の、ほとんどが老人であって、発言するのも老人ばかりである。なるほど20代や30代の人も参加はしているがそういう人々はほとんど発言しない。思うに子ども哲学などを知っていたらすでにこの時点で何かが改善すべきであるとも思うのであろうが、なぜ老人たちが(誠に軽蔑的な書き方で失礼!)若い人々の目を弁えず、それもど素人の哲学的知識や対話技術でもってああだこうだと話そうとするのかを観察し分析するのには、格好の機会であることは言うまでもない。私としても、こういう場所がなくなっては困ると切に思っている。(本当に!)

哲学的ポイントを見事に外す老人

具体的には、バークリーの「人知原理論」の初めのほうの数説を読んだ上で対話をした。檜垣氏は、バークリーが物質を否定する論理を伝えようとしたわけだが、ここで私にとってはとても面白い現象が起こった。檜垣氏がバークリーの言っていることの意味は分かるか、この哲学的ポイントは分かるか、と問いを投げかけたところ、揃いも揃って老人たちが皆何らかの異を唱えた。彼ら老人は実は哲学や科学の知識を持っている人々なのであって普通の意味での知識人なのであるが、少なくとも私から見て、バークリーの哲学的ポイント、そしてそのことを伝えようとしている檜垣氏のポイントを、全く見事に的を外していた。檜垣氏は、それゆえに、何度も同じことを繰り返し説明し、質問があるたびに、その質問者の言葉遣いを訂正したり質問者に理解してほしい点を質問者の言葉を使ってまでも説明したのに、それでも、非常に重要な哲学的ポイント、つまり物質が不活性であることをなぜバークリーが主張しているのか、という点が、美しいぐらいに伝わっていない。挙げ句の果てには、ずっと黙って聞いていた中島氏が痺れを切らして、「議論が活発になるのはいいが、どうしてそんな単純な哲学的ポイントがこんなに伝わらないのか」と切り出して対話は大混乱になって時間が来て終了した。

擬似修論指導?

ある意味では対話に極度に真摯でありとても親切な中島氏と檜垣氏の二人は老人たちと私を居酒屋に連れていって、あたかも修論の指導かのように、哲学の対話はこうするのだああするのだ、こうじゃいけないああじゃだめだと書い言っていた。先輩や先生にこう指導された、あんなことがあっただからこうするべきだなどと渾々と説いていた。いや、一体この場は何なのだろう、どういう席なのだろうと、私は終始不思議な夢の心地がしたが、もちろん楽しんだ。そして、ここでは無礼になることを断って私の問いとするところも話した。

子どもは説明抜きに射当てるが、老人は全てが与えられてもなお射損なう

私の問いとするところとは、一番はじめに書いたことだ。飲み会では老人たちに向かって次のように言った。「子どもはむしろ説明抜きに、哲学的なポイントや問いを言い当てるのに対して、老人たちはどうしてむしろ全ての説明が与えられてもなお、哲学的なポイントや問いを言い当てることができないのか」ということだった。中島氏と檜垣氏は、「そう、それなのだ。それが分かりゃあ苦労しない」くらいなことを言っていたのだが、老人たちは、「何のことでしょう、はて」という顔をしていた。いや、本当に謎だ。なぜ哲学の問いは、人々をこういう仕方でわけてしまうのか。

とはいえ、中島氏や檜垣氏、そして私のような若造にこれほど無礼なことを言われてもなお、何か哲学の論ずるところに関心を持ち続けているこれらの老人は、やはりとても稀有な存在なのであろうといたく感動もする。これは皮肉でもあるのだが、そういう老人たちを尊敬している。実際、他の老人といえば、こんな無礼には耐えられないし、そもそも話を飲み会にまでいってこんな嫌な話など聞くなどということはないのだから。

これは檜垣氏も中島氏も言っていた。とくに中島氏は、「あなた方のような人々はたくさんいますが、実際には哲学に触れもしない。それなのに、あなた方は哲学に何かあると思って塾に来たり哲学書を読んだりしている。哲学なんかやめて社会学でも何でもやればいいけど、哲学してもいいんですよ。」みたいなことを老人たちに言い放っていた。いつものツンデレの炸裂であった。さすがだった。

何かまとめがあるわけではない。ただ、言っておきたいのは、同じ哲学の素人であるところの「子どもと哲学するとは?」の問いと、「老人と哲学するとは?」の問いは区別しながら、しかし切り離されずに問われるべきではないか、と思ったのだった。

The Third Man(木本)
The Third Man(木本)

Y先生には「君には言いたいことが何かあるのは分かるけれど、それが何であるのか分からない」と言われ、H先生には「何かの本質をつかんでいるとは思うけど、それが何かってことだよね」と言われたと話すと「それはそのままthe third manさんのキャッチフレーズになりますね」と。